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11月例会 作者講演会

「はい、奥田製作所。」作品への思い

講師 劇団銅鑼 座付き脚本家 小関直人(おぜきなおと)

2013年9月29日(日)青少年ホーム運動教室(鳴門市老人福祉センター3階)


講演会写真

はじめに

  私は「小関(オゼキ)」、脚本家ですが、この新聞記事にでている方は、小関(コセキ)」さん。50年以上の間、旋盤工として働きながら、町工場に関するルポや小説などを沢山書かれている方です。劇団銅鑼は、これまで四国には『流星ワゴン』、『橙色の嘘』という作品で伺わせて頂いています。

  脚本は、私の場合「1. テーマ」「2. モチーフ」「3. 場面設定」「4. 人物設定」「5. プロット」「6. 台詞」という順序で作っていきますので、今日はそんなお話も交えて『はい、奥田製作所。』のご紹介をします。

劇団銅鑼について

  「銅鑼」という名前は、昔、築地小劇場で、芝居が始まる前に「銅鑼」が鳴らされていたことから…、また、社会に警鐘を鳴らすという意味もこめて名づけられました。設立は41年前で、民藝にいた鈴木瑞穂と演出家の早川昭二(故人)等が創立メンバーです。創立直後、文化座から来た森幹太(故人)が加わりました。私は銅鑼に入って20数年になります。昨年は、新作の脚本を書いていたので、この作品についてこうやって皆様の前で話すのは実は今年初めて…。多くの方を前に緊張しています。

  銅鑼は、創立以来、民主的運営を大切にしている劇団です。つまり、たとえば幹部がいろんなことを決めるのではなくみんなで何でも決めていきます。月に一度、全体集会(約50人)を開くのですが、上は70歳代後半(瑞穂さんは85歳ですが“団友”という、顧問のような立場です)から、下は入ったばかりの20歳代までいます。このメンバー全員で、劇団のレパートリーから、規定といった細かいことまで、ワイワイと話し合っています。

  銅鑼の代表作は『センポ・ スギハァラ』です。これは、第二次世界大戦のときに、リトアニアのカウナス領事館に赴任していた杉原千畝という人の話で、彼はナチス・ドイツの迫害によりポーランド等欧州各地から逃れてきた難民たちに、外務省からの訓令に反して、大量の通過ビザ(通過査証)を発給し、およそ6000人にのぼる人々を救ったことで知られています。この作品はアメリカ、ポーランド、韓国、中国、そしてリトアニアなどの海外でも公演しました。

  また『燃える雪』という、創立15周年記念の作品がありますが、これは岩手の沢内村という豪雪地帯で有名な村を舞台にしました。高度成長期の時期なのですが、まだ無医村で、病気・貧しさ・雪の中というたいへんな状況を背負った村。でもそんな状況の中、経済の発展よりも人の命を大事にするという思いで、たとえば女性達が活躍して保健活動に力を注いだり、老人医療費を無料にする等さまざまな試みを、村長のもとに、一人ひとりが力を合わせて達成することで村が再生した…、それを描いた作品です。

『はい、奥田製作所。』の脚本の想い

  昨日まで長野ブロックで公演をしていました。11月はこちらに来させていただいて、12月からは北海道です。

  2008年に初演、その後紀伊国屋サザンシアターで再演した作品です。2011年の震災の年に首都圏・神奈川県ブロックで、翌年には近畿と関越ブロックの例会にしていただきました。

  震災のときには、稽古場が罹災して使えなくなってしまったのですが、鑑賞会の皆様方のおかげで新しい稽古場をつくることができまして、本当にありがとうございました。

  では、最初にお話した脚本をつくるときの順序に沿って『はい、奥田製作所。』のご紹介をします。

テーマ選び

  実は、先に創立25周年のときに書いた『池袋モンパルナス』という作品、30周年のときに書いた『Big brother』という作品があって、この2つが今回の『はい、奥田製作所。』につながっています。

  まず『池袋モンパルナス』は、時代は昭和のはじめから敗戦までで、池袋にあった、芸術家が集まるアトリエ村を舞台にしたものでした。画家や俳優、音楽家、そういった芸術家たちが集い、芸術が花開こうとした頃に戦争が始まり、その波はこの地域にも押し寄せます。人間賛歌をうたっていた芸術家たちが、戦争画を描いたり、そういうことを余儀なくされ、最後には焼き尽くされてしまうアトリエ村。そこにいた芸術家たちの記録を元にした作品です。なぜこの作品を書いたか…についてお話します。私は20代後半に劇団に制作として入りました。制作というのは何でも屋で、旅公演の世話などもします。『池袋モンパルナス』は30歳で書きまして、これ以来、座付き脚本家になりました。実は私は一度劇団をやめ、地方都市で、あるメーカーで勤務していたことがありました。その頃、自分のアイデンティティに疑問を持ったのですね。その会社では個人が大切にされなかったし、それまで劇団という自由な気風の職種だったのに、180度違う生活となり、企業戦士というか、日本ってどこもこうなのか?と思いました。そして、その仕事をやめてしまいました。その後、"やきいもや"なんかもやったんですよ(笑)。その頃に、劇団の人がやってきて、その都市で『センポ・ スギハァラ』を公演するので実行委員をやらないかと言われました。そして、実行委員として公演を成功させてもう一度銅鑼に戻ったのです。その後、ある方から紹介されたのが『池袋モンパルナス』の原作本だったのです。そのテーマは「個と群れ」ということ。群れが個を圧殺する! 時代こそ違うけど、企業にいた時に感じたこととも重なりました。そういう日本の企業社会のことも映した作品にしたいと思いました。

  私の祖父は佐山亮という東宝の役者でした。戦病死したと聞いているので会ったことはないのですが、原節子さんと共演している映像が残っています。画家でもありました。『池袋モンパルナス』の主人公である靉光(あいみつ)(画家)も同じく戦病死しています。戦争がなければ皆生きていられたのに…と思います。最初、この作品は、第一線で活躍されているある脚本家の方にお願いしたのですが、スケジュールの関係で難しく、どうしても作品化したかったので、「書かせてもらえないか」と劇団を説得し、自分が1ヵ月こもらせてもらって書きました。池袋演劇祭で大賞をいただいたりもしましたが、出会った芸術家の人たち、画家たちの生き方に触れることが出来たこと、それがたいへんよい経験となりました。

  その次の作品『Big brother』について…。私の父はテレビ業界の人で、派手ではなかったけれども報道関係の職についていました。定年後、65歳の時脳梗塞で倒れます。不幸にも半身不随になり、息子である私には、身体のこと以上に…、父の人格までが変わってしまったような気がしたことがつらかった。自分はそれまで放蕩息子。父の手の上で遊ばせてもらっていた感じで、父はすごい存在と思っていたのに状況が変わったわけです。父はもう前の父ではなくなってしまったのでは…という思いにまでなりました。そんな気持で父の介護を必死でやり、劇団の活動も頑張っていたら、なぜかまっすぐに歩けないという身体の変化が出てきました。検査ではどこも悪くないのに…。今から思えば不安神経症、心身症といったものだったのでしょうが、何とかしないと! と思えば思うほど悪くなって。そんなときある方との出会いがあり、その人が「今、あなたはたいへんなときだね。そういうときには(身体が)そうなるもんなんだ。それは異常ではなく普通のことなんだから、無理に治そうと思わなくていいんだよ」と言ってくれ、ものすごくラクな気持になりました。その言葉ひとつで症状が回復に向かったのです。価値観が変わって治ったのでしょうね。人の言葉とはいかに大切なものか。そんな体験を『Big brother』に書きました。『Big brother』は社会に背を向けた少年と、その子のお兄さんのような存在の人との話です。少年による犯罪が目立った頃のことです。全国の高校などで上演しました。「いい子でいないといけない」と頑張るけれど、でも現実と理想の間に大きなギャップがあって、それが大きくなっていくとパンクしてしまう。そして他人や自分を傷つけてしまうのではないか。このとき、私自身を救ってくれた「いいんだよ」という言葉が役立つと思いました。「人生うまくいく方が少ないんだ」「生きているというのはそれだけで凄いことなんだ」というメッセージを作品に込めました。

  さて『はい、奥田製作所。』です。先ほどお話した、もう前の父ではなくなってしまったのでは…? とまで思った父でしたが、ある日、病院へ送る車の中で劇団の悩みとかを話しかけてみたのです。特にちゃんとした答を期待していたわけではありませんでしたが、父は「人と人との関係を一番大切にしろ」というようなことを言ってくれたのです。それまで父に対して抱いていた感情を申し訳なく思い、反省した瞬間でした。今、父は身体が不自由になってしまったが、父がいたから今の自分がある、父だけに限らず、戦後の焼け跡から日本を作っていった、こういう世代の人のおかげで今の自分たちがいるし、平和で豊かな社会を享受できているのだという思いにつながりました。そういうことを描きたいと思ったのが『はい、奥田製作所。』のきっかけです。父の世代(80歳代)、自分(40歳代後半)とその息子世代(高校生)の三代を軸に書けないか? と思い、テーマが決まりました。 講演会写真

モチーフ

  モチーフである“町工場”にどのように出会ったかをお話します。あるとき北海道の本屋さんに立ち寄り、いつものように新書のコーナーで本を探していたときに『働くことは生きること』という本が目に入りました。これが、最初に紹介した小関(コセキ)さんの著書で、惹かれるものがあり買ってみました。早速、帰りの飛行機の中で読んでみると、なんと、早川昭二や劇団銅鑼のことが出てきて驚きました。でもそれもそのはず、偶然出会ったこの本の著者の小関さんは、銅鑼創立時の作品「雪の下の詩人たち」を共同執筆されていた人だったのです。そして本にあった「モノ作りは人の心づくり」という内容と、町工場の面白さに魅了されていきました。それからは、小関さんの本は全部読み、そして会いに行くと、快く迎えてくれました。こうしてモチーフは町工場にしようと決めたのです。

場面設定

  演劇は"制約の芸術"と思っていて、この作品は一場のものにしようと考えましたので、場所をどこにするか? を決めるには力を注ぎ、小関(コセキ)さんには色々なところに連れていっていただきました。

  2代目として会社を継いだ方にアドバイスを求められた小関さんについていったり(資料参照)。また、たぶんこの方は、連続ドラマ『梅ちゃん先生』の取材先と同じ方かもしれませんが、大田区で有名な旋盤工の方です。お一人で手作業の旋盤を操作されている小さな町工場です。3日間くらい、遠くからこの方の仕事を観察しました。当時の新幹線のショック・アブソーバーの部分は、この方の技術にかかっていたということでした。1/1000 mmの精度が要求される仕事だということでしたが、1/1000 mmを判断するのは、音が変わるというんです。音が変わる瞬間をキャッチできるということで、このエピソードは『はい、奥田製作所。』にも出てきますから楽しみにしてください。

  それから、砲丸をつくられている方のお話を伺う機会を得ました。2度のオリンピックではその砲丸が金・銀・銅を独占したそうです。この砲丸は海外の他の砲丸とナニが異なったか? それは、砲丸の元になる鉄を溶かす工程までたどり、鋳造元にまで通って、職人さんの仕事を観察して秘訣を会得した成果だということでした。海外の製品はそこまでの気配りはありませんでした。日本の町工場が単独の会社だけでなく「横のつながり」をすごく大事にしているということが立証されたエピソードで、『はい、奥田製作所。』にも、鋳造会社(石川鋳造)と金属加工会社(奥田製作所)の関係が重要なポイントとして描かれています。

  これら町工場の取材で面白かったのは、それぞれの工場の事務室というか休憩室のようなところでした。そこでこの作品の「場面」にしようと決めました。

登場人物

  今回は一家三世代が出てきます。そして大田区の町工場の規模は大体8人以下が7〜8割なので、作品にも、親子三世代以外にそのくらいの人数の社員、それから関わる人々が出てきます。今回は結構、劇団員を想定した"あてがき"をしました。また、30年前という「過去」のシーンが3回ありますので、その役も出てきます。自分の小さい頃の気持、父への感謝の気持を表しました。

プロット

  一番苦しむところです。「起承転結」、全体を8段階とすると「起」は1「承」は2〜6くらい。「転」は7でテーマを伝えるところ、いわゆるクライマックスです。「結」は8で余韻だともいわれます。またクライマックスで「テーマ」を伝える時は、無言がよいということや「起」はアンチテーゼから始めるということもいわれています。今回は自分が実生活で悩んでいることを「起」に置きました。鉄彦という息子は大企業を辞めて帰ってきて、今度は失敗しない! 会社をなんとかしないと!! という気持をもっていますが、自我、エゴ、自己実現の強さなどが目立つ人物。作品づくりをする際には、今の自分を超えることが大事と思っていますので、この鉄彦がこの作品で果たしてどのように変化していくのか…が賭けでした。

  銅鑼では、作品があらかたできれば、全員が読むのですが、最初、みんなから、もう一歩だ、テーマが見えてこないと言われました。最後、会社がうまくいくにしても何かが足りないと。そして皆から案を突き返され、何度も悩んだ末に「自分はなぜ劇団でこの仕事をしているのか!? 」が問われたのだと思いました。そこに浮かんだのはこれまで劇を通して出会った人たちの顔でした。たとえば『Big brother』のときに出会った、作品に共感して下さったお母さんたち。その後も手紙をくださったり、遠くからでも劇を観に来てくださることがありました。そういうことに気づいて、伝えるべきテーマが見えてきました。自己実現や自我、エゴを超えた、自己超越というか、何か大きなものの中で生きているんだという感覚。そこで自分にできることに、出会った町工場の人達のように、皆、命をかけているということ。誰かのためにささげる、そのあとに達成の喜びがあるというようなこと。そういう風に鉄彦が変化していくことが表現出来たらと思いました。 講演会写真"

最後に

  一番大事なことは観客の皆様がいてこそ芝居ができるということです。

  『Big brother』の際、ゲネプロ(客席に観客は居ないが、本番と全く同じように上演する舞台稽古)時に自分の作品を客席から観ていて、実は全くダメだと落ち込みました。でも実際にお客さんが観てくださる中では全く違っていました。やってよかったと思ったものです。

  瑞穂さんは11月にこちらに来るときには86歳になっています。それこそ戦争も経験し、民藝を経て銅鑼…。長い人生経験を持っていらっしゃいます。九州の演劇鑑賞会で瑞穂さんと同世代の川述さんのお話を伺ったのですが、平和憲法の話にとても力を込めていらっしゃいました。鑑賞運動は日本の社会の大きな流れをつくっているように感じました。

  11月は精一杯、いい作品にして届けられるよう頑張りますのでよろしくお願いします。

<質問コーナー>

Q:脚本の作り方で「テーマ→モチーフ」という順序と話されましたが、モチーフの方が先に出てくるものと思っていました。
A:できごと、今回は親のこととか自分の悩みとかがまずありました。その答えが知りたいという流れです。震災のあと『からまる法則』という作品を作りましたが、それも、なぜこんなに色々なことが起こるのか! というところから始まりました。

Q:自分は製薬企業で働いています。こういう町工場のような小さな職場でのお話はある意味わかりやすいですが、仕事が細分化されている大きな企業で働く者たちにも繋げられるメッセージのようなものがあるとしたら?
A:この作品を大企業の人が観られたとき、羨ましいと言われることがあります。そういうことかもしれないですね。ただ、どんな規模の職場でも自分の気持ちひとつだし、それから、みんなが弱いところなどをさらけ出すこと、できないことはできないと言って助けあうようなことが大事ではないかと思います。

Q:座付き脚本家の場合は、書いたものが役者に伝わりやすいものでしょうか?
A:自分の場合は、役者とも仲間感覚なので気心がしれているため、だいたいわかってくれていると思います。

Q:有名な作品をやるよりも心がこもったものになりやすいですか?
A:銅鑼は、“華”はないけども、銅鑼にしか出せない味があるということをお褒めいただくことが多いです。家族のような味や色があると言っていただいています。ただし、エンターテイメントなので、地味だといけないし、笑いも大事にしています。

Q:作品タイトルの由来や意味について教えてほしいです。
A:最初「奥田製作所」としたところ、これだとポスターなどに書いたらまさに会社名かと思って劇のタイトルとわかってもらえないと言われました。そこで、考え、劇の最初と最後の場面が、かかってきた電話を取るシーンで「はい、奥田製作所」と言うのでそれにしようと思いました。企業は電話の応対って大事でしょう。そして劇の最初と最後とでは(間にも何度もでてきますが)トーンが違うと思うのでそれも楽しんでください。最後の句点のようなものは、ナットをデザイン化したものです。

Q:ポスターデザインについて教えて欲しいです。怒っている人たちに見えますが…?
A:これは「がんばるぞ! 」という意欲を表した漫画です。このイラストは、劇団の、ほかの場面でも使っています。

Q:もし『池袋モンパルナス』を自分で書いていなかったら『はい、奥田製作所。』は無かったでしょうか?
A:ずっと制作にいたかもしれませんね。でも、いつかは脚本を書きたいと思っていたので、いずれこうなったかもしれません。小説なども好きで書き溜めていたものがありました。

Q:新聞記事で、東京公演の際に町工場の方々を無料招待したとあったように思います。
A:正確には、失業中の方を招待しました。30人くらいだったでしょうか。

Q:お父さんの影響が作品に現れたということですが、作品になったあと、どうでしたか?
A:倒れてから色々あったのですが、あるときファミリーレストランに食事に行った際に、何か「こういう日常が、いいなあ」、「日常に戻れたことがいいなあ」と感じました。日常の喜び、日々の何気ないことが一番伝えたかったことなのかもしれません。


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