日色ともゑさんに演劇直前インタビュー

楽屋訪問21

劇団民藝公演「明石原人〜ある夫婦の物語〜」鳴門例会(2006年9月9日)に“直良音”役で出演される日色ともゑさんを公演前に訪ね鳴門市民劇場がインタビューしました。

日色ともゑさん
鳴門市民劇場(以下鳴門と略)
お忙しいところどうもありがとうございます。鳴門へは2003年3月の「アンネの日記」以来ですね。その前は、1999年1月の「枯れすすき」で来ていただきました。
日色(敬称略)
そうですね、ただ鳴門へ初めてお邪魔したのは、1987年の「宇野重吉一座」のときなんです。鳴門の、この会館の楽屋は忘れられない場所です。「宇野重吉一座」のとき、地元の方から野菜をたくさんいただきましてね。それで、「今日ここで食べようじゃないか」ということになって、楽屋の前でいっぱいに野菜を広げて急遽「サラダパーティ」をしたんです。足りないものを買いに行ったりして、楽しい思い出ですよ。あのとき、ここの会館の搬入口のところで立っていらっしゃった宇野先生の姿が今も目にやきついています。
 
鳴門
今回の「明石原人」は、主人公直良信夫と、それを支えた音夫人の内助の功を描いた「夫婦の物語」なんですよね。
日色
副題にもあるとおり、そうですね。作家の小幡欣治先生が、2年前の稽古初日に来てくださっておっしゃった言葉が「これは真実を追究する夫婦の物語です」でした。しかし、登場人物のそれぞれが非常に魅力的に書かれています。いわば全員が主人公です。
鳴門
演じられる音夫人に共感されるところはどんなところですか?
日色
すばらしい生き方をされた人ですよね。直良夫妻のお嬢さんである作家の直良三樹子さんの著書「見果てぬ夢」に音さんのことが詳しく書かれています。今回の作品の内容と少し違うところは…、本当は、信夫さんは音さんの直接の教え子ではないんです。音さんが教師として赴任した臼杵で下宿していた家の近くの石段の下に貧しい長屋があり、信夫さんはそこに大家族で住んでいた…。家が狭く勉強しづらい環境だったんですね、信夫さんは外の石段を机代わりに勉強していたこともあったようです。そんな信夫少年を音先生がよく励ましていたようですね。信夫はその後、小学校の途中で東京へ奉公に出るんですが、再び臼杵に戻ったとき、音先生から声をかけられ、「頑張りなさい」と言ってもらったことが、また深く心に残ったようです。後、東京で官職に就きますが、身体を悪くして帰郷することになります。劇中では父親の病のために帰郷となっていますが、本当は自分の病気のための帰郷でした。その帰路、音先生がいると聞いていた姫路に立ち寄るんですね。そこで、今度は、窮地にあった音先生を信夫が助ける、というのが事実のようです。音さんは父親の作った借金で苦しんでおり、借金を肩代わりすると言った男が悪い男で、つらい目にあっていたところを信夫さんが助けました。このあたりは劇中では簡潔になっていますけど、音さんは信夫に「助けてもらった」という思いが強く、それでその後は働きづめで信夫を支えた、ということもあるようです。その頃身体を悪くしていた信夫さんのために空気のいいところへ移ろうということで、明石へ引っ越したようですね。
鳴門
「明石原人」のことは小学校で習ったような気もしますし、市民劇場で「事前学習ツアー」もしたのですが、会員さんたちにとっては、「考古学」というとなにか難しいようなイメージがあるようです。お芝居の中でそのようなところはどうでしょうか。
日色
ぜんぜん難しくないですよ(笑)。
鳴門
サブタイトルでも優しいイメージになっていますね。
日色
そうです。実は「明石原人」という本タイトルをそのまま通すのはどうかという意見もあったんですよ。でも今考えるとそのままにしてよかったと思いますよ。「明石原人」って、知っている世代とまったく知らない世代がいるようで、面白いですね。
鳴門
最近考古学で捏造事件などもあったので、いろいろな意味で考古学への関心は深まっているようにも思います。
日色
考古学って、実はみんな大好きなんじゃないかしら。ロマンがあるでしょう。実は私もスキなんですよ。奈良の高松塚古墳の網干(善教)先生が、「一日一生、好きなことをやって生きる、幸せだ」とおっしゃっているように。'70年代、私はナウマン象の化石研究などで著明な井尻(正二)先生にお会いしてお話させていただくことがあったんですよね。そのとき、ホテルで初めてお会いした先生はまるで山男のようで、キャラバンシューズを履いてやってこられたんです。私にとって考古学者はそういうイメージ、信夫もそんな風だったのだろうと….。結局井尻先生がお誘いくださった(発掘していた)野尻湖へは行けなかったのですが、ご著書の中には私との話のことも「明石原人」のことも書いてありました。考古学者には、人間的な気品があり、ひとつのことを追求している魅力があります。それはたとえば、宇野(重吉)先生の生き方にも置き換えられるようなものです。今回の作品を観た人、鑑賞会の方も劇団に関わる人もみんなが、「自分」に置き換えて観てくださっているようです。珍しく男性の方が多く共感してくださっている作品なんですよ。直良信夫という人、決して華やかな人ではないこういう人物を取り上げて芝居にしたことは民藝らしくて良かったと思います。小幡先生はこれまでは結構有名な人を描いた作品が多かったんです。たとえば、岡本かの子を描いた「かの子かんのん」や正岡子規の「根岸庵律女」などです。でも今回の「明石原人」は違っていました。そしてこの作品は、音夫人を最初から私にイメージして書いてくださり、とても嬉しいことでした。音さんは(私とは違って)実際は大柄な方だったようですが、直良夫妻のお嬢さんが、舞台を見て「本当にお母さんのよう、ぴったりの役」とおっしゃってくださって、それも嬉しかったです。
鳴門
ほかに、考古学を題材にした芝居というのはあまりありませんね。
日色
そうですね。「旧石器時代」を認めなかった戦前の圧力的な考え方の時代があった。小幡先生が書きたかったのはそういうところです。劇中で、(伊藤)孝雄さんと私が語るところがありますが、その場面が小幡先生は最も書きたかった。この作品の、いわば臍の部分です。
 
鳴門
日色さんは宇野重吉さんの秘蔵っ子と言われていますよね。思い出も多いことと思います。
日色
そう言っていただくのは嬉しいです。
鳴門
そもそも女優さんになられたきっかけはどんなことだったのでしょうか。
日色
'60年の日米安保、それしかないって感じです。その年、ちょうど銀座を歩いていたときに、新劇のデモ隊に出くわしたんです。元から映画はすごく好きでたくさん見ていました。その頃、学生なんかのデモといえば大声を出したり、そういうものだったのですが、その新劇のデモ隊は横断幕を掲げて、静か〜に歩いていくというもので、これが本当のデモ隊だと…。横断幕には、メッセージのほかに滝沢修さんや芦田伸介さん、宇野重吉さんなど知っている顔ばかりが並んでいて、「この人たちは映画に出るだけではなく、世の中のことをこういう風にしっかり考えているんだ」と知りました。その後もそのことが目に焼きついてはなれず、父に話したんです。父は記者で、当時軽演劇などの仕事もしていました。私が新劇のことを熱心に話すのを聞き、少し困った顔をしましたが、初めて新劇の歴史などをきちんと話してくれました。私は一途に、「あの人たちと同じ空気を吸いたい」という一心で、翌'61年に民藝に飛び込み、試験を受けたんです。そのときの校長が宇野先生。「ナマでみちゃった!」って感じでしたね(笑)。でも、熱意があっただけで、演劇のことなどは全く知らない状態。試験で「民藝の作品を言ってみて」と問われたとき、答えられずに試験官に呆れられたことも思い出します。あとから思えばその試験官は奈良岡(朋子)さんでした(笑)。そういう状態だったんですが、運よく三次試験まで進むことができました。三次試験の席にいたのは、滝沢(修)さん、宇野先生とあともう1人。当時は誰か知らなかったのですが、あとから、著名な演出家菅原卓さんとわかりました。そういう錚々たる顔ぶれでした。宇野先生は映像で見るよりずっとハンサムだと思ったものです!
 
鳴門
そしてそれ以来、本当にたくさんの作品に出られてたくさんの役をこなしていらっしゃいますが、お好きな作品や役にはどんなものがありますか?
日色
それは…、今までのもの全部がそれぞれにすばらしく、これといって挙げるのは難しいですね。たとえば、初舞台は「火山灰地」という作品で、そこでは「その他大勢」の役ではあったんですが、すばらしい作品だと思っています。それからやはり、「6代目のアンネ」に選ばれて出演した「アンネの日記」でしょうか。この作品は、でも、全国公演中に、NHKの朝の連続ドラマ「旅路」の主役が決まり、旅先で、すぐに東京へ戻って準備するようにと連絡を受けて、「アンネの日記」の方を交代せざるを得ず少し悔しかった思い出も混じっています。テレビの方はそれまでも少し出演していました。たとえば「煙突のあるオアシス」というドラマ(1963年、田辺靖雄、中尾ミエら)で、宇野先生が喫茶店のマスター役をされたのですが、私はウエイトレス役でした。そのドラマの作者で、60年代の芝居をたくさん書いておられた、大橋(喜一)先生が私の役を喜んでくださり…。その頃からテレビなどでも認められるようになってきていたんですね。それで「旅路」の主役に抜擢を…。今年3月は「日本の面影」をやっていたんですが、わずか4日間の間隔でこの「明石原人」へ…。「年中芝居」の今の状況は幸せに思っています。どの役も大切ですね。たとえ脇役でも大事です。意外と言われるんですが、私は特別若い役や綺麗な役だけをやりたいという気持ちはまったくなくて、たとえば「おんにょろ盛衰記」では初めて老婆の役をやりましたが、まったく違和感がありませんでした。この作品を新藤兼人が見て認めてくださって、「枯れすすき」での役に至ったということもあります。元々「普通の人間」だし、こんな風にちっちゃいし、綺麗な役がいいとか、そういう欲はないんです。「かの子かんのん」では、ハチャメチャな主人公かの子を樫山文枝さんが演じますが、そこに出てくるすごく地味な妹が私の役。私にぴったりでした。その役が今回の「明石原人」での音役にも結びつきました。このところ、特にいい作品に恵まれていると感じますね。「アンネの日記」でも、「アンネ」と「母」の2役をやったのは私が初めてだと思います。
鳴門
「アンネの日記」でのお母さん役も、日色さんにぴったりでした。
日色
そう、とても幸せです。
 
鳴門
最後に、私たちのような演劇鑑賞会にひとことメッセージをお願いできますでしょうか。
日色
演劇鑑賞会は他の国にはなく日本だけにあるすばらしいものです。労演から始まって、名前は変わってきましたけどね。「宇野重吉一座」で巡っていたとき、宇野先生から「鑑賞会のことを勉強しなさい」とよく言われました。鑑賞会の方も勉強して欲しいとおっしゃっていて、お互いに…ということですが。鑑賞会のあるところに行けば、チケットを売るなどの苦労は何もなくてもやらせてもらえるけども、その状況に胡坐をかいてはいけないということをたたきこまれました。今、鑑賞会はたいへんだと思います。会員数の不足などで閉鎖するところもあり、本当に苦労は多いと。でも一緒に考えていかなければならない問題ですね。元気がある鑑賞会に学び、なくなってしまえばどんなに寂しいかと想像してがんばらないと。神戸では、あの震災のあと、以前のように演劇鑑賞ができるようになるまでたいへんな時間がかかりました。再び観られるようになったとき、会員の皆さんの喜びはひとしおでした。民藝の「研師源六」という作品をやったのですが、公演後、おでん屋さんで鑑賞会の人たちと交流したときに、涙を流して喜んでいらっしゃいました。そのときのことを…いつも話すようにしています。そんな思いにこたえるためにも、私たち劇団はいい舞台を創っていかなければならないと考えています。「観たい、観てほしい」お互いに新鮮な出逢いがたくさんできればと思います。徳島県は、20歳のとき映画の撮影で来ているところで、とても思い出深い地です。鑑賞会の活動は地味な活動ですけど、でも、夢を追い続けることは大事です。会員の皆さんにも同じ夢をもっていただきたいですね。
日色さんとインタビューア

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