森三平太さんに演劇直前インタビュー

楽屋訪問7

青年劇場「喜劇キュリー夫人」鳴門例会(2004年3月4日)にクローザ学区長役で出演される森三平太さんを公演前に訪ね鳴門市民劇場がインタビューしました。

森三平太さん
森(敬称略)
12年前に新宿のシアターアップルで初演し、これを皮切りに全国を回ってます。皆さんの感想を聞くと「題名をきいた時と観た後ではイメージが違う」というのが多く、喜んでもらってます。最近この内容なら、物理や科学に弱いといわれる高校でやったらいいのでないか、と言う声もでてる位です。
単なる『偉人伝』ではない。やんちゃな娘がポーランドから出てきて、差別に負けずに科学に興味を持っていく面白さ、があると思います。
 
鳴門
ピッチブレンドからウランを取り出してラジウムを発見するところなど、科学の考え方、推論の仕方が面白いと思いました。この部分が高校生に観せたいと思うところですね。
 
そうです。飯沢先生は、当時の実験道具を忠実に再現したいとおっしゃって、揃えるのに大変苦労しました。専門の先生を何度も呼んで、何回も何回も実験の指導を受けました。
劇団に渡辺君という仕掛け作りの好きな人がいいて、たとえば『愛が聞こえます』の時に使った傘のしかけは彼が考えたんです。別の芝居ではシャンデリアがひとつひとつ壊れていく仕掛けなど、見事なものでした。こんどのキュリー夫妻のガスの実験も彼が担当してるんです。
 
鳴門
青年劇場の旗揚げメンバーのお一人ですが、俳優になったきっかけを教えてください。
 
私は色々な職業を経験してるんですよ。国鉄に勤めていた時は、無線通信オペレータの資格を取り、優秀な技術者として働いていたんです。戦争中は浅草へ行って、森川信サン、エノケンサンのファンでよく見に行きました。戦後は労働組合運動も盛んで、文化運動も盛んになり、職場で演劇サークルを作ったんです。演劇学校には組合の中から選ばれ入学したんです。錚々足るメンバーの先生でした。秋田雨雀校長をはじめ土方与志、千田是也、滝沢修、山本安英など各先生が講師になり、演劇のイロハの「イ」から勉強したんです。音楽のいずみたくも私達と一緒でした。
あの頃、食えなくて、皆サンドイッチマンをしてましたが、私は恥ずかしくて出来ず、トランク作りのバ イトやコロッケを作って売ったりしました。いずみたくは独学で音楽をやったんですよ。
そんな中、西沢、私(森)といずみたくで、ポポログループというトリオを結成しました。現在の「ニュースペーパー」、「コント55号」のようなもので毎朝新聞でネタを作って夜舞台、これは引っ張り凧でしたね。
そんなことで漫才の大御所、大空ヒットサンに可愛がってもらい、寄席にも出さしてもらったんですよ。
林家三平、米丸サンがまだ前座の頃でした。その後10年間『十二夜』、『ロミオとジュリエット』、『真夏の夜の夢』、『ベニスの商人』等シェイクスピアの人間創造を通して社会を見ることや人間として生きることのスバラシサを、土方先生に教わりました。
青年劇場を創立してからは飯沢さん、千田さんから色々と学びましたが、創立して第一回公演は、瓜生正美演出の『真夏の夜の夢』その後『十二夜』でした。
先生は、勉強のために寄席にもよく出してくれた。バレー・手品などがあり、前進座の梅之助は少年で踊っていた。新宿で米軍兵相手のセントラル劇場にもでていた。劇よりもこういうところで栄養をもらった。
後半は、新劇の飯沢さん、千田さんから基礎を教わった。
舞台芸術学院をでて武芸座をつくった、60年安保で世の中が騒然となり、武芸座もレパートリーをめぐってわれた。その時、新劇がいいと思った10名ぐらいが土方先生の教えを守ってやろうといった。1年位して青年劇場を8人で始めた。今は120名になっている。
第1回公演は、土方先生の提案で、瓜生正美演出の「真夏の夜の夢」、その後「十二夜」。
『青年劇場』とつけたのは、最初8名だから「タコ座」とつけようなどの案が出たが、結局「青年の気持でやろう」と土方与志の奥さんにつけてもらった。始めシェークスピア作品は8名ではできないので、落語の人を助っ人に頼んでやった。2・3年は学校公演をやった。演劇のプロフェッショナルになるといってやった。今年で40年を迎える。
 
鳴門
今回の作品について、訴えたいことあれば教えてください。
 
観てくれた人がいろんな形でそのまま受け取ってくれれば良いと思う。 「芝居で化学がわかる」というのはステキなこと、ポーランド生まれでやんちゃ娘が化学に打ち込み発見をする。「夫婦の愛」でどう発見したかなど、を観て欲しい。理屈でない芝居と思う。
当時はよく停電になる。停電になった時ラジウムが光る。二人がこの光りを平和のためにという感動的なシーンが好きです。
 
鳴門
キュリー夫人を喜劇にしたのは、分かりやすくしたのだと思うのですが、その効果は?
 
青年劇場はフランスの芸能界とかかわりがあり、この作品を知った。ほぼ同時期に飯沢先生が別途この作品を見つけた。原題は「シュッツ氏の勲章」といって、フランスでは映画になっておりロングランでした。
飯沢先生が、徹子さんのマリーでやろうと言い出した。そこで「喜劇」とつけた。喜劇は日常が非日常になる。飯沢先生は風刺劇が好き。つまり、昔出してもらった寄席のエキスをもらっている。青年劇場にはこれがあっている。
 
鳴門
最後に、演劇鑑賞団体の活動へのメッセージをください。
 
昔から思っていた。このような組織が持続しているのは日本だけだ。
サークルで演劇を一緒に観て、喜びをみんなで感じるのはとてもいいこと。劇団にとっても力になる。観客と共に育ちたい。
演劇鑑賞団体はすてきな団体です。組織は景気や色々な影響を受けて浮き沈みがあるのは当たり前。それにめげず息永く続けて欲しい。芝居も同じ。そんな中から力を頂きたい。
 
森三平太さんとインタビューア

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