福原圭一さんに演劇直前インタビュー

楽屋訪問26

木山事務所公演ミュージカル「壁の中の妖精」鳴門例会(2007年6月28日)で“企画・演出補”をされる福原圭一さんを公演前に訪ね鳴門市民劇場がインタビューしました。

福原圭一さん
鳴門市民劇場(以下鳴門と略)
これ、すごいお芝居で、数々の色んな賞を受賞されていますね。すごいですよね。
我々こういう芝居は初めてなんです。
福原(敬称略)
ええ、わたしも初めてなんですよ(笑)。
鳴門
これが初演された時は、丁度、東欧、ソ連が民主化革命で国が変っているときですよね。何か関係しているんですか。この芝居を作ろうとしたきっかけは何ですか。
福原
そういうことが直接関係しているのではなくて、今は歴史を大事にしない日本人が残念ながら多くなっている。いつもそこが気になっているんですね。ちょうど70年前(1936年)にスペイン戦争が始まりました。日本ではどんどん戦争へ傾いていった時代ですね。私はその3年後の生まれで、そこでスペイン戦争が終わったというか負けたのがその年ですね。そこから第2次世界大戦が始まっている。日本では1945年までの歴史、出来事には蓋をして、最近は慰安婦問題とか沖縄のことも教科書から削られていっている。それを扱わなければならないという悲劇を感じるんですよ。でもそこに触れざるを得ない。現代の歴史は、戦争の歴史ですからね。ナチスドイツ、そしてソ連とアメリカの巨大な勢力。戦争が題材としてインパクトがある、というのも事実だと思います。実際にこのスペイン内戦に参加した日本人の男がいましてね。それを僕が知ったのがきっかけでずっとスペイン内戦にのめりこんだ。ジャック白井という人で、彼はアメリカからスペインに行ったので、アメリカで取材したりスペインで取材したりしているうちに、どんどんのめり込んでいったんです。このジャック白井の話も芝居にしたんですよ。「れすとらん自由亭」という芝居です。これを福田善之さんに書いていただいたのが直接かかわりを持ったというか、そばにいられた最初なんですよ。若い頃からの憧れの人と。
鳴門
私たちの学生時代には、スペイン内戦について知っていた人も多かったと思うんですが。
福原
スペイン内戦については、日本ではほとんど通りすぎたこととして触れないできていますね。その存在さえ知らないまま。僕の高校生時代の教科書には載っていませんね。
鳴門
私は高校の時に習ったような気がするんですが。
福原
スペインの内戦については、載っていたとしても記述は4行ぐらいで納まっているはずです(笑)。
鳴門
私の下町―母の写真―で以前鳴門に来ていただいていますが。あの芝居も福田善之さんの作演出で、戦争の話でしたね。
福原
3月10日の東京大空襲のところで終わる芝居ですね。あれは春風ひとみさんがお母 さん役で僕がその亭主の役。あの芝居は、「壁の中の妖精」の稽古場で春風さんをずっと見ているうちに、福田さんが春風さんに自分のお母さんを演じてもらいたい、という思いで書かれました。
鳴門
今アメリカがイラクで泥沼の戦争をしていますが、この芝居はそういう意味では現代的意味、メッセージ性がありますね。
福原
それをメッセージにするために作ったのでもなんでもないのですが、あの時代のナチスドイツの恐ろしさ、恐怖に口をつむってしまった不干渉条約みたいなものがあり、それを共和国側に援助したソ連はスターリンの勢力を伸ばすためのものだった。怖いものは全部口ふさぎしていって、あたらずさわらずでずーっといってしまった。今のブッシュに対しての世界の扱いと重なりますね。似ているような気がしますね。重なって見えますよね。
鳴門
最近、メッセージ性のない芝居が多く、面白ければ良いというようなのが多くなってきたので、これインパクトがありますよね。
福原
インパクトがある芝居だからといっても、芝居は面白くなければダメだよね。
鳴門
この芝居はすごい趣向を凝らしている。1人で20役以上をやる。
福原
数える人によって23とか27とか28とか数が違うのですよ(笑)。
鳴門
春風さんもすごく力量が要りますよね。
福原
始めた頃は若かったので、体力でどんどんできた。今は、例えば5歩いくところを3歩ですます、2歩ですますとなっていくには、演技力が必要になるんですね。でもそれは経験ですね。演技力というものでなくて。でも毎年新しい発見がありますね。今年は一番良いですね。稽古見ててそう思う。毎年毎年良くなっている。
鳴門
半端じゃないですね。膨大な量の台詞はあるし、歌あり、踊りあり。
福原
春風は歌は得意だし、踊りも得意ではあるが、これは芝居の中でやっていることなので演技ですね。演技力でうまくなっているとは言いたくないし、彼女も思っていない。演技力で測れない大きさのものが必要ですよね。1人で2時間、そこにいるだけで分かる、みたいなものが。よく冗談で言うんですが、この先何十年も経って、最終的には動かないで、否、動けないから、落語で言うと、古今亭志ん生が座っているだけで、「エーー」といっただけで客席から拍手が来る。そんな風にならないかな。こういう話ができるのも、15年間続けさせてくれた演劇鑑賞会のお陰と思っています。待ってもらった甲斐があったと思います。ぼくは、以前観られた方は、今回もう一度観て欲しいと思います。九州演鑑連は2回目です。「10年以内に2回やるのは初めてですよ」と九州の人たちが言っています。僕は、2回目の方がずっと良いんだからといっているんですが。そして3回目待っているよと。
鳴門
福田さんのこういう趣向、演出はどこから出てくるんですか。
福原
独特の天才的なひらめきですね。30年生き延びたお父さんを出さない。そして、それを守ったお母さんと娘さん2人だけを出して、その話の中でお父さんが出てきて、お父さん像を客席の人に想像させる。そこでお父さんの輪郭が浮かび上がる。元になる本を福田さんに預けた時、これを1人芝居にしようと言われました。ぼくはてっきり、お父さんの1人芝居と思ったが、お母さんと娘さんしか出ない。しかもミュージカルにしよう、というんですよ。おいおい、そんな女優なんかいないと思いましたよ。やっぱり探すのに時間がかかりましたね。木山さんというすごいプロデューサーがいたんで、ほんと偶然ですよ。でもこれに耐えられる女優さんは、そうはいないですから。普通10年続けているとどんどんソッポに行っちゃいますよ。彼女に関してはそんな事はないです。(舞台をすると)飯は食えなくなるし、最初のうちは一公演で6Kgやせた。彼女お酒好きだったんですが、いまは飲まなくなっちゃった、この芝居にかかると生ものも食べない。
鳴門
四国で鳴門が最初なので減らしてはいけないと力が入りましたよ。いい芝居なので新しいひとに勧めやすかった。スペインの内戦の話なのでどうかと思ったんですが。
福原
そうですね。どこの会場でもスペイン内戦といっても分からない人がほとんどですね。でも芝居の内容、描かれているスピリッツはスペインに限らなくてどこにでもありえる話なんです。
鳴門
ところで、福原さんはいろんな経験をされていますが、以前、声優かなにかされてたのですか。
福原
エッ?出たことはありますが、毎週レギュラーでやっていたのは「メルモちゃん」、「みつばちハッチ」、「空手ばか一代」とかですね。昔昔のお話です(笑)。
鳴門
最近は演出で活躍されていますね。
福原
演出は福田善之さんの助手でやっていて、自分で一本演出したという事はいまだないんです。つい最近、劇団東演の再演で「恋でいっぱいの森」を福田さんとの共同演出として発表させていただきました。
鳴門
次例会「二人の老女の伝説」も福田さんと福原さんですね。次も来られるんですか。
福原
呼んでもらえれば喜んでいつでもきます。旅が大好きですから。「二人の老女の伝説」は、福田さんが来られるかもしれません。
鳴門
ところで、この道に進まれたきっかけは何かあるのですか?たとえばすばらしい芝居を観たとか。
福原
普通はそうですよね。でもぼくの場合は変っているんですよね。1960年の政治の季節だったのですね。デモに参加していて「新劇人会議」という勇ましいのがあって。有名な6.15の樺美智子が死んだ時に目撃したのが新劇人会議の勇ましい姿だった。
鳴門
同じことを日色ともゑさんが言っていましたよ。それを見て演劇の道に進んだと。高校生の時でと。
福原
それ本当?こんどお会いしたら話してみよう(笑)。私は大学に行かなかったので、九州の高校を出て東京で勤め始めて2年目だった。キヨスクに勤めていて、東京駅で勤務していた。仕事が面白くなくて、もともと芝居が好きな事もあったんでしょうね。組合はあったが、デモに参加するような勇ましい組合でなかった。自分たちでわいわいがやがややっていた。デモを目撃してカーっとなってしまった。演劇学校に入ろうと思いました。キオスクでは駅の販売員の仕事があって、夜専門の仕事があったんですよ。事務職からそっちへ職替えしてくれと上司に頼んだが駄目だった。今までそんな例はないと。しかも会社に反対する新劇などという、そんなとこへ入っていく三下を援助できるかと、辞めさせられた。でも寮には半年居座りましたね。寮出ると住むとこないので。
鳴門
演技の基礎はどこで学ばれたんでしょうか。
福原
舞台芸術学院に丸々3年間まじめに通った。先生は八田元夫さんでした。劇団東演を創った人です。
鳴門
福原さんは木山事務所所属ですか。
福原
いいえ。私は東京演劇アンサンブルに長くいましたが、初めての旅は、徳島にも来た木下順二さんの「蛙昇天」ですね。私が役者をはじめて2年目です。アンサンブルに11年いて、その後30年はずっとフリーですね。間で4年くらい舞台の役者をやらずにぶらぶらして、テレビの仕事をしたりしていたこともあります。そのうち自分でグループを作りましたが、労金でお金を借りて、返せなくなったりしましたよ。
鳴門
役者としての何か思い出深い作品はありますか。
福原
そうですね。春風さんと夫婦役をやった「私の下町―母の写真―」です。福田善之さんの父親ですからね。
鳴門
福田さんとのお付き合いはどれくらいになるんですか。
福原
18年前、「れすとらん自由亭」を書いていただいた時からです。このことについては、福田さんを紹介して下さったお二人、熊井宏之さんと太刀川敬一さんに感謝しなければなりません。熊井さんはその芝居の演出をして下さったのですが、2002年に亡くなられました。太刀川さんはこの公演中に訃報を聞かされました。
鳴門
8月例会「二人の老女の伝説」も福田さんの演出ですよね。
福原
そうなんですよ。福田さんとは離れられない気がする。頼りない助手ですがね。
鳴門
木山さんが、先ごろ初めての演出をしましたね。
福原
K.KIYAMAと称して、何でわざわざ?すばらしい製作者(プロデューサー)がいなくなって、だめな演出家が一人増えるんだよ、といっていたら、2作目を演出したんですね。観たらそれがなかなか大したもので、あのひとは凄い頭脳の持ち主ですよ。自分でも言ってました。演出の方が面白いって。いつの間にか福田演出に似てくるんだよなあ、とも。ところで、6月に東演で再演した「恋でいっぱいの森」は、シェイクスピアの「夏の夜の夢」「空騒ぎ」「お気に召すまま」の3本を、福田さんが構成・演出した作品です。楽しい舞台です。
鳴門
シェイクスピアに惹かれる人は多いですよね。
福原
そうなんですよ。すべて何か、どっかで下敷きになっているんですね。「ハムレット」だったり、「ロミオとジリエット」だったり、「マクベス」だったり、全世界のいろんなドラマの元を辿っていくとシェイクスピアなんですね。リアルじゃないお芝居のセリフとしてしか読めないような、長いセリフの中にいろんな比喩が入って、何だろうこれはと思っていると、本当はリアルな人間の生活そのもの、欲望そのものを描いている。
鳴門
最後に、我々演劇鑑賞会へのメッセージをお願いできますか。
福原
一つは、今回やっていただけるのは、再演、再演が続いてきたからなんですね。いいものの再演を続けていって欲しいな。どこへ行ってもそういうんですが、これだけ続けられたからこんな素敵な舞台になった。初演から評価されてはいたんですが、初演の舞台と今の舞台では、いろいろな点で大きな成長があります。これからもまだやり続けたいです。やり続ける場所が欲しいんです、継続していくことで名作になっていくんです。ちなみに、今日の鳴門が255回目、四国の最終日の高松で270回になります。
福原圭一さんとインタビューア

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nrt-geki@mc.pikara.ne.jp
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