中村たつさんに演劇直前インタビュー

楽屋訪問27

俳優座劇場プロデュース公演「家族の写真」鳴門例会(2007年11月25日)で“ソフィア”役をされる中村たつさんを公演前に訪ね鳴門市民劇場がインタビューしました。

中村たつさん
鳴門市民劇場(以下鳴門と略)
今日はお忙しいところどうもありがとうございます。以前に来ていただいたのは1994年の『とりあえずの死』ですね。奇しくも、我々が徳島市民劇場の鳴門地域例会として発足した年の11月例会なんですね。
中村(敬称略)
13年前ですね。何回かお伺いしている筈なのに、街が変わってなかなか分からなかったですね。
鳴門
橋が本州と繋がって変わりましたからね。その時は鳴門と淡路島は繋がっていましたが、明石海峡大橋が開通したのはその後ですからね。
中村
情報量も変わりますし、京阪神のお芝居も見に行きやすくなりますしね。
鳴門
今回の作品は東京で大好評だったと聞いていますが、四国を回られてどうでしょうか。
中村
一番印象に残っているのは、松山で演劇が終わってお見送りしている時のことです。帰られるお客様の表情がとても和やかで柔らかい雰囲気に包まれているように思えたことですね。東京で同じように感じました。日本の社会は何となくとげとげしくなってますでしょ。そんな中『家族の写真』のような作品は、とてもタイムリーな作品ではないかと思います。
鳴門
家族の問題というと深刻になりがちですが台本を読ませていただくと、結構笑いがあり深刻な問題ではあるが、深刻そうには見えない内容ですよね。
中村
そうですね。母親のわがままや娘のちょっとした嘘といった、ひょんなことから物語が展開していくんです。それも全く血の繋がりの無い人同士が絡み合って、新しい絆が生まれ、家族を構成していくこのお芝居はなんとなくほのぼのしていますから観てくださったかたも楽しんでくださっているんじゃないでしょうか。
鳴門
私も永く市民劇場で演劇を観ていますが、ロシアの現代劇は初めてなんです。チェーホフとかゴーゴリーはともかくですね。現代劇は珍しいと思いますが、演じられる上で違和感などはなかったでしょうか。
中村
そうですね。あまり違和感はなかったですね。政治的な体制とか社会が違っていても、やはり人間が生きていくという部分は共通しているのでしょうね。
鳴門
お母さんが娘を心配する姿は、日本の家庭とあまり変わりないみたいですね。
中村
そうなんですよ。嫁に行って欲しいやら孫が欲しいやら、いろいろ言っているんですよね。彼女達の住んでいるアパートも日本の団地みたいなものでして、フルシチョフの時代に建てられたので「フルシチョフアパート」と言うらしいのですが、画一的な格好の建物がダァーと並んでいるという設定ですね。ですから酔っ払うと同じような番号なので、間違えた家に行ったりするんですね。
鳴門
それで今回のお芝居も間違えるところから話が始まるんですね。
中村
ええ、それで物語が発展して行くんですけれどね。年金生活とか経済的な点については日本と少し異なっているかもしれませんね。向うのほうが少しいい年金をもらっていて裕福に見えるんですけどね。このお芝居のお父さんは官僚かなんかなんじゃないかしらと思っています。
鳴門
私はお父さんが一度も出てこないので、離婚でもしているのかと思っていました。ロシアは離婚が多いと聞いたもので。
中村
そうでは無いようですね。割合にオーソドックスな家庭で、もしかしたらお父さんは教育者であったかのように感じさせられる場面もありますし。娘さんは原作では今回の設定年齢より高いようですね。公務員とかであれば割合よい年金をもらっていて、でも、外との付き合いはほとんど無くてフルシチョフアパートに住んでいるという設定ですね。
鳴門
どこかロシアらしくみえるように工夫された部分はありますか。
中村
あまり演出家からそういう要求はなかったもので、特にはありません。それに翻訳劇は日本人が演じるし、ご覧になられるのも日本人なので、昔の新劇の草成期のように赤毛をかぶったり付け鼻をつけたりと、そういうことはしていませんしね。今回は一人だけ髪の毛を染めていますけど。母親の設定は10年前に転んで怪我をして、それが基で身体が不自由になって椅子に座ったままの生活なんですよ。それからずっと娘の世話になっているんですね。そうそう、昨日なんか高知からのバスの移動の時リクライニングシートに座って背中を倒すと、後ろに座っていた石田さんが「ああ、芝居と同じだ」なんて言ったりしてね。
鳴門
動きがなくって座ったまま演じられるのは大変でしょうね。
中村
正直な話、セリフ憶えがとっても苦労しました。立ち上がって動くとそれがきっかけでセリフがでたりするんですけど、それができないんですね。座ったきりだから。それと背もたれが意外に高くて、しかも演出家からあまり身体を動かさないようにと言われているので、他の役者さんが後ろでしゃべっている時は動きが見えないんです。ですから、どなたがどんな動きをし、どのように反応しているかは一切わからないんですよ。
鳴門
結構むずかしいんですね。
中村
そうなんですよ。座ったままだから楽と思ったんですが計算違いでした。結構制約があるんですね。
鳴門
では、セリフを話す時も普段以上に大変だったんですね。
中村
座っていると横隔膜が圧迫されるので息が苦しいんですね。立って話すのとは全く違いますね。60年近く演じていてこういう役は初めてですね。
鳴門
60年ですか。やはり小さい時からそういう環境の中で育たれたのでしょうか。
中村
いいえ。私の親族の中にはこのような芸能関係の者はいませんでした。私の学生時代はちょうど戦争中だったんですね。それで学徒動員で工場に働きに行っていました。そこは不思議ところだったんですよ。蒲田にある大倉陶園という陶器工場でした。でも戦時中も女学校のお月謝はちゃんと払っていたんですよ。そこではほとんど勉強はできなかったですけどね。
鳴門
不思議な工場とはどのような工場で働かれていたのですか。
中村
始めは飛行機などの絶縁体の塗料を塗る工場でしたが、シンナーのような刺激臭の強いものがあって私はそれが駄目で倒れちゃったんです。で、この仕事は私には向かないということになり、大倉陶園で働くことになったんです。大倉陶園の陶器というのは宮中に納めるような陶器を作ったりするすごい工場なんですよ。ノリタケってご存知でしょう。
鳴門
ええ、有名ですよね。
中村
その工場だったんです。そんな工場で戦時中に何を作っていたのかというと、お米を増産した農家などに配られるバッチを作っていたんです。お抹茶色をしていて桜の花形の中に「賞」って書いているんです。粘土を練るところから桐箱に収めるところまで全部していたんですよ。
鳴門
初めてですね。そんな体験談をお伺いするのは。
中村
私も戦時中にそのうような工場があるなんてびっくりしました。でも大森蒲田の大空襲で工場は焼けてしまいました。でもあとで工場後に行ったら陶器が焼け残っていたんです。今でもその時の白いノリタケを使っていますよ。スープ皿とか大皿を。それを見るとその時代を思い出しますね。
鳴門
その陶器は相当な値打ちものなんじゃないですか。テレビでやっている鑑定番組にだすとかなりの値が付きそうですね。
中村
そうですね。でもその為にはエピソードを話さなくてはなりませんけどね。
鳴門
ところで、お芝居との出会いはその女学校時代だったのですか。
中村
ええ、終戦の時が女学校最終年でしたので、卒業前の半年くらいですが、土曜日毎に開かれる今でいうクラブ活動に参加しましてね。お茶とかお花には私はあまり興味がなくて、でもどこかに所属しなくてはいけなかったんですね。その中に演劇部というのがありまして友達と二人で入りました。でも芝居をやろうなんて気はあまりなくて、半年後には卒業して郵便局に就職しました。そこでハンコを押していたのですが退屈で退屈でね。そんな時、女学校時代の演劇部の先生が民藝の前身の東京芸術劇場が俳優養成所をつくるという新聞の切り抜きを送ってくれたので、すぐに試験を受けたんです。レポートで一次試験に通ったんですが、直後に民藝から「ある事情で養成所を作ることができなくなりました」との連絡があったので仕方なくまた郵便局に戻りました。その時、久保栄先生が「せっかく一次試験に受かったのだったら会ってあげてもいいよ」と、地図と紹介状を送っていただいたのですが、一人では行く勇気がなくて結局行かなかったんですね。そうすると、久保先生が千田是也先生に私のことを話してくださり、しばらくして俳優座から「もう一人入りたい人がいるので一緒に試験をしてあげます」と連絡をくれたので、試験を受けて入ったんです。その時一緒に入ったのが青年座の森塚敏ちゃんだったんですね。
鳴門
今までにインタビューさせていただいた方の中には高校の文化祭での演劇がすごく気に入ってという方がいらっしゃいましたが、そうではなかったんですね。
中村
そうですね。その時はなんとも思わなかったですね。たぶん職場が面白かったらやらなかったでしょうね。郵便局には悪いんですが。
鳴門
でも、女学校の先生が劇団の試験を受けてみてはと言ってくださるくらいですから、やはり何か強い思い入れがあったのではないでしょうか。
中村
そうかもしれないですね。女学校で芝居をやっている時は自分で台本を書いたりもしていましたからね。先日、小学校の同窓会に出た時、同級生からそういえば「たつさん」は小さい時から好きだったもんねと言われたんですが、自分ではそれを憶えていないし、特別に好きだとは思っていなかったんですよ。でも周りの人がそう言うからそうなんでしょうね
鳴門
女学校の時はどのような台本を書かれたのですか。
中村
女学校だから男役がかけないんですよ。男を演じられないから。女ばかり出てくる作品でしたね。
鳴門
タイトルとか憶えていらっしゃいますか。
中村
恥ずかしいですね。タイトルは『顧みる窓』って言うんです。学校のクラスメイトのエピソードを集めて一幕ものみたいに書いて。他にも先生のあだ名の数え歌作ったり。今考えたらあの頃のほうが舞台に意欲があったのかしらって思えちゃうわね。
鳴門
すごく活発な生徒さんだったんですね。
中村
何に影響されたのかは分からないですけどね。でも、一番芝居をしたいと思った動機は、経済的に自立したいという事だったんですね。なのにそれが一番自立しにくい新劇に入っちゃって。今に至ります。
鳴門
入団後の初舞台はどのようなものでしたか。
中村
毎日ホールでシリーズでやっていた創作劇研究会の第二回目かな。阪中正夫先生の作品で、村人1とか2の役で、セリフが1行でしたね。その時青山杉作先生が教えてくださった言葉が「うまくやろうとは思わないことです。大事なのは、声が会場の一番後ろのお客様まで届くことです。言葉がはっきり届くということは内容がお客様に届くということなんです。それを心掛けなさい。」でした。それは今でも私の金科玉条です。
鳴門
今日の劇場は広いですよ。声が響いて聞き取りづらいとよく言われるんです。
中村
届かないんじゃなくて、反響があって不明瞭になっちゃうんですね。分かります。
鳴門
何か劇場毎にそういった対策とか取られているんですか。
中村
そうですね。声が反響した音と重ならないように少し間をあけるので、時間が30秒から1分くらい延びるかもしれないですね。大切なのは活舌ですね。それと語尾には自分が伝えようとしている意図が一番はっきりと表れるので、語尾まできっちり聞こえるようにしゃべりますね。言葉っていうのは気持ちの表れですからね。
鳴門
長いキャリアのなかで印象に残る舞台とかありましたらお教えください。
中村
俳優座ではほとんどのブレヒト作品に出させていただき、いい役もいただきましたが、特に『三文オペラ』とか『肝っ玉おっ母とその子供たち』というのが記憶に残っています。それから俳優座劇場と劇団俳優座・文学座の提携公演で行われた『冬の花』は杉村春子先生と一緒にやらせていただき、とてもかわいがっていただきました。また、後々深いお付き合いをさせていただくきっかけとなった地人会の木村光一さんとの初めての出会いとなったのも『冬の花』でした。これでは紀伊國屋演劇賞もいただくことができました。
鳴門
最後に鳴門市民劇場の活動について何かメッセ−ジをいただけますか。
中村
日本はこれだけ経済的に発展していますが、文化の方はついていっていないように思います。皆さんにおかれましては非常に複雑な日常を送っておられると思いますが、その中で時間を見つけてこういう文化を楽しむ時間を持って欲しいと思います。そして私達は皆さんに楽しんでいただける作品、尚且つふっと振り返って考えていただけるような良い作品を作らなければと思っています。あと、石田さんがいつも言っているんですが男性の会員がもっと増えてくださればいいなと思っています。
鳴門
今日はお忙しい中、楽しいお話をありがとうございました。
中村たつさんとインタビューア

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