岡田事務局長 本日は、皆様、お忙しい中、鳴門市民劇場25周年記念講演会市民劇場の新たな展開に向かってにお越しいただき、誠にありがとうございます。25年もの間、地元での演劇を見続けることができたのは、会員の皆さんと素晴らしい作品を届けてくださる劇団、創造団体の皆さまのおかげと、心より感謝したいと思っております。鳴門市民劇場は、ホールがあるところに市民劇場をということで誕生いたしました。鳴門市文化会館で演劇を見続け、同館が休館となり、2021年5月よりこちらの会場にて公演会場を移すことになりました。コロナの感染拡大がその時始まっており、約1年が過ぎたあたりだったのですが、コロナ禍の中でさまざまな対策を実施しながら、この会場に来れば、ひととき作品の世界に浸り、厳しい状況の中でも心が癒されるというような、あの感動を覚えております。文化は決して不要不急ではないことを改めて実感もいたしました。以来、2か月に一度、これまでに15もの作品をこちらのホールで上演いたしております。舞台と客席がこれほどまでに近い会場というのは全国でもとても珍しいそうです。音響も良く、この素晴らしいホールで、劇団の方にも、こんな素晴らしいホールはなかなかないんだよというようなことで太鼓判もいただいております。現在は、藍住町およびその周辺の皆様にこの素晴らしいホールでの観劇から得られる感動を伝え、演劇文化をひ広げたいという思いで活動を続けています。この素晴らしいホールで、これから、これから先も演劇公演を続けていくためには、もっと多くの方々にもっと深く演劇の魅力を知っていただくことが必要だと思い、本日のような講演会を実施することといたしました。本日お招きしております文学座の俳優角野卓造さんと演出家の松本祐子さん、そして地元のパネリストのお3方の方のお話を聞いていただくことで、演劇ってこんなにも魅力があるんだ、心豊かにする力が演劇にはあるんだなということを実感していただけると確信しております。どうぞ最後までお楽しみください。
第1部「わが役者人生、演劇の魅力」
講師 文学座 角野卓造
司会 ただいまより第一部の講演会を開始いたします。俳優の角野卓造氏より、そこの垂れ幕にもございますように、「わが役者人生、演劇の魅力」でご講演を賜ります。講演に際しまして、角野卓造氏の紹介をさせていただきます。角野卓造さんは、1975年に文学座座員に昇格され、本年6月まで、劇団代表をお勤めでございました。初舞台は1972年の「飢餓海峡」で、1984年には第19回紀伊国屋演劇賞個人賞、1999年には第7回読売演劇大賞の最優秀男優賞、さらに2006年には第6回朝日舞台演劇賞秋元松代賞など、多数の演劇関連賞を受賞されておられます。2008年には、栄えある紫綬放送を受賞されておられます。舞台のほかに渡る世間は鬼ばかり、ほか多くのテレビ番組や映画でご活躍中でございます。鳴門市民劇場の例会には、2009年の「ゆれる車の音~九州テキ屋旅日記~」などで2回ほどお越しいただいております。それでは、角野様、ご登壇お願いいたします。皆さん、拍手で、盛大な拍手でお迎えください。それでは、角野様、よろしくお願いします。
角野卓造(敬称略 以下角野と略) 皆さん、こんにちは。角野卓造でございます。ありがとうございます。なかなか角野(かどの)て呼んでいただけなかったんですが、(笑)近藤春菜ちゃんのおかげで日本全国どこ行っても角野さんと呼んでいただけるようになりました。彼女は恩人です(爆笑)。本日は、鳴門市民劇場25周年、誠におめでとうございます。そして、その記念講演にお招きいただきまして、誠に光栄でございます。あんな立派なことを喋れるかどうかわかりませんが、いろんなお話を皆さんに聞いていただけたらと思っております。私、講演をこういう形で依頼されますと、1人で喋るのが嫌なもんですから、こんな立派な演壇でね、寂しいんですよ(笑)、なんかこう、1人でいるとね。だから、いつもインタビューというか、どなたか会話をしていただける方に出ていただいて、言ってみれば、テレビの徹子の部屋みたいな感じで、やっぱり演劇ってダイアローグですから、対話ですから、やっぱりその方が、ちょっと心が安らぐもので、今回は、青木晋さんに、インタビューの役をお願いしております。ご紹介します。青木晋さんです。今日は、徹子の部屋ならぬ、晋の部屋ということで(笑)、お話をさせていただこうかと思っております。青木さんもやっぱり立ちっぱなしだから、私も立ちっぱなしでやります。時々前に出たりなんかしますけども、どうもこの演壇がとっても偉そうに見えて嫌なので、あちこち行きます。お近くまで行くかもしれません(笑)。じゃあ、晋さん、よろしくお願いします。
青木(鳴門市民劇場幹事 以下省略) よろしくお願いいたします。ありがとうございます。今日、角野さんのご相手を務めさせていただきます青木でございます。どうぞよろしくお願いいたします。先ほど、総合司会から、ご略歴を紹介させていただいた時に、1975年に文学座の座員に昇格されたというところが始まったんですけども、ぜひ、お聞きしなければならないのは、演劇との出会い、角野さんの演劇との出会いということで、中学2年生の時に、大きな出来事があったという風にお伺いしてるんですけども、そこからお話を伺いたいと思います。
角野 大きな出来事ということでもないんですけれど、皆さんは、どうでしょうか。僕らは卒業生を送る会を予餞会と言ってやってましたけども、皆さんもそんなお言葉ご存じでしょうかね。中学2年の終わりの時に、3年生が卒業していくのを送る会ですね。それで、各クラスでいろんな催し物をやろうということで、うちのクラスの先生が芝居をやろうかっておっしゃって、この先生が、ま、内藤先生とおっしゃって、英語が教科だったんですけれど、素敵な先生で、教え方ももちろん上手だし、ちょっとこう、ダンディなところがあって、当時は、FENっていう、進駐軍の放送ですね、英語の放送、それ聞くためにイヤホンをいつも耳にさしてらして、そんな先生でも、とっても優しいっていうか、私らのクラスも問題児が1人いましてね、暴れたり、学校来なかったり、色々、そういう問題児が1人いたんですよ。そしたら、クラスの何人かを呼んで、あいつを見捨てないでくれ、みんなでなんとか助けてやってくれ、絶対にあいつは更生するからって、そういう優しいところもあって、もう大好きだったんです。もう、周りのクラスが羨むくらい、クラス中がもう、その先生のこと好きだったんで。やった演目は、フランスの劇作家のモリエールの短編だったと思うんですけど、喜劇のような。私たちの世代は団塊の世代と言いまして、人数が多いんですね。ベビーブームで生まれて、各クラス50人で、私の中学は11クラスぐらいありました。自分の学校の講堂には入りきれない、だから外の、私は当時、東京の千代田区というところの区立の中学でしたが、神田の方に共立女子大学という女子大学がありまして、大きい講堂があるんですね、2000人近く入る。そこを借りて予餞会をやったんです。私の初舞台はもう大舞台だったんですね。終わったらみんなが、面白いなお前とか、うまいなとかって色々言ってくれたんですが、全然そん時は何も気にならなかったんです、そんなことが。でも、学年末ですから、母親が呼ばれて、個人面談でその内藤先生とお話をして、うち帰ってきたら、内藤先生があなたのこの間のお芝居のことをものすごく褒めてらしたわよって一言言ったんですよ。僕はもうそれがものすごく嬉しかった。大好きな先生が僕に直接おっしゃるんじゃなくて、うちの母親に一言そうやってお話をしてくれた。これがなんともむちゃくちゃ嬉しくて。その後、3年生になってクラス替えになり、内藤先生のクラスじゃなくなりました。3年生になると、区立の中学ですから、高校受験のために、みんな、サークルや部活をやめて、受験勉強に専念するんですけど、演劇部が今年の秋の文化祭に出てくれないかって言って迎えに来たんです。私はみんな部活辞めて受験勉強に専念するのに、3年生から演劇部へ入っちゃったんです。成績がガーっとこう下がり、行きたい学校がありましたけども、残念ながら行けませんでした。でもまあ、それも1つのポイントかなと今思ってます。人生ってこう、あみだくじみたいにね、こっちから、始まりからこう辿っていくと、曲がって曲がって曲がってここへ来たってありますよね。今、ここにいるとしたら、それをこう辿って元へ戻ってくとね、あ、ここでっていうことが1つ1つ、なんかあります。自分の力だけで生きてきてるんじゃないなっていうことも、その時、よくわかりますね。だから、いろんなことがあって、それが芝居との関わりの第1歩でした。
青木 中学の時にそういうご経験されて、その後、高校、大学を通じて、ずっと演劇部でいらっしゃったと思います。ずっと演劇漬けだったという風に、お伺いしたわけなんですけれども、やはりそこはその中学2年生の時のそういう経験っていうのがとても大きく影響してるんでしょうか。
角野 ですね、やっぱり好きになったんで、やっぱり部活をずっとやりました。高校、大学と、あの、私立の学校行きましたんで、トコロテンで上がったんですが、そのまま演劇部をずっとやってました。好きなことは好きでした。ただ、3年生の終わりに、これも3年生の終わりになって、劇団受けてみようと思ったんですよ。好きなことが、食べていける生活、その仕事で生活できるかどうか、絶対に別問題だと思いながら。もしかして、そういう劇団とか養成所とか、そういう演劇研究所とかっていうところへ合格するんなら、適正検査合格。ま、免許証みたいなもんです。適正検査合格だけど入れてもらえないんだったら、向いてないんだから、向いてないことをいくら一生懸命やっても多分うまくいかないだろうなと。その辺は意外に僕は冷静だったような気がします。だから、その時、好きな劇団が全然正反対の方向を向いてて、あんまり演劇のことの専門的な話はあんましたくないんですけど、その当時、小劇場運動っていうのがとっても盛り上がってましてね。新劇、私が所属している文学座や俳優座さん、民藝さん、そういう新劇に対ししてアンチテーゼを唱えて、劇場でこういう、プロセニアム・アーチっていうんですけど、客席と舞台がはっきり区切られていて、何か物語を、そしてそこで何かに扮してやることだけが芝居じゃないよっていう劇場を作るところから始める。どこでも劇場になるんです。例えば、状況劇場の唐十郎さんなんかは、花園神社っていう、新宿の神社の境内に赤いテントを建てて、そこを芝居の空間として、演劇は、全然違ったものだとは思いませんでしたけれども、そういったアンダーグラウンド自由劇場、ちょっと地下の狭い空間だけども、そこにお客さん入れて、例えば「上海バンスキング」なんて芝居があります。それはそのアンダーグラウンド自由劇場から出来上がってきたもんです。そういった流れが1つあった。やっぱり若いからどうしてもそういう新しいものにやっぱり惹かれますけど、ちょっと待てよと、多分、でも、そっちへ行ったんでは食えないぞと、生活できないぞと。ちょっとそこらへんは、私、自分でちょっと感動するっていうか、冷静だったんですね。とにかく受けてみようと。それで、考えよう。たまたま、文学座さんが入れてくれましたから、適正検査合格だとは、自分の努力と運だなとは思いました。そこら辺が、ちょっと、就職試験を受けるつもりで、劇団の試験を受けたっていうのが、私の実感です。
青木 ありがとうございます。決断されたのが、大学3年生の時に決断されたんですよね。実際に文学座に入所された、当時の研究所っていうんですか、大学4年生の時に入られて、今のお話ですと、座員になるまで5年間かかってるんですけど、その間の5年間というのは、一体どういう?
角野 こういうこと言うと、自慢みたいになるんだけど、研究所を受ける時の人数が、約2,000人弱でした。募集人員が30人です。文学座演劇研究所の、すごい倍率ですよね。大学受験どころの話じゃなかった。そこはなんとか入りましたが、その30人が1年間勉強して、午前中2時間、午後2時間、ちゃんと授業があるんです。もちろん体操の授業もあるし、座学として演劇史もあるし。それで、実習、セリフを実際に言う。発表会といって、ちゃんとした舞台を1本作るっていうのが年間3回あります。だから、そういう実習みたいなことをやって、もちろん月謝払うんですよ、それはね、月謝払うんですけども、それをやって、30人が今度10人に絞られます。決まってるわけじゃないんですけど、大体10人前後に絞られる。これが研修科っていう1つ上の、えー、まあシニアクラスですかね。それで、2年間、これもやっぱり、狂言の授業があったり、一応授業はあります。で、あと、発表会もあります。それを卒業して、選考があって、準座員ていうことになります。準座員ていうのは、劇団員の見習いみたいなもんですね。もうそれになれば、まず2年やれば、普通に座員になる。そこで最終的に私のときは3人でした。驚異でしょ。今自分で振り返ってもびっくりするような、どんな運が良かったんだかなんだかわからないけど、なんとも自分じゃちょっと言い切れない、すごいラッキーだったんだなと思いますが。努力はしました。努力はしましたけど、でもそれが、これはずっと今まででも続いてると思いますけど、こういう仕事って99.9パーセント努力しても、残りの0.01パーセントの幸運がなければ成功につながらないっていうことが結構あります。努力は無駄にはなりません。絶対無駄にはならないけれど、努力したから確実にうまくいきますよっていうプラスだけの世界ではおそらくなかったと私は思います。
青木 ありがとうございます。入所されて、初舞台って2年後、「飢餓海峡」で、これはやはり、2年で初舞台を踏むというのは普通のことなんですか。
角野 割と座員になれば、役がそんなに重い役じゃありませんから。「飢餓海峡」って、皆さんご存じでしょうかね。映画にもなりましたね。三國連太郎さん、左幸子さん、伴淳三郎さん、もうだいぶ前の東映の映画だと思いますが、それの、原作を、水上勉先生が自ら戯曲にされて、太地喜和子が初めて主役をやった舞台です。杉戸八重っていう、下北半島の方の昭和の娼婦ですね。その時、私は7役やってました。最初、恐山の口寄せ、この口寄せって、死者が、イタコに降りてきて、誰かのおばさんになったり、おじさんだったり、誰かに化身して何かを伝えるっていう、そういうあれがあるんですけども、その場面から始まって、刑事だけでも3役ですかね、最後が舞鶴署のあの樽見京一郎っていう、三國連太郎さんがやった。うちの芝居では、高橋悦史がやったんですが、それを捕まえるところの刑事が何人かいて、その中の1人、女郎屋の客もやり、いろんな役を7役やりました。最初はそうやって、覚えていくんです。水上先生とののつながりがあったんだと思うんですが、若狭の小浜っていうところの市民会館が初日でした。東京での舞台稽古は三鷹公会堂というところを借りてやりました。あの旅に出る前って、東京で劇場を借りて、1回だけ本番そのまんま、セットも照明も何も全部、役者はちゃんとメイクしてやるんです。そうやって旅に出かけるんですが、小浜の初日、開幕の1時間半ぐらい前に、全員舞台に集まってくれと。三鷹でやった舞台の広さとここは違うから、ポジションをもう1回確認するからって言って、舞台監督のアナウンスのあと舞台へ集まったんです。もう扮装はしてましたから、草履というか藁草履みたいなものを履いてね、そして汚い格好で薄暗いんですよ、恐山の場面だから。はっと気が付いたら舞台から落ちてました。ここでやってみましょうか(笑)。いや、やってみることはできないけれど、こっからこう、踏み外しました(笑)。暗くてね、それで場所が、大きさが、舞台の大きさが、全然違うから。だからちょっと今マイクのコードが、よいしょ、あ、伸びました(笑)。多分、こんなんなって落ちたんだと思うんですよ(爆笑)。で、こっちの足がこう、残って、ここの靭帯が切れたんです。でも、わかんなかったんですよ。そん時はもう緊張してるしね。結構ね、小浜の市民会館って高さこれくらいあるんです。割と高い。一瞬悪寒が走って、これはちょっとやばいぞ、捻挫かなんかしたかなと思ってたら、みんながわーっと来て、おい大丈夫かって言って、すぐ湿布しろとかって色々手当てをしてくれて。でも、その日はもう飢餓の初日ですからね。体の痛いも言ってられないから、7役全部やって。入りたては芝居終わったらすぐセットをばらして、衣装やなんかもあのトランクに全部詰めて、いろんなぼてを作って、11トン半のトラックに全部乗せて。その頃は屋根のないトラックですから、今はこう、ウイングの屋根があるトラックですけど、屋根がないトラックにシートをかけて、雨降られると大変だから、ロープをかけるんです。こうやってね。それをみんなでよいしょって縛って、それでトラックが出発したら、僕らは宿屋へ帰ってご飯を食べる。でも、初日だけど、お前もうああやって落っこって、怪我してるか捻挫してるかわかんないけど、とにかくもう帰れと。早く飯食って寝ろって言われて、先帰らしてもらいました。もうこれは、早く寝るしかないなと思って缶ビールを飲んで寝たんですけど、夜中に3回も4回も、痛くて目が覚めるんですよ。これはちょっとまずいかなと思って。翌日、小浜から越前大野へ移動して、それから、ごめんなさい、越前大野の手前のね、福井に移動したんです。福井へ移動して、先輩が、一緒に病院へついていくからって言って、病院行ったんです。そしたらね、ここへ、こうやってね、分度器あてるんです。で、こうやって曲がりますかってぐってた。曲がらない。君、これね、靭帯が切れてるよ。で、すぐ石膏練って、看護婦さんにそう言ってんですよ、お医者さんが。「先生、ちょっと待ってください。今晩、芝居があるんで、今、こう、ギプスしちゃうと大変なことになるんですけど。」と言うと「君、これ、このままほっといたら、必ず炎症を起こして、手術だよ。だから、こういうふうに伸ばした状態ですぐギプスで固めないと。ギブスで固めると、こう切れたのがこういう風に繋がるんですね。わかりますかね。こう切れてるわけですからね。」「それで、じゃあ先生、あの、ギプスしたら芝居やってもいいですか。」「いいけど、できるの」って。「なんとかします。」7役ですからね、衣装が7つあるわけですよ、7枚。だから、すぐ楽屋に帰って、衣装さんに言ってズボンを全部出してもらって、7役全部ギプスが入るようにしてもらいました。まだ2日目でしたから、演出家のご存知の方もいると思いますが、その後地人会っていうところへ行きましたが、もうその当時はうちのエースの木村浩一さんっていう演出家がついてきてんです。それで「2役は俺がやる。」と言って出たがりなんですよ。女郎屋の客で階段から降りてくる役は、その足じゃ無理だから、2役演出家にやってもらって、残りの5役をやりました。なぜか出てくる人と出てくる人、みんな足が悪い(笑)。どの役やってもね(爆笑)。それが初旅の思い出で。それだけじゃなく、その日の福井の公演の最後の週末ですごい大団円。船を燃やした灰を伴淳さんがやってたあの役を金内喜久夫がやってたんですが、これが船を焼いた灰だよって言って、そこへ波音がドーンとかぶって、暗転になるんです。その崖のセットの下に私たち刑事が控えてて、ぱっと変わると舞鶴署の警察の場面になるんですが、波音がドーンとして、ワンツースリーぐらいの感じでドカーンってすごい音がした。で、裏をこう見たら、その灰だよって言った金内喜久夫がこんなんなって落っこってた(笑)。2階建ての下へ。終わりだな、この芝居は。もうな、俺がギプスするぐらいじゃ、とてもじゃないけど、あんな状態で出てこれるわけがないと思ってたら、高橋悦史を追求した刑事が4人いるところ、袖からこんなになって出てきたんです(爆笑)。一瞬、全員ちょっと笑みが出ましたね、顔に。そんな場面じゃないけど、その芝居は「怪我海峡」というふうに呼ぶようになりました。一応、そういうオチがある話なんですが、これが私の初舞台の思い出です。
青木 そんな感じで始まった角野さんのキャリアなんですけども、まその後の文学座での、キャリアっていうのは、今を超えるようなお話っていうのはなかなかないかもしれないですけど、やはり思い出話であるとか、文学座っていうのは、こういう、劇団なんだよとかっていう、思い出のような、出来事みたいなものを教えていただけますか。
角野 それから遠からずの話なんですが。つかこうへいさん、ご存知ですよね。「熱海殺人事件」という1番有名な芝居があります。それをうち(文学座)が本邦の公演をしました。なぜかあの本が書かれて、どこで上演するかが決まらず、ちょっと浮いてたんですね。それがうちの演出家の、アンテナに引っかかったというか。つかさんもまだマスコミ的には、世間的にはそんなに有名な人じゃなかったんだけど、VAN99ホールっていう、東京の青山にあります、99円で芝居を見せようっていう、VANっていう洋服屋さんがあったんです。もう大流行のね。僕らの世代にとっては、IVY、みゆき族っていうか、そういう洋服屋さんが、儲けを還元しようっていうんで、そういうことやってたんですね。そこで、つかさんなんかの、芝居はすごく受けてました。で、それを書いてくれて、うちで4本、つかさんの芝居をやりました。「熱海殺人事件」それから「出発」っていうのを書き下ろしてくれて、「郵便屋さんちょっと」「戦争で死ねなかったお父さんのために」、まさか文学座に入ってつかさん。つかこうへいって僕、同い年なんですよ。昭和23年生まれ、飯塚出身でね。彼は、「熱海殺人事件」で一緒になった時から同い年だから、すごく彼も親近感あったのか、一緒に飲みに行こう、飲みに行こうって話をして、出会った時から俺はKCIAにマークされてんだ。つまり自分が在日だっていうことをいう。そういうふうに告白してました。なんかそういう、なんだろう、最初に胸襟を開いて、相手をこう、抱き込んじゃうような、そういう魅力のある人でしたね。つかこうへいって、その後の旅公演で飯塚へ行った時に、お兄さんが旅館へBMWのクーペで迎えに来て小倉と飯塚でモーテルとパチンコ屋をやってるって言ってました。それでご飯食べに連れてってくれて。で、実家行きましょうって言って実家行ったんです。コンクリートの2階建ての立派な建物。玄関入って応接間に通されたら、朴大統領の感謝状がずっと壁中に並んでました。お父さんは日本と韓国の貿易で成功したサクセスコリアンだったんで、忘れられないのは、お母さんがほんとの昔の日本のお母さんで「息子が皆さんに迷惑かけて申し訳ございません。」と土下座するんです。「何にも迷惑なんかかけてませんよ。お母さん。」「いいえ、あの、息子のことだから絶対迷惑かけてるはずです。申し訳ありません。」と言ってとってくれたお寿司は、エビが生きてました(笑)。今まで出前のエビが生きてた経験はね、唯一そこだけです(笑)。飯塚って筑豊の炭鉱で栄えた町なんで、その当時でも飲食店が8,000軒以上あるって言ってました。また。旅公演でもなければ多分行けなかった街だと思いますけど、その次がそうやって天狗になって、まさか文学座でつかこうへいできるなんて思ってないから調子に乗ってたところへ、「花咲くチェリー」の北村一夫の息子の役を、抜擢ですね。3回目の公演だったんだけど、1回目、2回目はその息子の役を、ご存知の方も大勢いらっしゃると思いますけど、石立鉄男さんっていう方がなさってたんです。僕は3年目で3回目。まあ、何やっても北村さんが違う。ちょっと動いて違う、一言言っても違う、何やっても違う。ノイローゼになりそうでした。今だったらこんなハラスメントはありえないぐらいね。まあ、それがなんだろう、ああいうことが別に不思議じゃない時代だったと言えばそうなんですけれど。だから、自分で思って、この息子はこういうふうに感じて、こうやるだろうななんていうことは全部否定されましが、北村一男が一応言った通りに幕が開いたら、わかりました。その通りなんだって。お客様の反応で、ああそうか、こういうふうにちゃんと表現として形になってなかったら、いくら自分で頭でこうだと思ってたり、こういう気持ちなんだって自分で決めてても、伝わってなきゃ何にもなんないんだなっていうことがね。そのことを北村さんが、そういう、ある種理不尽なやり方かもわからないけど、教えてくれた。と同時に、ちょっといい気になってた。天狗の鼻をバキンって叩き折られた。これはとっても大きかったです。その体験がなかったら、私、今こういう仕事を続けてられたかどうかもわからない。やっぱりあの鉄は熱いうちに打てという言葉がありますが、若い頃怒られたこと、これは財産です。自分がそういうことが、若い人、若い社員やメンバーにそういう形でせできてるかっていうと、今非常に難しいです。あのハラスメントの問題は大きいですからね。だから、そんなふうなやり方はできないかもわからない。でも、北村さんが伝えたかったのは、お前がちゃんとやってくれないと、俺の何かも伝わらないんだ。自分がやりやすいから、そういうやれって言ってるんじゃないっていう、そういう関係の作り方みたいなことは、少し乱暴なやり方かもわからないけど、北村さんに教わったし、それで多分夢中になってたんだと思うんですよ。あの人も自分の大好きな芝居で、大好きな役だから。だから優しく噛んで砕いて説明するんじゃなくて、違うっていうことをぶつけて、僕に何かを気づかせたかったんだろうなってことは、今わかります。そんな情熱を今、果たして今自分が持ってるだろうか。そんな情熱を若い人にぶつけられるだろうか。それは自分の中に今も反芻することでもあります。
青木 ありがとうございます。皆さんもよくご存知の通り、角野さんは、舞台だけではなくて、テレビや映画にも多数お出になってると思います。お伺いしたかったのは、その、舞台のお芝居と、テレビですとか、映画ですとかは、お芝居としてやはりちょっと違うもんなんでしょうか。
角野 やる役の人間を演ずるっていうことについては、全く一緒です。どんな形であれ。ただ、方法が違いますから。僕たちは基本的にマイクを使いません。舞台では、あの、大きい劇場行くとワイヤレスで入れたり、もちろん歌とかがあると、音楽に負けちゃいますから、地声だけだと、ワイヤレスをつける芝居だってないわけじゃないですけど、基本的に、マイクを使いませんで、ここは理想的な劇場ですね。ほんとに。あの、文化会館(鳴門)を思い出しますけど、海のそばの。ここはほんとに演劇にぴったりの劇場ホールだと思いますが、ここだとマイクなしでも聞こえますか。届きました(笑)。こうなりましたから、大丈夫。音が聞こえるだけじゃダメなんです。何を感じてるか、何を考えてるか、それが全部客席の後ろまで伝わらないとダメなんです。それがもっと、1,500人とか2,000人ぐらいの小屋、毎日のように旅公演をしていると劇場が変わります。だから、間口が広いところもあれば、間口はそうでもないけど奥行きが、客席の奥行きが深いところもある。その劇場、劇場で、やっぱり顔の向きとか、例えばここで、ちょっと失礼しますね。(小声で話す)こういう会話を例えばしてるとすると、リアルにやればこれが本当の会話ですよね。はい。
青木 そうですね。
角野 ところがね、舞台でこれをずっと続けると、プロフィールっていうか、横顔しか見えないでしょ。あ、こちらの方なんか、ほぼほぼ背中になっちゃいますね。こういう時に。ですからね、こうこうこうで、こうこうこうでこうこうこうでこうなんですよってやればね、真ん中の部分はお客様の方向いて喋ってもっていうか、その方がちゃんと内容が伝わるんです。で、会話をしてることになるんです。こういうことが1つの大きい劇場、広い劇場での技術っていうか、技術的な問題です。逆に映画とかテレビとか、画面いっぱい俺の顔みたいなやつあるじゃないですか。あんなんでうわあとか言ってセリフを言ったら、逆に、演じている生理が全部出ちゃって、それが見えちゃうんですよ。だから、ほぼ何にもしないような感じでね、ボソボソ喋るみたいなのがね、リアリティがあったりする。そういう、要するにあるサイズの問題なのかもわかりません。もっと小さいとこまで行けば、それこそこうやってお客様と向かい合わなくてもある。背中で何かを感じてもらうっていうこともあるかも。できる可能性もあります。だから、演劇の、演劇の空間ていうのは、これが劇場ですよ、これが演劇ですよっていうふうに決まったものは、実はないんです。色んな可能性が僕はあると思います。えー、テレビの場合は、ラーメン屋の話ですが、長いんですよ。ワンシーンが20ページぐらいある。20ページっていうとね、番組始まって次のコマーシャルまでずっと。それがワンシーン、時間にすると約15分ぐらい。それも、橋田壽賀子さんの台本は点々々とかないんだ。字で埋まってるの、びっしり。それをスルーで撮るんですから、舞台の場面やってるのと同じなんですよ。カメラが5台ぐらい。ましてや私なんか中華鍋振りながらね、チャーハン炒めながらセリフ言ったりなんかするんですから。そういう中で、まあ芝居と同じかなっていう感覚でずっとやってました。っていうのは、カメラが寄ってきてくれるから、どこが正面だとか意識をすることなく、例えば言いたい人、泉ピン子さん、ここにいれば、こうやって言えば、向こうからちゃんと撮ってくれる。そのリアクションは、こっちからのカメラが泉ピン子さんを撮ってる。で、引いたカメラがこの2人がどういうとこにいるかってのを撮ってくれる。そういう、いわゆるスタジオドラマっていうのはそういう形で、15分、ワンカットじゃないんだけど、カメラ5台あるからなんですけど、スルーでやります。映画なんかため息一つだけでもワンカットで撮ったりすることがありますからね。だから色々、まあやるメディアと言ってはおかしいけど、その媒体によって演技方法は経験ですね。これも慣れでやっぱり身につけていくしかないなかったと思います。教わってできるよりは、周りの人がどうやるかを見てるのが1番早いかもわからないなっていう。初心者の頃はそう思いました。ぐらいでいいですか。
青木 ありがとうございます。お聞きしたかったお話を伺いました。この会場には、演劇鑑賞会の会員の方も多数いらっしゃるんですけども、今まで、たくさんの、例会に出ていただきましたが、印象に残るその演劇鑑賞会との交流ですとか思い出があればお聞かせいただきたいんです。
角野 お通しっていうのができた時はちょっと衝撃でしたね。「やってらっしゃいますか、今。」(客席に問いかけ)今、やってらっしゃいません。そうですか。あ、コロナがあったりしたから、なるほど。あの、ご存知だと思いますけど、あの、会員の方、その時の担当の、委員って言うんですかねえー、ご飯とおかずもとデザートまでもお家で作って持ってきてくださるんですよ。だから、スタッフはほぼ1回も表出なくて、トラックが例えば11時頃着いて、それで列車が例えば鳴門の駅なりに12時ぐらいに着いて、バッとタクシーでここまで来て、で、トラックから荷物を降ろして、全部順番がありますから、大道具、照明、いろいろ順番があるのでその順にやってって、それで、ある程度舞台ができたところで休憩しますね、スタッフは。その時に、会員のその担当の方が、あの素晴らしいお料理、タッパーの大きいの、煮物もあれば焼き物もあれば、それから炊き込みご飯がある。それから、お鍋にカレーを1個作って。要求してるんじゃないですよ(爆笑)、別に。かつて、そういうことがあったということですか。あとは、果物が切ったのが入ってたりとかね。だから、スタッフはそれだけでも外へ出なくて、ちゃんとお腹いっぱいになる。それと同時に、若い子たちがね、研修生、割とその、入りたての子は、さっきも言いましたけど、全部演出部の手伝いをしますから、ホテルへ荷物入れないでそのまま劇場へ来たりするんですよ。昔はね、日本旅館でしたから、とにかく夜遅くても何しても、帰れば温かいおつゆとご飯はあった。おかずは冷めてても(笑)。ところが、ビジネスホテルになってからは、プライバシーはあるんです。シングルの部屋で、個人の時間。昔はプライバシーなんかなかったから、6畳に3人、8畳に4人とかで、すごい時はご飯食べる大広間に10人で寝るとか、そういうような旅公演をずっと続けてましたから。もうプライバシーどころの話じゃない。いつも誰か必ず決まったやつが隣にいる(笑)。こうやって布団でこうやって見ると、隣に同じやつが寝てる(笑)。朝タクシーに乗っても隣に同じやつが乗ってる(笑)。列車に乗っても同じやつが隣にいる。挙げ句に劇場入ったら化粧前っていうか鏡の前に見ると隣に同じやつがいる(爆笑)。もうひと月に大体男だと、殴り合いの喧嘩が2、3回起きる。頭に血が上っちゃいますからね。女性が血が上るっていうと変ですけど、買い物に行きますね。ろくでもないものを買ってきては自慢しあう(笑)。もうそれくらい、要するにプライバシーがない。もうかなりぎゅうぎゅうの詰まった生活を、あれなんですけど。ビジネスホテルがもう増えて、ほぼ今、旅公演、ビジネスホテルになりましたから、プライバシーは十分あるんです。ところが、みんなで一緒にご飯食べたりすることがもうないんです。昔はそれが1つのね、ちょっと濃い人間関係を作ったりしてたんですけど、それがいいかどうか、まあこれは別問題だけども。私の時代は少なくともそうで、それもいい思い出ですね。今から思えばね。でも、今となっては、もうあそこへ戻りたいとは思わないけれど(笑)。だから、そういう意味では、若い子たちはそういう風に、会員の方が作ってきてくださった、素敵なおかずとご飯を、自分専用のタッパーを持ってって、全て帰るんです。そうすると夜、芝居が終わって部屋へ帰って、手作りのとってもおいしいものが部屋で食べられる。そうじゃなきゃ、コンビニ行くしかないんですから。だから僕は、自分で企画を出して、こちらにも2004年、2009年、お邪魔しました。文化会館で、「缶詰」っていう芝居と、「ゆれる車の音」っていう、芝居を。11人の出演者で2時間の芝居、両方ともそれぐらいの芝居でしたけど、10日に1遍ぐらい、みんなでご飯食べに行こうって言ってね。高いとこは連れてけないから、チェーンの居酒屋さん。それだと結構夜遅くまでやってんですよ。それでね、何を頼むかって。おい、焼き鳥とかそういうの頼んじゃダメだぞ。あれは工場で作って持ってきてくるから、野菜を頼め、野菜を。そうすると、地の野菜がちゃんと出てくるんです。だから冬場なんかはお鍋を頼めばその土地のお野菜がいっぱい入って。そうやって、10日にいっぺんやってましたけど、そのお通しっていうのができてからは、ほんとにみんな、劇団の演出もそうですし、役者も。僕も、結構好きで、持って帰ったことがよくあります。酒のあてにって言って。ほんとにそれはすごく助かった。今、どの劇団も助かってるんじゃないでしょうか。残念ながらコロナでそういうことが今できません。あの、楽屋へ差し入れすることもできないんです。東京の劇場でも、友達が出てても、なんかお菓子持ってったりすることもダメだから、ペットボトルぐらいですかね、差し入れできるとすれば。今、非常に楽屋の裏っていうのは、ちょっと、そういう意味で、なかなかまだまだシビアな状況が続いてます。まあ、インフルエンザはまだまだ大変ですし、コロナも収まりきったわけじゃないのでね、気を付けないと。下手すると1人患者が出たら、芝居1本潰れちゃいますから。公演中止なんてことになったら、もうどれだけの大きな損害になるか。だから、それを考えれば、少々不自由なことは我慢しなきゃなりません。
青木 角野さん、時間はあっという間です。最後に、私ぜひ、お聞きしたかったのは、以前、お話になって、もうしびれる話なんですけども、芝居をやってると、この舞台の上の呼吸と客席の呼吸がいつしかこう、1つになものになっていくっていう、そういうお話されてたと思うんですけど、ぜひその話をしていただきたい。
角野 今もそうですけど、一緒に今みんな一緒に生きてるじゃないですか。一緒に呼吸してるじゃないですか。この1つの同じ空間で。これがね、芝居の1番素敵なところだと僕は思ってます。それで、みんなで1つのお話、フィクションをずっと作り上げて、それである瞬間、みんな、ちょっとぐっと来たとこは息が止まるんですよ。では。あ、それがね、舞台にいるとね、わかるんです。一緒に呼吸してるな。一緒に作ってるこの時間をね。これがやっぱり芝居の1番素晴らしいところだと思います。映画館行って映画見ても、同じようなことがもしかしたらあるかもしれない。でも向こう絵(映像)、絵は写ってるけど生きてませんからね、芝居は。こっちも生きてますからね。何が起こるか分からない。これもひとつの面白いところだし、その時間を共に共有して、何か喜んでいただけたり、もしかしたら感動していただけたり。やっぱり僕ら、難しい芝居より、人間ってやっぱり捨てたもんじゃないよねって。明日からまたちょっと頑張ってやってこいよっていう気持ちで劇場から帰っていただくのが1番の幸せです。やるものとして、これからもそういう芝居をやっていけたらいいなと願っています。文学座もそういう芝居を作っていきます。ぜひ応援してください。ありがとうございました。
第2部 パネルディスカッション「観劇の力~生の演劇はひとをひとを創る~」
司会 それでは、第2部、5名の方々によりますパネルディスカッションを始めたいと思います。パネルディスカッションのテーマは、「演劇の力、生の演劇は人を作る」でございます。パネルディスカッションに先立ちまして、演出家の松本裕子氏より基調スピーチを賜ります。その後、ファシリテーターを務めます、私の今隣に立っております鳴門市民劇場井上裕子代表幹事の進行によりまして、パネルディスカッションを行ないます。それでは、井上さんよろしくお願いします。
井上裕子(敬称略 以下井上と略) ご紹介いただきました鳴門市民劇場の井上と申します。このパネルディスカッション、私自身が本当に楽しみにしてきました。ワクワクしています。どうぞよろしくお願いいたします。ご紹介がありましたように、この第2部では、文学座より、パネリストとして、第一部でご講演くださった角野卓造さん、そして演出家の松本祐子さんをお招きしております。角野さんは第1部の方でご紹介をさせていただいたので、私からは、松本さんについて簡単にご紹介をさせていただきます。 松本さんは、文学座の演出部所属の演出家さんでいらっしゃいまして、1992年に、文学座付属演演劇研究所に入所、97年に座員になられて、現在に至ります。その間、99年から一年間、ロンドンにて、文化庁の在外研修員ということで研修を受けられ、その帰国後、第一作目の「ペンテコスト」という作品で、湯浅芳子賞という賞を早くも受賞されました。その後、手掛けられた作品は、枚挙に暇がなく、鳴門市民劇場で私達が見てきた作品の中にも、松本さんの手によるものがたくさんあります。2006年には毎日芸術賞千田是也賞、2019年には紀伊国屋演劇賞個人賞と読売演劇大賞最優秀演出家賞、2020年には芸術選賞文部科学大臣賞など、数々の受賞歴をお持ちです。また、日本演出家協会にも入っておられまして、委員としてお務めですし、桜美林大学、明治大学の非常勤講師も務められております。また、ワークショップティーチャーということで、色々な場所で、大変御活躍をされています。まさにスーパーワンウーマンと思って、尊敬しております。 引き続き、そちらで、並んでくださっております、地元からの3名のパネリストをご紹介させていただきます。 まず、佐々木由紀さんです。佐々木さんは、医学博士号をお持ちの、理系の女子でいらっしゃいまして、大学の方で長く研究、そして教職に就かれていたんですけれども、現在は、非常勤講師も務められております。現在は、現在は、一般企業で研究の仕事をされています。それと共に、ご自分が住んでいる町で、「なるとにしてとてとて」というかわいらしい名前の女性ばかりの4人のグループ、ボランティアグループの代表をされています。このグループは、学校の枠を超えて子育てを考えられたらということをモットーに立ち上げられたもので、そのモットーの下に、例えば、小中学校に出向いて、子供たちに本の読み聞かせをしたり、学校の中で、地域の人、先生、子供、みんなで参加できるような、ワークショップや講演会などを企画され、実践されている、とても明るくて元気な活動をされている女性です。 引き続きまして、永浜浩幸さんです。永浜さんは、チラシ上、プログラム上は、1つ目の肩書が、「大人に絵本ひろめ隊」ですね。「大人に絵本ひろめ隊」は、子供だけでなく、大人も絵本から、癒しを受けたり、心が豊かになったりすることがあるということで、全国の仲間と一緒に活動されているそうです。2つ目のお顔としましては、モラロジー道徳教育財団の維持員ということで、ちょっと聞き慣れないんですが、この財団は、倫理道徳の研究と、社会教育の推進ということをモットーに立ち上げられて活動されているグループ、財団のようです。長浜さんは、その維持員として、地域の学校現場に出向かれて、先生方に倫理道徳のお話をされたりすることを続けられています。また、何より文化が大好きで、今日は藍住町の方が多くいらっしゃると思うんですが、藍住町出身の狂言師、河野佑紀さんに師事されて2年、舞台にも立たれて、文化維持にも、めちゃくちゃパッションの高い、皆様御存じと思いますが、藍住町の町会議員さんでございます。 最後に、和田一詩さんです。和田さんは、2020年から地域おこし協力隊ということで、鳴門に移住され、子供達にミュージカルを教えて、公演も手掛けられています。この協力隊のもう一つの目的と言いますかテーマが釣りということもあったそうで、2022年には「TSURIBITO」というカンパニーを立ち上げられて、海岸清掃であるとか、子供達を交えて魚の捌き方教室みたいなこともされています。演劇関連では、今年、2023年に「UZUARTS」という、これも会社を立ち上げられて、今年度は、国の補助によって、学校の授業の中で演劇鑑賞したり、ミュージカルのワークショップをしたり、そういうことも、計画して、実践されています。そしてまた、何と、劇団四季の俳優の御経験と、四国アイランドリーグ、インディゴソックス、野球のチームですね、そこでのピッチャーの経験もお持ちという、それはご体格からちょっと想像できるかもしれませんが、本当に多彩な方です。 以上、御紹介させていただきました。まずは松本祐子さんに基調スピーチをいただきたいと思います。拍手でどうぞ。
松本祐子(敬称略 以下松本と略) ありがとうございます。基調スピーチという、言葉で言うとすごく重い感じがするんですけれども、演劇のお話をさせていていただくといいなと思ってきました。 皆さんはどんな時に映画を見たり、舞台を見たくなったりしますか。私の場合は、自分の物語を一旦離れて、他者の物語に触れる喜びを得たいとき、そして、別の物語に触れることで、自分の中にその物語のかけらを取り込んでリフレッシュしたり、新たなことに興味が持てたり、すでに知っていたことの別の側面を考えられるようになったりしたときに、ああ、芝居見に行ってよかったっていうふうに思います。私たちに備わってる素晴らしい力、それは好奇心だと思うんですけれども、好奇心が他者の物語、自分の世界とは違う世界を知ることを必要としてると思います。そして、それに触れることで、私たちはいくつになっても新しい学びを得ることができるんじゃないでしょうか。だから、今日皆さん集まっていらっしゃる方は、多分皆さん演劇にご興味があるので、皆さんきっと年齢よりもお若く見えて生き生きしてらっしゃるんじゃないかなという風に思っております。もちろん、そういう好奇心を満たすということは、小説なんかを読む行為でも満たされる喜びですよね。ではなぜ演劇をお勧めしたいかと言うと、それは生の人間が持つ熱量を物語のうねりと共に感じられるっていう特性が演劇にはあるからです。そして今日、先ほど角野さんも同じようなことおっしゃってましたけど、この1つの空間に今まで全く知り合えなかった人たちが一堂に会して、1つの空間で、同じ時間で、その何か違う誰かの物語、違う世界の物語だったり、違う時代の物語だったりを共有することができる、そしてそこで一緒に新たな発見をすることができるというのが演劇の素敵なところだなというふうに私は思っています。私たちは、観客の皆さんが入って初めて作品が完成するとよく稽古場で言います。それは、そこに集った人々の集中力が舞台上の俳優やスタッフに何らかの影響を与えて、作品に新たな科学反応を与えて、多くの気づきを与えてくれるからです。稽古中にきっとここがうけるよね。絶対にここ笑いが来るよねっていうところで、案の定笑いが来ることもありますし、え、ここ受けない、あれっていうこともあるし、逆にここなんか絶対受けるようなところじゃないと思ってやっていたところに、ものすごい勢いでこうお笑いが来たり、逆に思った以上にこう皆さんが感動してくださったりっていうことを、板の上から、もしくは袖から感じ取ることができます。で、それは本当にお客さんが新たな価値を作品に付け加えていただいている瞬間だと思うんですね。なので、そのお客さんの参加っていうのが非常に演劇にはとても大事な要因になっています。そして、観客同士もその場の空気を形成し合うことで、ある種一緒にお祭りに参加したかのような感覚が得られるんじゃないかなっていうふうに思っています。先ほど角野さんの話でもありましたけれども、本当に一瞬、舞台と観客席が一体となって、空気がひゅって固まったり、わってほどけたりっていうことがあると思うんですけれども、それはすごく演劇でしかできないことなんじゃないかしらという風に思っています。 私たちって最近すごく寂しいなって感じることが増えたんじゃないかなっていうふうに思うんです。もちろんそれの大きな要因の1つは、コロナがあったと思うんですね。自宅にいなければいけない、人とは握手をしてはいけない、先ほどの話だと差し入れもダメとか、なかなかこう、料理を取り分けて食べるみたいなことも、しにくくなって、すごく人との距離ができて、寂しいなって思うことって増えたんじゃないかなと思います。それと、やっぱしもう1つは、スマートフォンに代表されるテクノロジーの功罪ですよね。もちろんすごく便利になったんですけれども、以前だったらお友達と話したいときすぐ電話かけてたと思うんですけど、今は私は必ずLINEで、今から電話してもいいですか。って言って、既読がつくのを待って、いいよって返事が来て、やっと電話ができる。すごく気を遣ってしまわなければいけない文化になっちゃって、その分なんかすごく寂しいなという風に感じることが増えたように思います。それから、そのテクノロジーで、スマートフォンでなんでもあっという間に検索ができますので、前は図書館行って、どの本調べたらいいのかしら、とか、すごく時間がかかっていたことが、ぴょんぴょん、ぴょんぴょん、あっという間にできるようになりましたので、長い時間、1つのことに集中して取り組む能力が低下してるんじゃないかなという風に思います。なので、閉じ出してる私たちの個が、個々それぞれが閉じた生活をしやすくなってるんですけれども、劇場に来るということは、他者と共に物語を味わい、作品に参加することですので、その閉じていた自分を開いて、社会に向かって自分を開いていくことなので、孤独を感じない社会作りの一員になるのではないかな、という風に思っています。特に市民劇場とか鑑賞会団体の活動は、その日だけ劇場に集って、ぱっと見て、ぱっと帰ってっていうのとはまた違いますよね。事前に作品を学習する学習会があったりとか、時には私とかその制作さんとか…、出ている俳優さんがこちらに出向いて、作り手と迎えてくださる皆さんが交流する機会があったり。あと、会員同士で、もちろんその日の例会をどうやって進めていくかっていう話し合いがあったり、いざ例会、その日になったら搬入手伝ってくださったり、先程のお通しとかお茶を作っていただいたりで、終わった後にも感想を言い合う機会があったりと、たくさん対話しなければいけない機会がありますよね。そのたくさんの対話が生まれるチャンスがそこにあるということが、とっても素敵なことだなという風に思うんです。否が応でも、人と喋らなければならないというか。でも、そうすることで、必要以上に遠慮して、人とちょっと阻害感を感じながら付き合っていくんではなくて、心を開いて、人とコミュニケーションを取っていくっていうことも、演劇が皆さんに何か潤いを与えているのではないかなというふうに私は思っています。そんな演劇のいいところ、演劇の力を、私はもっと多くの人に知ってもらいたいですし、体感してもらいたいっていう風に願っているので、1つ強くずっと言い続けていることが、学校の芸術系の選択科目に演劇を入れてほしいということなんです。先ほど初めて知ったんですけれども、角野さんの、演劇に興味を持った最初のきっかけが中学での演劇体験だったっていうふうにおっしゃっていましたけれども、みんながみんなそういう風に、内藤先生のような素晴らしい先生に出会えるわけではなく、なかなかこう、生徒が演劇というものに触れる機会が少ないのも事実だと思います。芸術系の授業の選択科目は、多分今もずっとそうだと思うんですけれども、書道と音楽と美術ですよね。私はぜひともそこに演劇を入れたい。なぜならば、演劇には、最近の若者が苦手だなとなっている、対話っていう、その対話力、コミュニケーション能力と、あと他者がどういうことを考えてるんだろうっていう想像力と、あと国語力、読解力を育む全てが備わっているからです。こちらの地域の学校はどうか知りませんけど、まあ、学校によっては年に1回は演劇を鑑賞する機会があるかもしれませんよね。で、もちろん見るだけでも、先ほど述べたような演劇で他者の物語に触れることで、日々の自分の生活を俯瞰してみることができますので、例えば、いろんな悩みを、苦しみを抱えていても、苦しいのは自分だけじゃないなとか、この登場人物もこういう風な大変な思いをして、こういう風に乗り越えていくんだなっていうふうに、癒しをもらえることもあると思うんですね。でも、見るだけではなく、教育の過程で実際に演劇を体験することは、もっと大きな学びを得ることができると思います。まずは読解力です。すでに書かれた作品であれ、新たに自分たちでオリジナル作品を作るのであれ、作品を作るとき、私たちはもう何度も何度も台本を読み込みます。どういうことが書いてあるのかな、とか、どういうふうに思えば、ああ、私もこれ絶対言うな、こういう時、っていう風に、人が書いた言葉を自分のものにしていくっていうのは、すごく大変なめんどくさい作業なので、そのために、何度も何度も台本を読みます。演劇の台本ほど、何度も読んでもらえる、読み物というのはないんじゃないかなって思います。なぜなら、小説は、多分、多くても4、5回かな。ものすごく好きな小説で、大体は、2回ぐらい読んだら、結構満足するんじゃないかと思うんですけれども、多分、俳優さんは、台本を稽古中、1日1回は必ず読みますので、1ヶ月稽古するとしたら、30回は読んでるわけですよね。で、セリフを覚えなければなりませんので、もう、自分のセリフのところは、もう、ほんとに紙がすり切れるぐらい台本をお読みになりますので、それを読んでるうちに、いろんなことを考えますので、それは、とても能動的な理解力の促進なんですね。なので、教室に座って、ぼーっと、なんかこう、国語の先生が言ってることを受け身の形で聞くのではなくて、自分がその言葉を読み砕いていって、自分のものにするっていうことが必要ですので、間違いなく読解力、国語力が身につくと思います。それから、自分じゃない誰かに対する想像力が身につきます。というのは、演劇は、俳優さんは特にですけど、自分ではない何かになるわけですよね。時には自分が生きている時代ではない江戸時代の登場人物になったり、外国人になってみたりするわけなので、どういうふうにこの人はこの物を考えて、こんなことを言ったりやったりしてるんだろうっていうことをすごく想像しますし、スタッフサイドも、じゃあ例えば舞台美術どうしようかとか、照明どうしようかっていう時に、もういろんな想像の翼をパタパタ、パタパタ、羽ばたかせます。こういう風に、いろんなことを考えて、自分じゃない何かを考える、そのことを想像するっていうのは、日常生活においてもどうしても、先ほど孤独で自分に閉じこもっていきがちな社会だって言いましたけれども、これ日々やっていると、今皆さん目の前で、どんなこと考えながら聞いてくれてるのかなとか、クラスメイトは何考えてるのかなとか、学校の先生は何考えてるのかなとか、他者に対する興味が増えていくと思うんですね。想像力が増えていく。それは、非常に生きていく上で大切なことなんじゃないかなという風に私は思っています。それともう一つ、集中力。先ほども言いましたように、最近はどんな情報もスマホですぐ呼び出せます。特に若い人たちは、youtubeとかtiKtoKとか、大体まあすごく短いスパンで、長くても15分ぐらいの短い映像を、流し見する傾向にあると思うんですね。でも、それって本当の意味で理解してなくて、情報を消費してる状態なんだと思います。結果、長い時間集中し続ける能力が低下している人が増えているようにも残念ながら思います。反して、演劇は作り上げるのに、まずもってものすごく時間がかかるんですね。ものすごくちゃんと、もうすでに何十年ものキャリアをお持ちの俳優さんをみんな集めて作品を作るときでも、1ヶ月はお稽古をするんです。大体文学座の場合は、週休1日しかございませんので、毎日毎日すごい時間をかけて、あーでもない、こうでもないって試行錯誤を繰り返して、粘り強く作品を作っていきます。演劇っていうのは、みんなで虚構の世界を一緒に作り上げるので、その虚構を作り上げるためには、本当に集中していないと、嘘がバレちゃうんですね。エミリーっていう役をやってるはずなのに、松本祐子に戻ってはいけないわけです。その時間の中だけは、集中し続けることが自ずとできるようになっていきます。勿論、集中力というのはスポーツの分野でも凄く大事なので、とても鍛えられますよね。スポーツやってらしても、サッカー選手の集中力とか見てるとすごいですよね。どうしてあなたのところにボールが飛んでくるってわかったの、っていうような。どこに目がついてるんだろうっていうぐらい、あれは猛烈な集中力を要してらっしゃると思うんですけれども、でも、すごい身体能力が必要ですよね、スポーツの場合は。演劇の場合も、もちろん何かの才能というか、鋭敏な感覚、敏感な感覚は必要なんだと思うんですけれども、もう少し柔らかな状態で、相手や自分の周りの世界を感じながら集中する能力が高められていくと思います。そして、先ほども申しました、何よりも対話力とコミュニケーション能力です。同じことを繰り返しになっちゃうかもしれないんですけれども、演じる立場でもスタッフの立場でも、本当にみんな子供のように、これどうすればもっと面白くなるだろうねとか、これやってみよう、あーちょっと面白くなかった、違ったね、もう1回じゃ、あこういう風にやってみようとか、本当に瑣末なことも色々こう工夫しながらお稽古って進めるんですね。とにかく面白い作品を作りたい。皆さんにあー面白かったとか感動したとか、言っていただける楽しい作品を作りたくて、みんな切さ拓磨して工夫してるんですけれども、いろんな人が集まってますから、それぞれ違う意見があるわけですね。文学座っていうのは、俳優がとても強い、俳優が個性的で魅力的で、そして個性の強く、そして、押し出しも強い人たちが集まっておりますので、演出君がこうしてくれって言ったからって、みんな言いなりになってくれるなんて、とんでもないんですね。もうみんながみんな、いろんな意見があるので。それはもちろん、みんなが全身全霊いいもの作りたくて集まってきているので、それぞれがもうああだこうだいっぱいなこう言葉を発します。それを否定するのではなく、やってみたいことは全部取り入れて、だけど、やっぱしやってみた結果うまくいかなかったことはこうだったよねっていう風に納得していただいて、違うアイデアをもう1回出して作っていくって、過程っていうか、作業をもう何度も何度も繰り返すところで、猛烈な対話力が必要になるんですね、コミュニケーション能力が。それは別にプロの現場じゃなくても、高校生とか中学生とか小学生とかの現場でも、一緒に何かこう、作品を作っていくっていうのは、とても話し合いが必要なんです。その話し合う能力っていうことが、飛躍的に伸びるのが、演劇の稽古場なのではないかなという風に思っています。最近の若者は皆すごく遠慮深いですよね。自分がどうしたいかあんまりはっきりと言わない、人を傷つけないように傷つけないように生きてる人がとても多いなというふうに、若い子たちを教えてて思うんですけれども、自分の意見を、人を傷つけるんではなく、ちゃんと自分の意見を自己主張するっていうのはとても大切なことだと思います。自分の意見をちゃんと言うってことは、他者の意見を聞く用意があるぞっていうことだと思いますので、そういったことを演劇を通してできるようにしていくっていうことが、必要だなと思いますし、あの稽古場でそういったことを経験させていくと、実人生でもこう、自分の意見を臆せず、ちょっとずつですけれども、相手にききちんと伝達しようっていう努力をできるようになる子がとても増えていくのを見ています。もちろんこれは若い子だけではありません。私は、小学生のワークショップもやりました。ワークショップっていうのは、演劇的な遊びを使って人とコミュニケーションをしたり、演劇を実際に作ってみたりする場を与えることなんですけれども、小学生、中学生、高校生、大学生、社会人、そして六十以上のシニアの方々で、演劇を経験したい、そういった方々にこういろんな形でその演劇に触れるワークショップというものを開催しています。初日よりやっぱ2日目、2日目より3日目、皆さんがどんどん変化していって生き生きしていくのが、手に取るようにわかるんですね。なので、活性化するんでしょうかね、細胞レベルで。いろんなことを、いままでちょっと眠らせていた自分の能力を、演劇に触れることでいっぱい刺激をもらって使っていくことによって、どんどん伸びやかになっていって、なんか精神と身体の可動域が増えていくていうのが、演劇のすごく素敵なところだなというふうに思っています。以上のような理由で、私は教育現場に演劇を、と強く願っています。なかなか難しいのは、正解がない、まだ全然、あの、文部科学省から認められてないんです。多分それは、そこを卒業しても、演劇学っていう、学問がなかなかまだないので、学校の先生になれない、就職先が決められないっていうことが、受け入れていただけない1つなのかなっていう風に思うのと、正解がない、つまり、演劇って、作り手が違えば、スタッフが違えば、役者が1人が違えば、全く別のものが出来上がる可能性があるんです。だから、正解がないんです。でも、その正解がないということが実は演劇の素晴らしいところで、種々雑多ないろんなものを受け入れて、多様性をずっと担保しながら、でもその時々の1番これがベストなんじゃないかしらというものに向かって、みんなで一致団結して進んでいくっていうところが、演劇の面白いところです。それは見た人もそれぞれで感想が違うと思うんですけれども、答えがない、いろんな答えがあるっていうところが楽しいなというふうに思っています。イギリスでは、演劇は学校教育の中に正式に取り込まれています。また、そのように演劇が人間性を取り戻す大きな力になることを描いた、舞台作品もありますし、最近だとフランス映画で囚人の人たちが演劇に触れてすごく変化する「アプローズ、アプローズ!囚人たちの大舞台」という映画もありました。そろそろDVDになってると思いますので、もしよかったらご覧になったらいいなと思うんですけれども、本当に演劇は人を変える力があると思います。今日、私の話を聞いていただいて、少しでも演劇に対する興味が増えていただけたら嬉しいです。孤独を感じない、対話に溢れた好奇心に満ちた日々を送るために、演劇という太古から連なる活動にどんな形であれ参加していただけたら嬉しいです。ありがとうございました。
井上 松本さん、ありがとうございました。とてもまとまった、もうこれで終わるような感じの素晴らしいスピーチをいただいてしまったんですが、本日は、地元から、パネリストの皆さんをお迎えしておりますので、まずは、お三方に、印象に残ったことであるとか、もっと聞いてみたいところ、何か自分と重なることとかを、お話しいただけますか。
佐々木由紀(敬称略 以下佐々木と略) すごく良いお話、ありがとうございました。私は、若い頃は、演劇が好きで、関西にいたものですから、宝塚とかを見に行ったりっていう感じでしてたんですけれども、子育てをするために鳴門に来てからは、演劇からちょっと遠のいていて、最近、市民劇場に誘っていただいたんですけれども、先程の角野さんの御講演の中であっても、松本さんのお話の中でも、その演劇とはダイアローグであるって言うか、その対話っていうのが凄く大事だって言うか、対話なんだっていう話が、ぐっと来てて、私も、演劇を見て、見た後に、なんかこう、心に浮かんだこう動いたものを誰かに話したいって思って、見るのは楽しいけど、話したい話したいっていうモヤモヤを持ったままだったんですけれども、先日、私の見た作品を、お友達と一緒に見て、その後、あそこのあのセリフはこうだった、ああだったっていう風に言い合った後の、演劇を見たあと、さらにおいしいみたいなことを、ほんとに、感じたので、それって、すごい素敵なことだなっていう風に思ったって感じです。
永浜浩幸(敬称略 以下永浜と略) ありがとうございました。私は、今のお話で、まず、やっぱり新しい学びがあると、演劇を見て、やっぱ発見できるものとか、あと、想像力ですね。自分を、舞台に立たれている方に置き換えて、自分がほんとにさもそのように行動してる。これって本当に、もう1人の自分があって、時には、自分に蓋をしているっていう、そういう自分に気付くようなところもあるのがすごくいいかなとも思いました。それと、あの、最後の方にも言われてました、演劇の素晴らしさの中で、多様性を持って、対応していかないかん。今、子供達って、多様な課題を、判断していく、決断していくのは非常に難しい時期だと思っております。その中で、広い範囲、多様な課題で、文系、理系、そういう風な枠を超えた子供たちが、社会的な価値の創造に結びていく資質とか能力の育成が、今期待されています。その中で、演劇に関わるっていうことは非常に大事なんじゃないかなっていう思いを持ちました。以上です。
和田一詩(敬称略 以下和田と略) 貴重なお話、ありがとうございます。共感したところというか、ずっと思っていたのが、学校の教育に演劇教育を入れ込むというところは、ずっと思っておりました。地域おこし協力隊で、鳴門に来てから、住み始めて6年ぐらいになるんですけど、当初から、どうしても、学校に入りたいっていう思いはあったんですけど、コロナであったり、そもそもコロナで学校へ行くことがなくなって、授業のカリキュラムが足りてなくて、そんなところに、入り込む余裕がなかったりとか、色々、課題があったりしながらも、ようやく今年から、学校の方に入ることができているんですけども、松本さんのおっしゃることが、もう全て、想いが一致して、伝え方は違えど、思いがほんとに同じで、これからもずっと、前向きに行動をしていかないといけないなと、強く思いました。
井上 ありがとうございました。それぞれ共感されるとこは多いだろうなと思ってたら、やっぱりそうだったので、安心しましたが。幾つか、松本さんのお話の中にあって、演劇の効用ということで、全てお話の中にあったんですけれども、その辺り、もう少し付け加えていただけることがありましたら…。どうでしょうか。パネリストの方か、松本さんもお願いします。素敵なことたくさんおっしゃって、やっぱり角野さんもおっしゃったことが引用されていて、やっぱりこの舞台空間、一瞬一瞬をみんなが共有して、同じ空気の中でおんなじことを共感するのが素晴らしいっていうことですとか、寂しいなと思う気持ちを癒してくれる力とかありましたが、どうぞ。
佐々木 私も、鳴門に来てから、若い頃は、お芝居を見に行ったりするのは、それがもうメインになっていて、それに合わせて自分のスケジュールを組んでいて、何時に阪急電車に乗って、何時に宝塚に行くみたいな感じでやってたんですけど、鳴門市民劇場に入ってからは、お仕事の中とか、子育ての中に演劇があって、こちらに向かっている間も、仕事のことを考えていたり、子育てのことを考えていたり、家族のことを考えていたりするんですよね。幕が上がり始めて、そして、お芝居が始まると、知らない間に、自分の物語を一旦離れるっていう風に、あの、松本さんおっしゃったけど、まさしくそんな感じで、その中に入っていって、知らない間に、その人になっていくっていうか、その人と自分を重ね合わせて、その中で、ふっと、自分の実生活のあの問題点のこう、解決の糸口がぱっと見つかったりとか、言ってほしかった言葉を相手の人が言ってくださってっていうか、劇中でですけれども、あ、そうだったって思ったりっていう風な、生活の中で演劇を見ていくって、こういうことなんかな、すごくいいなっていうふうに最近ずっと思っているっていう感じを、自分は受けています。
井上 演劇って、ちょっと敷居が高いように思われていることが、私たちも、色々お誘いする中で思うんですけれども、そうじゃないという、佐々木さんの素敵なお話だったんですが、和田さんは、子供たちに教えていて、変化があるとか、そんなご経験とか、お話できますか。
和田 演劇は、今年から、学校に入らせていただいて、ミュージカルというものを、鳴門で、子供たちと、1年かけて、1作品を作っていくような、長いスパンでやってるんですけど、なかなか、数字で評価ができないようなものですので、自分が見てて、なかなか判断しづらくて。ただ、感じることというのは、最初の頃と比べて、会話というか、対話の中で、生徒たちが発する言葉、伝えようとしてくる言葉に、なんかすごい重みがあるなというふうに感じるようになってきました。学校の教育とかでも、読み書きっていうのは習うんですけど、話すっていうところまでは習えていないようなところで、ミュージカルと言っても、心が動いて踊り出して、心が動いて歌い出す根底にはお芝居があるので、もちろんそのお芝居のことを一生懸命やっているんですけど、軽い言葉ではなくて、ほんとに重みのある言葉で、しっかりと会話ができるようになったなというのは個人的には感じていて、客観的に、お母さんたちが、子供たちが前向きになったよとか、学校は行けないけど、演劇の教室には行けるとか、そういうような意見もあったりして、自分としても、演劇に触れる機会っていうのをもっともっと増やしたいとも思って、鳴門で活動しているので、改めて、もっと頑張らないとなと。押し付けみたいなのよくないんですけど、自分のできる中で、もっともっと頑張っていかないとなと強く思いました。
井上 ありがとうございます。永浜さんも、演劇の効用とか、ご自身で狂言を習われてて感じることとか、あればお願いします。
永浜 やはり伝統文化に触れるっていう、非常に大事なものだと思います。それには、それをどういう風なものかを知って、ほんと、演劇も、敷居が高そうにも思うんですけど、実はそうじゃないんですよね、ほんとに。素晴らしい劇なんかは。例えば、この藍住町のホール、非常に素晴らしいホールだと思います。あの、先ほども角野先生が言われてましたけど、ほんとに一体感ある非常にいい会場。こういう会場に、よそに行かなくてもここで見れる、ここへ劇団が来てもらえる。本当に身近だと思います。私、ここにパネリストであげさせてもらってるんですが、鳴門市民劇場はちょっと前に入会して、演劇に関してはほんとに素人です。でも、その、劇の素晴らしさっていうのは、こういう風なところでお話させてもらうように、色々、調べていった中で、本当にこの魅力あるものだな、これは取り入れていかな駄目だな。例えば、学校の方にもちょっと校長先生とかにお話を聞きに行かせてもらっています。コロナでこの3年はちょっとできなかったけども、大体年に1回ぐらい、いろんな劇団に声かけて、呼んで、子供たちに見てもらっているそうです。本当、安心しました。子供たちに生の演劇を見てもらって、それを子供たちが感じる、ちっさい時に感じたものって、皆さんどうでしょう、大人になっても、その時の体験って、自分が生きていく上で、道しるべのようなものになってないでしょうかね。だからこそ、本物を子供たちには体験させてあげたいな。そういう中で、演劇は、本当に身近で、接してるものだと思います。自分自身、色々迷ったり、そうした時にはですね、ぜひ、この演劇へ、足を運んでいただいて、自分の心を動かしたり、感動したいなっていう、こういうところに、ぜひ、来てもらいたいし、また、親御さん、大人たちが、そういう風な、環境であったり、ものを示してあげることが、子供たちにとっての教育になるんじゃないかなっていうことを思いながら、これからも、演劇の魅力を伝えていきたいなと思います。以上です。
井上 ありがとうございました。テーマが、最初松本さんが力を入れてお話しくださった教育現場に演劇を持ち込むという、究極の願いと言うか、そういう目標に向かうんですが、まずは、子供達にも若い人達にも、たくさん演劇を見ていただきたいと言う願いが私達にもあるんですけれども、多分ここにいる少なくとも自分たちはそう思っていて、皆さんも共感いただけてる人が多いと思うんですが、やっぱり難しい点として、松本さんのお話の中にも、なかなか認められないとか、卒業しても何か仕事に就けないから、そういうことを国が、認めてほしいとありましたけど、もう少しその辺のお話をお願いします。
松本 選択科目にならないと…。美術大学はありますよね。美大を出た人がみんなものすごい日本画家や油絵の画家や彫刻家になれるわけではないじゃないですか。それこそ食えない。だけど、彼らは美術の先生になるという道が用意されてるんですよね。でも、演劇の選択科目がないので、もちろん文学座でも、角野卓造さんのように、テレビにも映画にも舞台にもっていう方もいらっしゃれば、角野さんよりはお仕事がうんと少ない方もいらっしゃるんですね。そういう意味では平等ではないじゃないですか。俳優の職業も芸術家の仕事って保障がないので、演劇の選択科目があれば、もしかしたら、演劇という学校ができたときに、みんながみんな俳優になれなくても、みんながみんな演奏家になれなくても、演劇を教える先生になる道があれば、多分、学部もできるんですね。、国立の大学ができると思うんです。だけど、先がないので。私は、明治大学の演劇学科っていうところ卒業してるんですけれども、そこは私立大学なので、そういう学科があるんですけれども、国立大学にないのは、多分そういう行き先が保障できないので。私達の仕事って本当に保障がないので、不動産借りる時がすごい大変なんですよ。いくら新聞持ってって、私はプロの俳優、演出家なんですって言っても、そもそも演出家は表に出ないので、誰も私のことなんか知らないので、お家貸せませんって言われちゃうんですよ。だから、それくらい、どうなるかわからないような職業なので、国立大学ができない。でも、逆に言えば、国立大学ができないから、演劇というか、選択科目もできないっていう、鶏が先か卵が先かみたいな話になっちゃってるんですよ。だけど、ダンスが、小学校で、体育の授業の1つとして必ずやることになりましたよね。ヒップホップダンスとか教えてるんですけれども、それと同じような形にはならないと思うんですけれども、もう少し演劇の、存在の位置付けをもうちょっと上げていただくと、演劇っていうものに対する垣根がもうちょっと皆さん低くなると思うんですよね。そうすると、鑑賞団体に入ろうかなって、芝居見ようかなっていう方も増えるだろうし、私たちも、東京で公演やってても、じゃあ見に行こうかなっていう人が増えるんじゃないかっていう。ま、夢ですけれども。プラス、先程も言ったように、前よりもコミュニケーション能力が低下してる若者がすごく多いと思うんです。日本人のいいところでもあり、悪いところでもあるんですけど、本当にみんなに人に合わせるの上手じゃないですか。でも、内心はえーって思ったりする。違うとか思ってるんだけど、外面よくして人に合わせることがすごく上手な民族なので、それは前から上手だったのに、もっともっと上手になっちゃったんですよね。で、そうすると本当に反対意見を怖くて言えなくなってきてるんですよ。それってすごく社会として危険なことだと私は思っていて。だから、私、若い頃は劇団にいても先輩の演出家の演出が気に入らなくて、演出助手なのに先輩を飲みに誘って、あそこのあなたの演出はこうだけど、私はこう思ってるんだって喧嘩を売りに行ったりとかもしてたんですけれども、最近そういう若手はもうほとんどいないですね。でもそれってすごく大事なことだと思うんですよ。たとえ先輩であれ、違うと思ったら、懇切丁寧になぜ違うと思うのか、もっとこうしたら面白いんじゃないかって直談判に行く。もちろんそれはそれで敗れることもあるし、全てが聞き入れられるわけではないんですけれども、でもそこで、だって俺はこう思ってあそこをこういう風にやってるんだよ、君はそう思うかもしれないけどこうなんだよって言われると、もう1回それで考え直しますよね。でもまた、じゃあもっとこうすればいいっていう第3の道が見えてくるっていう。そうすると、どんどん、どんどん解決策のバリエーションが増えていくんですよね。だから、そういう意味で、語れる日本人を増やしたいと思って、そういう意味でも演劇をとにかく、教育現場に入れるといいなって。あと、チームワークでやることなので、好き嫌い。さっきの旅公演で、毎日同じやつが隣で寝てるじゃないですけれども、もう時々めんどくさくなるんですよ。ほんとにあの人と付き合わなければならないことがめんどくさい。でも、最近、そのめんどくささをほとんど拒絶しちゃう若者が増えてるので、いや、このめんどくささはね、大事ですよ。豊かに生きていくためにって思うので、演劇ってめんどくさいけど素敵なんだよって、言っていきたいです。
井上 ありがとうございます。前半のお話と後半のお話があったと思って、前半、なぜ、演劇学部ができないかとか、そういうことで、受け皿がないという言葉があったんですけど、私、ちょっと角野さんにお伺いしてみたいんですけど、その劇団の方で受け皿をたくさん作っていただいて、演劇のプロになったら文学座に入れるよとか、そういうのをたくさん増やすとか。すいません、思い付きでした。
角野 そういうふうに応募してくださる方が増えればいいんですが。先ほど人数を申し上げましたでしょ。私が今から54年ぐらい前の話です。ちなみに、今年文学座を受験する人、約200人強です。それくらい、はっきり言って、これは文学座だからなのか、それとも、新劇というジャンルみたいなものに対する今の若い人たちがどういう認識を持ってるかっていうこと。芝居そのものがすごく衰退してるかっていうと、都会においては相当なインフレです。1つの座席が1万3000円ぐらいする大きな劇場が若い女の子たちで埋まってるんです。ジャニーズの子が出てるんです。そういう形でリフレインを、さっき宝塚のお話が出ましたけど、宝塚も結構リフレインする方で埋まります。だから、またこれもう1つ裏の話をしちゃってあれだけども、宝塚をトップで退団された方が演劇界は欲しい時期がすごくあった、プロデュース公演で。というのは、500人ぐらいのファンがちゃんとついてくるから埋まるんですよ。そして、その方たちは何回も見てくれる。ディズニーランドへ何回も行って楽しむのと同じように見に行く、いる。そこの席にいることがもう誇り、楽しみなんですね。だから、演劇界そのものが衰退してるかっていうとそうでもないんだけれど、僕の実感としては、文学座や俳優座さんや民藝さんや青年座さんや、いわゆる新劇という形で捉えられてる新劇っていう言葉そのものが、今若い人たちにはもうほとんど実感としてどんなのってのも、もうわからないですね。だから僕はその辺の、なんだろう、大人の楽しみ方ができる芝居をもっとちゃんと作んなきゃいけないし、それは小難しい話をやる必要はないって僕自身思ってるんです。もっと生活に根差したところのあるある、そういうことはっていう、みたいなところからもっと実感を持てて、それでなおかつ、ちょっと知的な楽しみみたいなことがちょっとあるようなね。いや、別に大衆的な、喜劇的なものでも構わない。なんかね、お客様が来てくださる何か魅力っていうものが、やっぱ僕らがやっぱりまだ今掴み損ねてる部分があるいう気がとってもしてます。何のお答えになってるかどうかわからないんだけれど。それはあるんです。それで、もうちょっと言うと、お客様が来てくださる、さっき、松本さんが作り手の魅力を話しましたけれど、やっぱりお客様を呼ぶ、劇場へ足を運んでいただく魅力をどう作るかっていうこと、それはやっぱりある。習慣もあると思う。観ず嫌いでいらっしゃる方も結構いてとか、最初に鑑賞会に入ったんだけど、見た芝居が重くて暗くてしんどくて、みたいな、そういうものもあるかもわからん。いろんなレパートリーがありますからね。だから、楽しくて明るくてわははがいいとは思わないですよ。思わないけど、でも、できれば最初に当たるものはそんなに難しいもんじゃなく、なんかまずは当たってほしいなと思って。僕は、40から10年間、自分で企画を出して作ってきて、ここへも呼んでいただいた。「缶詰」や「揺れる車の音」っていうのはそういうつもりでやりました。もっと、ものすごく赤裸々な告白をすると、当時「渡る世間は鬼ばかり」が大ヒット中だったので、奥様方が自分の亭主が何やってるかっていう芝居作ったら、絶対見に来てくれるだろうと思った。だから「缶詰」ってのはおっさん3人の芝居です。会社を追われた社長と専務と常務が、会社を追われてどうするかっていうことを相談してる芝居ですな。「揺れる車の音」っていうのは、落ちぶれたテキ屋が一家で九州をぐるぐる放浪してるっていう、そういう話だけど、奥様方がきっと自分たちがどうしてるかよりも、亭主は何やってんだっていう芝居を作ったら、多分興味を持って観に来てくださるんじゃないかな。ちょうどその頃まだバブルが弾けて、まだ少し弾けてましたけど、少し勢いがあったから奥様方に余裕があったんですね。高知なんて会員が9,000人ぐらいいった時があるんじゃないかな。オレンジホールで10日ぐらいやったことあるんですから。もちろん、だからずっと四国をしっかり回ってね。徳島はこちらと、それから徳島と、阿南、ずっと四国へ来ると、もうルートはもうすごくもう決まってました、僕らが。でも、いつの間にかちょっと四国が少し少なくなった。やっぱり社会の情勢とも、もちろんそういうことは色々関わってきますから。だけど、やっぱりなんかこう、呼ぶ魅力を僕たちはもっと考えなきゃいけないなっていうことを、今伺ってて思いました。何のお答えになってるかわかりませんが。
井上 続いて、素敵なお話が伺えて良かったなと思います。御経験と共に。「缶詰」も「揺れる車の音」も本当に楽しくて。何か皆さんね、鑑賞会って誤解してるんですよね。難しい芝居かな、ばかりかなと。でも、佐々木さんもおっしゃったように、生活の中で見る芝居だということをもっともっと広めたいなという思いでありますが。もうちょっとお時間ありますので、さっき、教育のお話、なかなか、授業の中に取り込めない課題みたいなところを、国のレベルでは松本さんにもう一回お聞きしたんですけれども、地元で何かそこに課題があるかって言ったら、今ワークショップとかされてる和田さんとか、学校で読み聞かせとか、子供達と一緒に活動された佐々木さんとか、何かございますか。何が難しいんでしょうね。もうちょっと一歩進めて。
佐々木 えっと、何が難しいって、それはちょっと言えないかもしれないけど、さっき、角野さんがおっしゃったみたいに、私は読み聞かせを、ずっと、もう10年以上やってるんですけれども、確かにいい絵本はあります。で、いいテーマのものもあります。そして、こう、素晴らしいストーリーのものもありますけれども、初めて読む、初めてお伝えするようなもの、いきなり、すごく戦争の重いもの、すごい感動するから読みますよって言っても、誰も聞かないし、さっと引いてしまうし、もう2度と聞いてくれないで、やっぱり最初は楽しかったり、一緒にやったり、心が踊ったりするようなものおから始まって、そして、絵本もそうだし、きっとその、演劇もそうだと思うんですけれども、そのものが持っている力っていうのは本当に絶大で、一度興味を持てば、その相手がどんどん勝手にその魅力にはまっていってくれるっていう、何か信頼関係がし、そのー必要なんかなっていう風には思ったっていうのを、すごく、先ほどのお話で感じました。じゃあ、和田さんは?
和田 はい。学校に行って、まず、聞くことは…。演劇見たことある人とか、ミュージカル見たことある人って訊くんですけど、先日行った学校、100名ぐらい生徒がいらっしゃったんですけど、3人ぐらいしか手を挙げてなかったです。で、コロナっていうところもあって、映像で見たとかいうのあったんですけど、実際に生の演劇とかミュージカル、舞台を見たっていう声がほんとになくて。もうちょっとあるのかなと思ったんですけど、まずそこからかっていうのが難しいって思う。感じる第1歩というか、もう思ってしまう1歩目の難しさですね。
井上 ありがとうございました。まず、体験者を増やしたいということで、私達の、鳴門市民劇場も何とか、騙して、騙されたと思ってもいいから、お母さん方にアプローチするのがいいのか、先生なのか、若い人に来てもらいたい、それから、大学とか学生さんにも来てもらいたいということで、色んなことをアプローチしているので、これからももうやれることは全部やっていかないといけないかなという風にも感じました。色んな、お話をさせていただいているんですけれども、もうちょっと、やっぱり今日のテーマって演劇の力っていうこともあるんですが、永浜さんが文化を大事っておっしゃったように、東京には、本当に色んなチャンスがあって、それこそ新劇でないものを見る機会もありますけども、色んな文化に触れるチャンスがあるんですが、地方って本当にない、今、ホールも閉館になっているわで、もう徳島って今、大勢が入るホール、本当に2つぐらいしかないんですよね。そんな中でどんどん衰退していくのは本当につらいことなので、どんな風にその地方の文化を維持、成長させていったらいいのかなというのは、何か、ありましたら、お3人の中でもいいですし、松本さん、角野さんでアドバイスが、いただけたらいいかなと思いますが、どなたか。
永浜 やはり、子供達、まず、近くの、幼稚園から小学校、中学校、高校もあります、本物を、テレビだったり画面を通してでなくて、直に見てもらう、本当に、一体感を味わってもらう、これは非常に大事かな。やはり有名なところの劇団等々をお呼びしたら、お金もかかって保護者の負担もかかるということで、先生も非常にそこらへんは考えられて、一応、学校の方にも案内が来るそうです。学校関係を回ってる劇団、そういうところでしたら、金額の負担も少なくて、呼びやすいとは言うんですが、それもなかなか、その劇団が、その近くを回った時でなかったら呼べないという、日程調整なんかも非常に、先生なんかも、そこらへんが難しいなっていうようなことは思われてるみたいですが、そういう機会は作ってるみたいです。ですから、子供たちが見たら、お母さん、お父さん、あれ見たい、そしたら、保護者もやっぱり一緒に見に行くようになると思います。そういう時にまた保護者にそういう風な観劇の良さを広めれるんでないかな、こういう風には思います。
井上 ありがとうございました。地方における課題ってぴんと来ないかもしれないんですけど、東京の中央にいらっしゃって、何かアドバイスをいただけることとかありますか。
松本 プロの、新劇系の劇団にいるものとしては、こちらがもっと文学座の芝居を見たい、もしくは松本の演出した作品を見たいと思っていただけるような作品作りがどうやってできるか、どういう企画が皆さんを楽しませて、皆さんの心を癒すことができるのかっていうことを考えていかなければならないと思いますし。私は、言うたら、何もプロを呼ばなきゃいけないでもないのかもしれないと思ってるんですよ。例えば、その和田さんが今小学生の皆さんとミュージカルを作っている。それが例えば今は、年に1回の公演かもしれない。それが次は年に2回公演ができるようになるとか、例えば公演日程が1日増えるとか。それを、もちろん親御さんは見に行くでしょうけれども、その単なる子供の発表会っていうレベルじゃない何かがそこからできてくる可能性だってあるわけですよね。それが、小学生の公演なのか、高校生ぐらいの公演なのか、もしくは社会人劇団の公演なのかっていう形で、プロフェッショナルだけを、招へいするだけが文化ではなくて、自分たちで、作っていくものの、作品としての、熱量を上げていくためにどう活動していくかっていうことがすごく大事だし、それを地域がどうやって支えるかっていうことがすごく大事だと思うんです。例えば、佐々木さんのやってる読み聞かせとか、絵本を大人にとか、紙芝居でもいいですわね、それって、すごく対象の人数は、こういう、600人とかじゃなくて、10人とか、5人とか、もっと少ないかもしれないし、もしくは、50人ぐらいとか、そういう小さなキャパ、でもそれって、すごく表現行為だし、演劇的な活動だと思うんですね。草の根的なことはずっと絶やさずやって、それを、みんなで助け合って、そこに参加する人を増やしていくことで、今度、たまには贅沢して、プロの作品見ていこようかとか、市民劇場に入って、例会をお呼びしようかとか、なんか小さい頃からそうやって読み聞かせしてもらった子が、その文字が立体化することに対して興味を持って、その先、演劇に興味を持ってもらうとか、なんかもうそういうレベルでもいい、そういうレベルこそ大事っていうか、そういうことがやれてたら、別にそれは文化がない地方ではなくて、とても文化的な地方でありうると思うんですよ。だから、今こちらに並んでらっしゃる方は多分そこを目指して今活動をなさっていらっしゃるので、そこをたゆまず頑張っていただくのと、皆さんがそれに対してファンになっていただくっていうか、なんだったら私も読み聞かせしてみたいとか、そういったことを、相互にやっていって、熱量と質と量をそれぞれ増やしていけたら素敵なんじゃないかなっていう風に思います。
井上 ありがとうございました。本当に、まさに今、私達は、正直言ってなかなか、鳴門市民劇場の会員を増やすという狭い範囲ではなかなか壁にぶち当たることが多いんですけども、そういうことではなくて、今日こういうテーマを掲げて、イベントをさせていただいた理由は、このパネリストのお三方のように、ちょっと違うとこで、文化維持を頑張ってらっしゃる方々と、知り合って話をすることで、もっと色んな、この徳島の地で、そんな堅苦しくなく、色んなことをフュージョンしながら一緒にやっていけるっていうネットワークができたなっていうのが、凄い財産に今日思えたんですね。だから、本当に、これからもね、皆さんよろしくお願いします。もっともっとそういう方々を、一人の先にまた大勢いらっしゃるでしょうから、そういう風に、ここに今日来てくださった皆さまを交えて広げていけたらなと、今お話を聞いて、まさにそんなことを思いました。どんどん時間が迫ってくるんですが、いきなり最後というのもあれですけれども、松本さんのお話の中にもありましたけれども、今本当に何がライバルって、AIとかテクノロジーがどんどん発達して、私達の活動ってやっぱり時代にちょっと逆行してるような、めちゃくちゃ共感できるんですけど、人と人が実際に会って、何かを対話して、そこから生まれる力を信じてるからやってる。それは絶対いいことだって信じてるんですけど、でもやっぱり何か、違う風に時代が行ってる中で、どんな未来を描いたらいいのかって。また大きな質問ですみませんが、何か、もう言われてることと同じかもしれませんが、お一言ずつ何かありませんか。AIやテクノロジーにどう対抗したらいいかみたいな。何でもいいです。ライブエンターテイメントの、可能性と言うか力をもうちょっと、どうやって訴えるか。はい、角野さん、お願いします。
角野 私、今でも折りたたみ携帯なんです。パソコン持ってないんです。一切。そういうものに関わらないようにしようと思ってる。私、残り時間あんまりないですから、なくても大丈夫じゃないかという判断ができます。これ以上の情報をもらっても、今俺の部屋にある、ブルーレイディスクとか、テレビから録画したドキュメンタリーだとか、それから古本屋で買ってきた本なんか読みきれない、残っちゃうぐらいかなって思うんですよ。だから、必要な人はそれが必要に応じて使えばいいっていうか。今若い人は、それが使えなければ仕事にならないんだから。会社行ったって仕事にならないんだから、それはそれで思う存分使いこなせばいいと思うんです。奴隷にならないでね。だって、電車に乗って山手線乗ったら、そのに乗ってる99パーセント、スマホ見てますよ。だからスマホもいろんなことができるわけで、それは一概に何だからダメっていうことじゃないと思うけど。私、折りたたみ携帯出しても何も見るもんないから、ショートメールだけは、いやいややってます。これは非常に便利だなと思う。昔は時間制限があったから、余計なこと言わないようにして、文章をただこう詰めるのにすごく役立ったけど、今は時間無制限なんで、いくらでもメールと同じように書けるんですけど。だから、人に応じて、必要な人は必要な人がいるんです。この日本の中にもうほとんどが必要な人だと思うけど、私は自分で必要ないと思ったから触らないようにしています。以上です。
井上 武士のような発言をありがとうございました。もうちょっとだけ若い世代のお三方に、未来について、夢でもなんでもいいです。
佐々木 もちろん、もう今は、AIだったり、スマホだったり、そういうものが、あって便利なものは全部使っていけばいいと思うんですね。私たちが本当にしないといけないことに一生懸命になれたらいいんじゃないかなと思いました。松本さんがおっしゃってた、演劇を作り上げていく上で、すごく色んな人と対話をしていく。喧嘩じゃないけど、対話していくっていうのは、きっと同じ目的を持っている仲間だからこそするんですよね。そんな、熱い会話を、電車で隣り合ったおじさんに、いきなりって言ったら、それはいけないじゃないですか。本当にその、同じ空間で同じ目的を持っている人と丁寧な対話をしていくっていうことは、これから先も絶対なくならないと思うし、今だからこそやらないといけないっていうふうに思いました。確かに若い人たちは、あんまり上手に自分の説明を、自分の気持ちを説明したりとかできなくて、ちょっと何か違う意見だったらぱっと切ってしまって、それ以上は、関わらなかったりするんだけれども、生きていくうちに、そうじゃない場面だって絶対出てくる訳じゃないですか。そういう時に、演劇とか、演劇じゃなくてもいいんだけれども、阿波踊りかもしれないし、祭りとか、そういう中で、同じ目的を持って、丁寧に対話していくっていう能力が、培われたらいいなと思うし、演劇だけじゃなくて、演劇が1つの選択肢になったらいいなって思うんです。徳島って、スポーツもあれば、音楽もある。スポーツも、野球も、サッカーもあるし、音楽だって、第九だってあるし、いっぱいある中で、その中の1つの選択肢に演劇がなってほしいなっていう風に思っています。
永浜 AIについては、自分が使いたい時に使う。将来的にはAIに左右されるかもわからん言われてる時代ですけれど、やっぱり1番大事なのは、AIが発達しても、人を思う心、心遣いは大切かな。ここは非常に大事なとこで、いかにAIが発達しても、やっぱり相手を思いやるとか、相手を傷つけない、こういう気持ちは非常に大事であって、持っていただきたいなと思っております。先ほどからたくさんのいいお話を伺っていますが、私も少しだけ、観劇の良さを自分なりに感じたことを少しだけ、発表さしてもらいます。舞台の魅力っていうのが、非現実空間で、物語の中に自分が入っていく、没入感がある。また生ならではの、空気感、アドリブとか、ハプニングも色々あるみたいです。あと、考え方の変化があります。想像力が豊かになったり、多角的な視点が持てるようになる。また、知識が増えると、演劇を見ているときもそうですけれど、見終わった後に、自分の感性を磨くことができる素晴らしいものだと思っております。以上です。
和田 芝居は、生が1番ですという前提はありつつ、自分も、8Kというハイビジョンがあって、8Kの作品に出演したことがあって、初めて、8Kの映像を見たときは、びっくりしました。劇場では、8Kの幕が降りてきて、後ろから投影するんですけど、奥行きとか、悔しいですけど、技術の進歩というか、音も、最近だったら、天井から音が下りてくるとか、色んな、設備ができてきて、それにあやかってるわけなんですけども、やっぱり芝居は絶対的に生が1番なので、やっぱそこは忘れずに、どうしても劇場に行けないとか、そういう環境もあるので、そういうところで、演劇に触れる1つの、ツールとして、使う分にはいいなとは思っています。やっぱそればっかりになってしまうと、なんかもう変なことになってしまうので、そういう、演劇に触れる1つのツールとして使いつつ、あの、AIに負けないように、自分たちも、役者として頑張っていかないとなと、AIに乗っ取られてはほんとにどうしようもないので、でも、実際にほんとにそうなりそうで、ほんとに怖くて。でも、もう自分たちの世代が、どんどん技術が発達していって、それにもう追い越されたら負けなので、もうリアルな芝居を演じられるように、そしてリアルを、未来を担っていく子供たちに伝えていけるように、その心だけはもう絶対に忘れずに。AIに対抗するわけではないですけど、時代とともに歩んでいかないといけないんですけど、そこの信念だけは忘れずに、やっていかないといけないなと強く思いました。
井上 ありがとうございました。本当にもっとお話をしたいような気もいたしますが、時間に限りがあって。また、手際よい進行ができずに申し訳ありません。この辺で、締めたいと思うんですけれども、特にまとめの言葉がなくても、もう素敵な言葉がいっぱいありましたので、第一部の御講演から松本さんのキーノートスピーチまで、演劇の効用ということは、もう数々、素晴らしい言葉がありましたのでもう繰り返しませんが、皆様方、今日お越しくださった方々、市民劇場の会員でいらっしゃる方も違う方もいらっしゃると思うんですけども、何か1つでも2つでも3つでも10個でも、こんなことがあるんだなと思って心に残る言葉があったら嬉しいなと思います。今日、1つのテーマは、若い世代にも教育の現場にもということもありましたので、また、お近くの、若いお母さんですとか教育者の方とか、そういう方々にも今日のお話を伝えていただければ嬉しいかなと思います。ありがとうございました。角野さんに最後、御講評をいただいてもよろしいでしょうか。
角野 講評などできる立場ではございませんが。僕は今回お話を聞いて思ったんだけど、松本くんが言ったように、僕はちょっと夢想してました。この街の、この地域の子供たちが、この舞台にわあっと立って、ほんとにのびのびと楽しく、学芸会でもいいです。なんでもいいです。せっかくこんな素敵な劇場があるんだから、まずそこから始めたらどうですか。それをね、すごく夢想しました。その子どもたちは、何かきっと胸に残るものがあって、例えば何かを見る時もきっとそのことを思い出すだろうし、あー楽しいことなんだよっていうことがね、1番根っこにまず植えられるんじゃないかなっていう。それを国がやってくれたら、教育として取り入れてくれたら、もちろんその演劇学科まで続くそういう教育はおそらくやった方がいいに決まってるので。ただ、今の現実を見るとですね、地方自治体だっていろいろすごく苦労して、ある形でもって勝ち取っている。例えば岐阜の可児いう町もあります。それから水戸芸術館を作った鈴木忠志さんとか色々あるけど、今また地方財政が厳しくなっていて、そういった文化に対して、やっぱりあの、どんどん、どんどん削り取っていくような形になっているので、もっと素朴なところから始めたらいいなと思って、その子供たちがここを走り回る姿を、僕は今日、夢想しました。そういう姿を見てみたいです。今日は本当にありがとうございました。
井上 素敵な感想で、また目標ができたような気がいたします。パネリストの皆さんにもご協力いただいて、夢を見ていきたいと思います。今日は本当にありがとうございました。短い時間でしたけれども、パネリストの皆様に盛大な拍手でお礼を申し上げたいと思います。ありがとうございました。
司会 皆様の素晴らしいパネルディスカッション、あるいは松本祐子さんの素晴らしい基調講演そして最後の角野さんの御講評、堪能されたと思います。これを持ちまして、鳴門市民劇場25周年記念講演会を終了しますが、最後に、本日の講演会の実行委員長を務められました、井上誠さんより、皆様に閉会の挨拶がございます。
井上誠 皆さん、長時間、本当にありがとうございました。今回、25周年記念講演会の実行委員長を務めました井上誠と申します。昨日、夜、なかなか寝られなかったんですよね。ここで話をする前、1月からずっと、苦労して、どうやって、どんないい企画にしようかって、みんなで考えて、実行委員会のメンバーと作り上げてきて、ほんとに寝られなかったんですけども、隣の人、ここにいて喋ってた人、実はうちの嫁なんですけども、ぐっすり寝てました。途中でまたちょっとうとうととしてね、また目が覚めたんですけども、隣見るとぐっすり寝てました。ということで、ここまで苦労してやってきたんですけども、25周年、この上の、題字、見てください、これ会員さんに書いていただきました。それと、このチラシ、これも会員さんに作ってもらった、全部手作りです。こんな素敵な字を書いていただいて、この会を準備してまいりました。25周年て、長いようで短いようで、本当に、谷あり山あり、ずっと鳴門市民劇場って、7年間クリアを続けて、クリアって、どんどん人を増やし続けてですね。そういう時期もあったんです。ところが、コロナになって、一気に800人近くいた会員が300人も減ってしまったんですね。今、存続の危機なんです。低い状態で今続いて、もがいてるとこです。だからか今度、この25周年というのは、ここに書いてますように、新たな展開に向かってということで、30周年をですね、もっと盛大に向かいたいなということで、これを企画しました。今日、鳴門市民劇場の会員さんもたくさんいらっしゃると思います。会員さんは辞めないで、ずっと続けていただきたい。こういうチラシが皆さん入ってると思います。緑は今年やってきたチラシです。黄色のは、来年のチラシなんですけども、いい作品ばかりで、来年も、期待できますので、ほんとに、続けて、再来年もまた、すごいんですよ。もう決まってるんですけどね。本当に続けていただきたいと思ってますし、ここにいらっしゃる方々で、角野さんを聞きたいなと思ってこられた方、会員でない方もたくさんいらっしゃると思います。そういった方もですね、今日の話聞いて、パネルディスカッション、とても素晴らしかったと思うんですけども、演劇の力ということで、ぜひとも会員になっていただければ、ここにちょこちょこっと名前を書いて、あそこに出していっていただければ、11月例会から、月々2,500円ですので、5,000円で見られます。お子さんはあまりここにいらっしゃらないかもしれないですけど、けども、たったの500円で見られますので、入って、次の30周年はここを満杯以上、本当にたくさんの人で、世界に鳴門市民劇場を盛り上げていきたいと思います。それと、鳴門市民劇場って言いますが、藍住のこの素晴らしいホールです、藍住にもステージを残していきたいという、大きな目標がありますので、本当に、皆さん全員で色々演劇好きになってもらって、もっと盛り上がっていきたいなっていうのが私の思いです。長くなりましたけど、本当にどうもありがとうございました。
E-mailでのお問い合わせは 鳴門市民劇場ホームページ nrt-geki@mc.pikara.ne.jp まで。