以下は「歌舞伎名作辞典」演劇出版社発行の「三人吉三巴白浪」(利根川裕氏執筆)の項より引用した。『三人吉三巴白浪』は河竹黙阿弥の代表作。万延元年正月市村座初演。七幕の長篇、大川端はよく出るが、文里・一重の件りは省略が多い。
《あらすじ》
◆万延元年(一八六〇)一月、この年は庚申(こうしん)にあたる。古くから庚申の宵にはらんだ子は盗癖がある、といわれる。白浪作者としては、この言い伝えを活用して、お嬢吉三(おじょうきちさ)、お坊吉三(おぼうきちさ)、和尚吉三(おしょうきちさ)の三人の盗賊を生みだし、これに因果の綾を縦横にからませる。
◆この狂言では、名刀庚申丸とその代金の百両とがついてまわる。
◆頼朝公から名刀を預った安森源氏兵衛(やすもりげんじぺえ)は何者がの手で刀を盗まれ、その責を負って家は断絶、身は切腹。その長男の吉三(お坊)は放蕩無頼の徒となり、妹は新吉原丁字屋で一重(ひとえ)と名乗る花魁となっている。
◆さて盗まれた刀は川底から発見されて道具屋木屋文蔵(きやぶんぞう)に渡り、海老名軍蔵(えびなぐんぞう)がそれを百両で買い求める。海老名も殺され、刀は何人かの手に渡ったうえ、お嬢吉三のものとなる。
◆一方、道具屋の手代十三郎(じゅうざぶろう)は海老名に売った代金百両を持ち帰る途中、夜鷹のおとせと遊んでいるうち金をおとしてしまう。その百両を拾ったおとせが十三郎に手渡そうと夜道にさしかかったところで、お嬢吉三に奪われる。そこへお坊吉三と和尚吉三が来かかって義兄弟の血盃をかわし、金は和尚があずかる。
◆ところで大金をなくした十三郎は身投げを決意するが、土左衛門伝吉(どざえもんでんきち)に助けられ、その家に身を寄せる。この伝吉は和尚吉三とおとせの父であり、じつは十三郎もおとせと双生児だったのだが、八百屋久兵衛の養子となっているのだった。(さらに、この久兵衛の実子がお嬢吉三である)
◆さて、百両の金は和尚から父伝吉に渡されるが、お坊吉三がその金を奪い伝吉を殺す。
◆やがて悪事で詮議に追われる三人の吉三は巣鴨の吉祥院で再会するが、ここでお坊は和尚の父を殺したことを知り、またお嬢は百両を奪った相手のおとせが和尚の妹だったと知り、その非道と罪を悔いて死のうとする。
◆ところが和尚は二人をとどめ、畜生道におちた双生児の十三郎とおとせを殺し、その首を身替りとして、お嬢とお坊を逃がそうとするが捕手に囲まれ、三人は三つ円となって刺しちがえて死ぬ。
◆以上の本筋のほか、木屋文蔵の伜の文里と丁字屋一重との纏綿たる愛情話がからむが、現行の上演ではカットされるのが例である。
《見どころ》
◆歌舞伎の代表的なせりふといえば
「月も朧(おぼろ)に白魚の篝(かがり)も霞む春の空 つめてえ風もほろ酔いに 心持よくうかうかと 浮かれ烏のただ一羽 塒(ねぐら)へ帰る川端で 棹(さお)の雫か濡手で粟 思いがけなく手に入る百両・・・」
がある。ご存知お嬢吉三の名調子である。場面は「大川端庚申塚」。このせりふが切れたところで、「おん厄払いましょう、厄落とし」の声が入りそれを受けて「ほんに今夜は節分か 西の海より川のなか 落ちた夜鷹は厄落とし 豆沢山に一文の 銭と違って金包み こいつあ春から縁起がいいわえ」
とお嬢がつづける。こういう七五調のせりふは黙阿弥の得意中の得意芸だが、ここの叙景文が、節分の宵という風物誌とうまくマッチしているところが、とりわけ人に愛されるゆえんであろう。
◆じつを言えば、このせりふには意味不明なところが多いが、ここは説明文としてではなく、一種の詩的飛躍とうけとるべきである。当然、役者は歌うように言わなければならない。
◆この場では、女装のお嬢の男と女の使いわけも面白いが、浪人お坊、巾着切和尚との三人の出揃うのが楽しみである。
◆三人とも盗人根性の悪人にはちがいないが、大悪党ではない。愛すべき小悪党たちなのである。お嬢は「利かぬ芥子(からし)と悪党の凄みのねえのは馬鹿げたもの、そこで今度は新しく八百屋お七と名を借りて」いるのであるし、お坊もみずから「小ゆすり衒り(かたり)ぶったくり、押しの利かねえ悪党」と自己紹介している。和尚にしても「非道な悪事はしねえ」のであって、切迫した幕末期のアウトロー的若者の三様の風俗が見られるのも一興である。当時の頽廃的グンデイズムの生き生きとした描写である。
◆そういえば、和尚の父伝吉の登場する「割下水伝吉内の場(わりげすいでんきちうちのば)」は、割下水という土地の指定からして、江戸の下町を浮かびあがらせる。土左衛門伝吉という人物がまた面白い。もとは不具者を見世物にする因果物師で、夜鷹宿の主人、というあたりにも、幕末期の生活のに培いがプンプンとたちこめる。その伝吉が庚申丸を盗んだとき、吠えつく雌の孕み犬を斬るが、その報いで妻は狂死、それで一念発起して水死人をひきあげては回向する信心家になっているわけで、黙阿弥の因果観や勧善観の体現した人物として、重要な脇役である。
◆伝吉がお坊に浴びせる啖呵(たんか)の「悪事にかけちゃあ仕倦きたからだ、うらがように駈けだしのすり同様な小野郎とは、また悪党のたちが違う、それほど悪い身性でも、ふとしたことから後生を願い、片時放さの肌の珠数・・・」
など、三人の若い小悪党とちがった奥行のある人物で、伝吉の存在によってこの芝居ばぐーんと厚みを増すのである。
◆この狂言は、黙阿弥作品中でも、とりわけ筋立てが入り組み、すべての人間に因果のしがらみが、絡みついているが、相思相愛の十三郎とおとせがじつは双生児(本人たちはそれを知らない)だったという因果も、たいへん刺激的である。この近親相姦の畜生道を葬るために兄の和尚の凶刃をふるう場所が、吉祥院裏手の湯灌場(ゆかんば)なのも、いっそう劇的昂奮をたかめる。
◆「巣鴨在吉祥院の場」では三人の吉三が再会するが、ここのお嬢とお坊のあいだに、同性愛といえばいえるような情愛の通い合っているところも、作者の世紀末的描写の一つのポイントであろう。女装したお嬢という倒錯美をもうひとつ延長させて、お坊との性を予想させるへんに、黙阿弥の「悪の華」がほの見える。
◆大切の「本郷火之見櫓の場」となると、作者がもともとお嬢吉三に八百屋お七の趣向をとり入れていたことが、はっきりとしてくる。雪の降りしきるなか、お嬢は振袖姿をふり乱して櫓にかけのぼり、必死に大鼓を打ちならす。捕手を追い払おうとするお坊。そして太鼓の音で開いた木戸から駆けこんでくる和尚。
◆この場は、ドラマというよりは景事である。筋立てとしては、ここへお嬢吉三の実父である八百屋久兵衛が来かかり、庚申丸と百両の金の二つながらその手に渡されるが、さして重要な意味はない。一種の舞踊劇のように、この場の情景を楽しむほうが大切である。
◆ここでは、清元と竹本が掛け合いで情趣を盛りたてる。
清:櫓太鼓の三つ巴めぐる因果と三人が
竹:差し違うたる身の終り
清:悪事は消える雪解に
竹:浮名ばかりぞ・・・
◆陰惨な因果物語でもあったこの狂言は、こうして雪で清められながら終る。こういう幕の閉じかたがまた黙阿弥劇の特色である。
以上引用終わり
スタッフ
作 河竹 黙阿弥 かわたけ もくあみ 美術 鳥居 清光 とりい きよみつ 照明 塚原 清 つかはら きよし 音楽 杵屋 佐之忠 きねや さのただ 立て 尾上 菊十郎 おのえ きくじゅうろう 衣装 伊藤 静夫 いとう しずお 進行 高木 康夫 たかぎ やすお 舞台監督 鈴木 幹二 すずき かんじ 制作 長内 孝 おさない たかし キャスト
和尚吉三 おしょうきちさ 藤川 矢之輔 ふじかわ やのすけ 大坂屋 おおざかや お嬢吉三 おじょうきちさ 河原崎 國太郎 かわらさき くにたろう 山崎屋 やまざきや お坊吉三 おぼうきちさ 瀬川 菊之丞 せがわ きくのじょう 浜村屋 はまむらや 土左衛門伝吉 どざえもんでんきち 市川 祥之助 いちかわ しょうのすけ 沢潟屋 おもだかや 手代 十三郎 てだい じゅうざぶろう 亀井 栄克 かめい よしかつ おとせ 山崎 杏佳 やまざき きょうか 山崎屋 やまざきや 八百屋 久兵衛 やおや きゅうべえ 小佐川 源次郎 おさがわ げんじろう 鯛屋 たいや 釜屋 武兵衛 かまや ぶへい 益城 宏 ますき ひろし 堂守 源次坊 どうもり げんじぼう 柳生 啓介 やぎゅう けいすけ 金貸 太郎右衛門 かねかし たろうえもん 松涛 喜八郎 まつなみ きはちろう 研師 与九兵衛 とぎし よくべい 姉川 新之輔 あねがわ しんのすけ 鯉屋 こいや リンク先は前進座のサイト
上演予定
鳴門市文化会館 9月12日(木) 夜6:30〜
※約400台の無料駐車場あり
阿南市市民会館 9月21日(土) 夜6:30〜
上演時間 3時間 (休憩時間を含む)
徳島市文化センター 9月10日(火) 夜6:30〜
9月11日(水) 昼1:30〜
夜6:30〜
E-mailでのお問い合わせは、 nrt-geki@mc.pikara.ne.jp まで。