皆さんこんにちは。人形劇団プークの井上幸子です。
先月の26日まで怪談牡丹燈籠の再演を紀伊國屋ホールでやっていまして、翌日から須崎を高知を皮切りに高知、今治、松山、高松全部で10会場学習会、残り2箇所となりましてどのあたりに興味があるかわかってきまして今日あたりが一番おもしろいと思います。こんなに集まってもらったのはここが初めてで、今日は地元の方のコンサートがあったのにもかかわらずこんなに集まっていただいたということで、こちらにきて良かったと思われるような楽しい話になったらいいと思います。
おおよその進行ですけれども、劇団プークのことについて知っていただきたいので、劇団の話を少しその後に怪談牡丹燈籠の話をします、一方的にお話するだけでは疲れてくると思うので東京から人形を持って来ましたので途中で皆さんが疲れてきたなと思ったら人形の使い方をお見せして、皆さんの方にも回しますので、どんな重さでどんな風に使っているのか今日は体験してみてください。それでなぜ人形劇なのか人形劇の見所とかのを話をさせていただいた後で時間を少し残し話をやめますので聞きたいことがあったらぜひ質問をして下さい。ここの方はとてもおとなしいから質問が出ないよなんておっしゃっていましてけど人形をさわれたら是非聞きたいことが出てくるかと思いますので質問を受け付けたいと思います。もしかしたら劇団でどうやって生活しているんですかというような率直な疑問がありましたらそれにもお答えしますのでどのようなことでもいいですからお答えしようと思います。それから今日準備していただいたんですけど短いプロモーションビデオ紀伊國屋で舞台を撮ったものを編集してあとで、人形の説明や舞台の説明をした後でどんな風に舞台がやられているのか見ていただきたいと思います。ビデオには音楽が入っているのでわかりやすいと思います。
簡単に自己紹介をしますと二十歳から劇団プークに入団しまして、しばらくは人形を使っていました。ですからここや徳島にもライブ、子供の舞台ではたくさん来ているのですけれど、息子が一人いまして、息子を生んだ後は、後でお話ししますけど、プーク人形劇場という現代人形劇の専門劇場がありますが、そこで子供を育てながら舞台に立ったりをしていました。そのあとで、だんだん、プークには人形アカデミーという学校があったりしましたのでそこで教員をしたり、生徒と一緒に芝居を創ったり卒業公演をいく中でだんだん自分が役者というよりも演出をしてみたいなとか本を書いてみたいなというような希望が出てきたので17年くらい本を書いたり演出をしたりする仕事を半分くらいしています。
もう一つは制作部というところがありまして、みなさんとプークの舞台をつなげる仕事ですね、色々作品説明をしに行ったりとか、公演が決まったら細かいところの日程とかどんな風に当日まで迎えようかと事務局長さんと相談するのが制作部の仕事で、半分はそういう仕事もしています。今のところ最近はプークの大人向の芝居の本を書いたり演出をすることを私がさせてらっているので、プークのほかの者たちはの子供の芝居が多いので演出とか制作の仕事で結構めいっぱい動いているので、私の場合は自分で創って皆様の所に説明に行ってというような状況です。当日もまた伺います。だいたい旅に出て演出がつくなんてのは役者はいやなものですけれども、旅については制作の仕事が80パーセントありますのでそういう立場で市民劇場の皆さんとお会いできると思います。私がここ数年そのことをとてもありがたいなと思うことはだいたい演出というのは東京で芝居を役者と創って作り込むのは現場の役者とスタッフで自分は東京に残っていて帰ってきてどんな状態だったかをある程度みせてもらうだとかっていうことなんですけど、でも、自分で創って自分でどのように皆さんの前でこういうお芝居ですとお話に行ったり、当日見て下さる皆さんの反応を直接感じるというのは、とても大きいことなんです。やはり、分業はあります。専門の役者だとか美術部だとかいうのは必要なんですけれども、私の場合は芝居を創る上では結構いろんな事をさせてもらったところで劇団というのはそんなにたくさんのことで成り立っているというのをここ数年感じていますので、今回もこうして公演の前に皆さんとこうしてお話が出来るというのはありがたいことです。
それでは、少しプークの話をさせて下さい。人形劇団プークは今年で創立83年です。1929年昭和4年に創立しましたけれど、まだその頃は東京の旧制開成中学校に通っていた学生がいわゆるサークル活動として始めたのが前身なんです。ドイツからワンダーフォーゲルとかコーラスとかそういうサークル活動というものが入ってきて、開成中学の中でもいろんなクラブが出来て特に美術に興味を持っていたり人形劇に興味を持っている人たちがサークルで始めたものが前身です。その後より専門の劇団になっていきたいというものが残ってやって来たわけですけれども、創立メンバーの中には新劇の中村伸郎さんなんかも開成中学の同級生として、プークの川尻東次という美術家などと一緒にプークを創ってきたと記されています。人形劇団プークというのはどういう意味ですか、かわいい名前を付けましたねとよく言われますが、これは意味があって第一次世界大戦が終わったときにチェコのザメーホフと言う方がこれから何かあったときに武力で戦うのではなく、もっと若い者が言葉を通じ合って解決していくという考え方というか運動がかなり広まりましてエスペラント、世界共通語といいますが、その言葉が運動として始まってプークの若い劇団のものたちがその言葉を勉強して、エスペランチストといいますけれどヨーロッパの人とかいろんな国の人とその共通語で言葉を交わすという運動に参加しました。でそのときはラ プーパ クルーボ(LA PUPA KLUBO)と言うのがエスペラント名なんですけれど、ラは英語で言う冠詞、プーパは英語で言うパペット、人形です。クルーボはクラブ、意味としては人形クラブという意味なんですけれど、エスペラント運動の中でお互いにもう戦争なんか起こしたくないという気持ちなんですけれど、いかんせん、ラ プーパ クルーボという名前は長いしあれですよね、皆さん木村拓哉さんのことをキムタクって縮めてそれがニックネームになってしまうように、観客のほうからプーク、プークって呼ぶようになったそうです。あまりにもそれが定着してしまったものですから、社会的な名前もプーパ クルーボの頭文字をとって、PUKと言う名前で活動しようとなったのが名前の由来です。
創立83年ですから歴史の話をすると時間がかるんですが少し記念碑的な事だけ伝えていきますとそのころは年に2回とか3回とか会場を借りて、当時は大人の芝居です。その後に第二次世界大戦が始まりますが当時の代表者だった川尻泰司が戦争に反対していたので投獄されてしまったのです。その間はプークという名前は使えませんでした。名前を変えて人形の工房を細々と続けていたりそういう時代が続きました。
戦争が終わって1946年に再建されますが、そこからより専門の劇団として歩み始めます。そのあたりのプログラムをみると、代表者の川尻泰司の一番下の妹さんで則子さんが西村晃さんと結婚されていて、戦後まもなくのファウスト博士などをまだ皆ちりぢりになってやっと集まってきた連中とこのへんでは西村晃さんが台詞をいいに手伝いに来てくれたりとかかなりいろんなこういう方たちに支えられてプークは再建されました。
1964年は東京オリンピックの年ですが、私は東京の片隅で生まれて1964年の頃はなんとなく覚えているんですが、東京のオリンピックを開くためにものすごく高速道路をつくったりとかいろんな事がどんどん変わった時代ですね。それまでは私たちの子供の頃は下駄を履いていましたし、より和風の生活で障子があり畳があるおうちは当たり前だったけれどオリンピックの年を境にどんどん都会には高い建物が出来て高速道路も走って子供達はテレビを見るのが当たり前になって、小さくても洋風の都営住宅とかそういうのがどんどん出来てきてまったくそこを境に生活の様式が変わっていきます。そのころにテレビにかじりつくとかソファであまり遊ばなくなる子供が多いっていうのを憂いた保育園や幼稚園の先生がプークに生の人形劇を子供のために創って欲しいという申し入れがありました。専門家と相談して5歳の子供に理解出来る本を作ろうと、それをきちんと人形劇か出来ればもっと上の人も楽しんでもらえるし、それを小さな子供にもお話が全部わからなくても人形劇は目で見る要素がありますから、プークは1964年に子供の芝居を創るようになりました。そのときに創ったのはエルマーの冒険という今保育園や幼稚園、小学校に必ずシリーズで置いてある本がありますね。そういうのが創られて東京だけではなく福岡にも是非持ってきて欲しいとお母さんや先生方の要望で1966年伺って現地例会としてエルマーの冒険をやったことで、今子ども劇場や親子劇場という運動がありますが、それが生まれました。プークだけではなく、劇団仲間、劇団風の子など当時子供の芝居をやっていた制作の方が全国に伝えていくと全国で広がっていった時期があった。運動ですから、伸びていって次に安定してまたいま色々あってとかいうことはあるのです。私たちの若い頃は本当に半分は準備例会で役者で行って舞台の準備をして、本番までの時間にちらしを持って駅まで行って今日はここの市民会館で人形劇があります見に来てくださいってちらしを撒いたりとか、街宣で車に乗ってアナウンスしながら回ったりとか、ほんとに一緒に作ってきたという感覚が子ども劇場運動にありました。運動がいっぱいに広がったときはプークの仕事の70パーセントから80パーセント近くが子ども劇場の仕事になっていった、そうすると私たちは大人の芝居を創り続けたかったんですけれど、どうしても比重がそちらへ行ってしまって1950年半ばから1960年の頭までは結構まだ今の市民劇場さんに伺っている作品があったんですけれどしばらく間が開いてしまいました。私たちはぜひ大人の芝居を創り続けたい人形劇は子供だけのものだけじゃない、大人の方にも十分楽しんでもらえると思っていましたので少しずつですがプークの小さな劇場でやり始めまして特に1994年から毎年日本の現代作家シリーズと銘打って人形劇を作り始めました一番最初は松山出身の早坂暁さんがオリジナルで本を書いてくださって演出をしてくださったのが第1回目で2回目が藤沢周平さんですとか田辺聖子さんですとか劇団の創立70周年の時には井上ひさしさんの新作文楽で「金壺親父恋達引(かなつぼおやじこいのたてひき)」というのを作りましでそれが表に出せないのかというのがきっかけで四国にもこちらにはかかってないのですが高知、須崎、今治、今は残念ながらなくなった阿南に3年前に伺ったのがきっかけで今回呼んでいただいたというのがこのところの流れです。
今プーク人形劇場の話をしましたがプークは三つのセクションで人形劇団プークというグループを作っています。私たちが今やっている生の舞台を作っている有限会社人形劇団プークというのがひとつです。それから新宿から歩いて7・8分のプーク人形劇場というのがあります、小さいんですけれど一応地上5階地下3階のビルで地下に106席という劇場があります。表から見るとコンクリートの打放しで1929年から劇場が建つまでの1971年までの歴史が彫られていて途中戦争の時にはどくろマークがあってプークという名前ではできなくて別の名前で彫られていたり1946年に再建されたときにはオリーブの葉っぱがあったりとか表から見るとちょっと変わったものなんですけれど今劇場が建て替えられるとビルの中に入ってなにかわからなくなりますが歌舞伎座とプークは前を通ると劇場っていう香りがする建物です。余談ですが耐震診断をしてもらったところ不合格なら建て替えなければならないが今のプークの力ではとてもできないと心配していたが、おかげで当時建てたときとても良心的な工事だったのでプークの100周年までこの建物は大丈夫だというお墨付きをもらいました。今83年ですからあと17年はこの建物は建っています。なので東京にいらしたらぜひ遊びに来てください。基本的には土日祝日公演していたり正月や春休み夏休みクリスマスは連日やっていたり、それ以外に落語の方が口演をしたりとか小さい芝居の公演をしていたりとか貸し小屋と使ったり結構稼働率は高いんです。休みのときも劇場を見る可能性はありますからとても小さいけれど凜としたいい劇場です。このところニュースで染五郎さんがセリから落ちたということでプークにもセリがあるので取材が来ました。そのセリは創造的に使うのが第一なのですが敷地が狭いので二つの作品のとき奈落に道具をしまっておきセリを使って出し入れしたりしています。劇場は今年で41年になりますが少しずつ整えられてきて小さいけれど専門の人形劇場です。ぜひ遊びに来てください。これがもうひとつの会社で有限会社プーク人形劇場です。
この建物の横はカタログハウスの本社です。白い大きなビルが建っていてそのもうひとつとなりの小さなビルの一角に入っているのがスタジオ・ノーヴァというプークの映像部門の会社があります。たぶんこういうことをやっていますよというと舞台は見ていなくてもそれは見たといってもらえます。大体NHKの教育テレビ、Eテレの番組が多いのですが「おかあさんといっしょ」とか「いないいないばあっ!」とか「えいごであそぼ」「週間こどもニュース」「週刊 ニュース深読み」の模型をつくったり「連続人形活劇 新・三銃士」の人形を作ったり、テレビでは人形を使うことを操演といいますがプークの役者のOBが結構やっていました。そういう仕事もやっていますのでプークの生の舞台をごらんになってない方でも一回くらいはテレビでご覧になっていると思います。最後にテロップでスタジオ・ノーヴァって出てきたらプークの映像部門だなと思ってください。ほんとはプークって出れば全国区のNHKで有名になるのですがさっき言ったように戦争中プークという名前ではNHKに出してもらえない時期があったのでやむなくスタジオ・ノーヴァという名前ででた。ノーヴァはエスペラント名で新しいという意味ですけれど、今はもちろんプークという名前で出していただいていますが、もう41年スタジオ・ノーヴァという会社があると間単に名前は変えられない、今はプークとスタジオ・ノーヴァは分かれていますがその三つのセクション合わせて人形劇団プークという活動を続けています。
今日の本題の牡丹燈籠の話をします。
この牡丹燈籠は皆さんおおよそ知っていると思うんですけれど三遊亭円朝という落語家が創作をして口演をしたのが始まりです。円朝という方は落語の世界で特別な方です。だれも名前を継いでいません。永久欠番なのかこれからもだれも継がないんじゃないかと思いますが。当時一般の庶民職人さんですとかあまりお金を持っていない人は何が楽しみだったかというと芝居を見に行くことでした。当時はうんと安い歌舞伎もあったそうですが今の歌舞伎は高いところだと1万5千円とかして私たち庶民はとてもいけませんがでも3階席だと3千円くらいで見ることができたり一幕だけならもっと上の席で700円くらいで見れたりして財布に合わせてみることができてなかなかいいシステムだと思います。当時安い席がなくなった時期があったそうです。そうするとお金のない人たちは寄席に行って落語を聴くしかも円朝のように芝居話が得意な落語家は非常に人気があって円朝はすごくいいところで続きは明晩でと話を終わってしまうそうです。すると明晩みんなは押し寄せると本当に寄席が満杯になった記録があるそうで、それは井上ひさしさんが円朝のことを書いた本で勉強したのですが、その当時国会で速記録が始まって、速記の方が円朝の口演をしている間に楽屋につめてその記録を全部とったそうです。それを本として出版すると飛ぶように売れたという記録があります。私たちは現在原作を読むことができます。一番簡単に手に入るには文庫本が出ていて春陽堂文庫の分厚い本です。皆さんご存知の新三郎とお露それから伴蔵とお峰、落語では新三郎とお露のをお札はがしの場といい伴蔵とお峰のところは伴蔵がお金に目がくらんで女房を殺すので、女房殺しの場といいますがだいたいどちらかをやるのが落語で文学座のお芝居は曲者のお国、源次郎というのが出てきますがそういうところを中心に描いていて文学座の芝居は2時間半を超えていると思うのですがプークの場合は大人の芝居でも2時間で収めなさいという条件があってお国と源次郎は出ますが比重として少なくなります。原作があって人形劇にしたり文学座さんが文学座の芝居にしたりすることを脚色といいます。今回私がやったのは脚色の上にもうひとつ手直しをして、それをプークは潤色といいますが、潤色と演出の仕事をしました。潤色とはどういうことかというと、プークは1964年に初演をしています。そのときには林家正蔵師匠、亡くなるときには林家彦なる時には林家彦六師匠といっていましたが、林家正蔵師匠の語りと人形劇のいまで言うコラボレーションでやるのが目的で作られたのが当時の脚色でした。ですから私も初演ではなく再演、再々演で見ていますがちょっと面白かったのが黒の劇場といって川尻泰司と照明家が作ったんですが上と横から照明で光のカーテンを作り使い手は真っ黒になります。光のカーテンに物が当たるとそれだけ見えて後ろの操作者はまったく見えないという手法が黒の劇場で、出たりぱっと消えたりという演出が面白さでかなり幻想的なお芝居になります。当時正蔵師匠も60代で若かったので自分も黒の劇場に出たいということで本来は舞台の座布団の上に座って語る落語家ですがクレーンに座布団を乗せて最初は舞台の上で話していて途中光のカーテンの後ろに入り見えなくして舞台の高いところから現れ師匠が空中で話をするという、当時画期的な手法でこれが1980年だったと思うが文化庁の芸術祭大賞を貰いました。それを記念してとても暑い夏に師匠が80歳を超えたときに全国公演をしました。そのとき師匠は歩くのが不自由で人の手を借りる状態なのだが緞帳が上がると一声凜としゃべる、でも2時間の公演後は一人では立ち上がれない状態。今だから言えるが公演中に師匠が死にでもしたら落語ファンにプークが殺したと言われると思いその旅は緊張していた。おかげでその舞台は好評だった。プークの牡丹燈籠といえば正蔵師匠、川尻泰司の演出で黒の劇場というのが定着していた。しばらくして二人とも亡くなってしまったのでこれをやろうという声がなかったんですが3年前の80周年で企画募集があり牡丹燈籠を読み直したらとても面白くもったいないということでやることになった。最初から落語家を使い黒の劇場をやるというプレッシャーをかけられ初めからやりませんと生意気なことは言えなかった。その当時桂歌丸さんが毎年円朝のお話を口演されていて検討したのだが体調も良くなくて1日2ステージはとても無理ですと言われプークがやるとしたら紀伊國屋ホールで古い小屋だが高い小屋なので1日2回公演をしないと成り立たないので1回牡丹燈籠はつぶれました。
私はそれをきっかけに全部を人形でやったらどうかと思いつき円朝という落語家を人形で出してそれが進行していく形でそれ含めて全部人形で出来るように本を書き直しました。以前は落語のスタイルでしたから恐い話でしたからみんなが帰るときに楽しい気持ちで帰さないといけないと言うことで割と踊りを踊ったり明るいことをして帰すというのがスタイルとしてあるんです。それで前の舞台は師匠がかっぽれを踊ってそれでお開きで帰すというスタイルでした。それはそれでおもしろいんですけれど大作をやって余韻もあるのにかっぽれで帰すのはもったいないなと生意気にも思いまして最後を変えてしまいました。文学座のお芝居は女房を殺してそれが最終的に捕まるまでを演じていると思いますがたぶん皆様が見ていて悪いやつが捕まるということでの納得しかたがあるかと思うんですけれど私が考えたのは捕まる捕まらないというよりは伴蔵が女房を殺した瞬間から「おまえさん」と言うおみねさんの幻聴が聞こえたり、ふっと見ると新三郎の幽霊が見えたりとか自分が正常でいられなくなる人を殺した後のおびえというのがもうそれが一番のバックじゃないかなと考えましてその最後まで持って行っていないんですね。そういう手直しをすることを潤色ということで今回約30年ぶりにプークで舞台にしたんですけれどそういう潤色をした上で特徴としては全部人形でやってみたいということで落語家さんは出ません、円朝と言う人形が出ます。スタイルとして黒の劇場は一切使っていません。黒の劇場は今言ったようにぱっと出たりぱっと消えたり高いところに出たりとこういうおもしろさはあるんですけれどつくってもあかりのカーテンですから平面的なんですね動きが、大きいサイズに行けば行くほどもっと自由に人形が動きたいなということがあって出遣いという言い方ですけれど文楽の中でも主遣いは顔を出していますが人形を持って自由に舞台の上を動きますそうすると人形に集中してもらいたいわけですから役者が下手だと気になりますよね、必ず一緒に人間が居るわけですからプークは20年30年役者をやっていて出遣いにもなれた役者がたくさん居るので出来るぞと思いました。お客さんの中で、闇というのを、輝か消えるかじゃなくて深い闇からずっと見えてくるものから、見えていたものがゆっくり消えていくとかもっと奥行きがありたいなと思って、色としてももっとグラデーションがある舞台にしたいと思ったので、これはプークが照明で助けてもらわなくてはいけないことですけどそんな考えがあったので、今回一切黒の劇場はしていません。
ちょっと人形をお見せします。どういう風にやるかというのをお見せします。現役の人形です。帰って宇都宮で公演をしなくてはなりません。幽霊になる前のお露さんを持ってきました。これをお見せすると皆さん大きいですねといってくださるんですけど人間の形をした人形としては一番小さいです。役者は黒の衣裳を着けますし、目が半分隠れる半頭巾をかぶりますし台詞も役者がやりますから声が通るように口元の所にはなにも付けません。基本的には人形の後ろに居まして、台詞を言ったりします。これは棒遣いといって頭の首のところが堅くなっていましてその下に胴串(どぐし)というものがあってこれは文楽の遣い方です。これが胴串で私たちは左手で使うんですけれど胴串の真後ろに親指が行くようにしてそうすると親指の腹が人形の真後ろですので人形を見なくてもどこを見ているかは親指の感覚で覚えます。ここにちょうど中指のところが引っかかるようにしているのですが竹のおへそというかそれを突くと肯きが出来ます。今回は広い舞台で見せるのでカラクリとしては肯きだけを使います。文楽ですとかテレビなどで目をつぶったり目を横に動かしたり口がかぱっとあいたりします。そのときは胴串の所のおへそがいっぱい出ていて中指で使ったり人差し指で使ったり足りなければ親指で使うことがあり、ピアニストのように指を動かしたりするのが文楽の役者さんで、舞台で遣うときはかなり距離を持って見ていただくので細かいカラクリがあるよりそばで見るとギョエっとなるような目の回りをはっきりさせています。この方が舞台の上で人形が生きるのです。胴串をぎゅっと握ってしますと動かなくなるので頭の重さは支えますけれどできるだけ軽く持つようにしてこの中でゆっくり回したり早く回すことで表現することが出来ます。肯きを回しながらどう組み合わせるか何百通りあると思いますがその中でうれしかったり憂いをみせるとか恥ずかしいとかっていうのを稽古の中で見つけていく作業をします。ちょっとやってみます。
お露さんということでできるだけ若い女優さんにやってもらうんですけれど使い慣れてくるとこれは役者として胴串というのはおもしろいのですが最初はどうしていいかわからないんですね。だんだん出来るようになるんですけど。たとえば新三郎と初めて会ってちょっと恥じらいがあって目線をそらせるというのがあって若い女優さんにやらせるとどうしても恥じらいというよりも拒否しているようになってしまいます。それはスピードが速いのと肯きをどう入れるかによって変わります。うまくできるかどうか、(以下お露の実演など)
(お露の人形を客席に回す)(ネコの人形の実演)(ネコの人形を客席に回す)
(人形ならではの表現など)
人形がどういう舞台で遣われるか、今回の舞台装置は朝倉摂さんにお願いしました。朝倉摂さんというのはかなり大がかりな舞台をやられる方だしお名前は皆さんご存じだと思われますけど、とても忙しい方ですね。まもなく90歳(実際は7月で90歳)になられる方です私が一緒に仕事をしたときにはたぶん86とか87とかだったんですけれどでもごくしかっりとして守りをするような人じゃなくて、新しきことをやろうっていう人なので。なぜ朝倉さんに頼んだかというと5、6年前に一度だけよその劇団でしたけれどミュージカルの仕事で朝倉さんが装置で人形が出る仕事だったんですね。その人形をミュージカルの役者さんたちが使うので指導に来てくれと伺ったときに初めて朝倉さんと話をした、ただそれだけの関係、繋がりだったんですけれど、朝倉さんの舞台を色々見せていただいて大掛かりのすごい美術でとてもこんなのはプークで頼めないなという世界もあれば3、4人でやってる芝居の中でシンプルなんですけれどおもしろいなという舞台を何本か見てできたら一回は人形劇の世界に朝倉さんの装置というのをぜひやって欲しいという思いがあったんですね。99パーセント断られるだろうなということはわかっていたんですが何も言わずにあきらめるより一回お願いしてダメって言われるほうがいいと思って忙しいからダメだろうお金がたぶんダメだろうという気持ちでお電話をしたら、こういうときに神様っているんですね、翌日にニューヨークに行かれるところだったのに自宅にいて直接電話に出てくださいました。私は創立80周年記念に怪談牡丹燈籠をやろうと思っているのですが朝倉さんに装置をお願いしたといったら、私の頭の中では99パーセントダメだと思っていたのに、ほとんど間がなく、はい、わかったやるよ。何の条件も聞かずにどれくらい予算があるのかも一切聞かずに引き受けてくださったんですね。あとから伺ったらさっき言いました川尻泰司が美術家だったものですから若いときに一緒に仕事をしていたりとか川尻が亡くなったときにプークがどうなるのか心配していたことや、もともと住んでいた所が谷中で、牡丹燈籠の舞台なんですね。東京へ来たら谷中あたりを歩くと面白いですよ、円朝師匠のお墓もあるお寺があったりもしかしたらお露さんとお米さんはこういう道を歩いていたんだというような町なんですね。私が歩いたのは夕方近くでまだ明るかったので恐くなかったのですが夜はかなりぞわっとくるかなという世界があって、そこに朝倉さんは生まれて、お父さんが彫刻家で朝倉文夫さんで谷中の日暮里の駅のそばに家が美術館になっています。そういうところの出身なので私は牡丹燈籠の空気を知っているんだよって一緒にやってくれることになりました。本来は第一人者なので私のような名前なんてちっともない演出に対して気を遣ってくださったんだなと思いますが、こちらの意図をいっぱい話させてくれて、最初は朝倉さんは回り舞台の装置をデザインしてきました。私は回り舞台にイメージがもてなくてこんな大御所に対して悩みながらも、一回遠慮してしまうと二度と変えることができなくなると思い、私の中では回り舞台のイメージは無いと答えたら、即、次のことを考えてきてくださり、今度も大変だったんですが、これは役者泣かせもいいところですが、床が後ろに行くにしたがって高くなる、開帳場といいます、八百屋の店先の陳列台のようで私たちの舞台用語で八百屋といいます、そういう舞台を設定してきたのです。八百屋というのは立っただけでも自分のバランスをとるのが大変で奥行きがあるヨーロッパの舞台でオペラをやるときには開帳場というのはよく使われますが、紀伊國屋の大きくない奥行きもない舞台で開帳場というのはかなり重心の上でかなり難しいことです。しかもそれが低くなって使う場合は自分の腕より高くなって使うことができるんですが、座ってしまって床面が座敷になって遣う場合はもう人形のほうが低いです。これはかなり大変なことで、私はこれを見た瞬間に役者が足を痛めたり腰を打つって思ったんですけど、皆さんのほうから見て床面が見える魅力、しかも床面が黒とグレーの市松模様になっていて素材が少し光るようなもので作ろうっていう案でしたから、客席からそれが見えて、テカテカしたところに色んなものが写り込む面白さがあるんですね、そうするとたとえば二階席から床面を見ることができますが、一階席からは見上げなければならないので床面を見ることができないのですが、床面が見えるっていうのはほんとに面白いことなので、今回の舞台はたぶんどの席からでも床面が見えると思います。役者と相談しまして、多分稽古は一日中なので大変だと思うが、本番は約2時間なので多分大丈夫だよと言ってもらえて今回は思い切って八百屋で行きますということにしました。
今日、朝倉さんの舞台画をコピーしたのもですが持ってきました。
(以下舞台画および舞台装置の説明)(舞台写真を客席に回す)
(2分程度の牡丹燈籠デモテープを上映)
今、音楽が和物なのに何の和楽器でもない物が出てきましたがこれは子供の芝居でも何でもほぼ九割がたお願いしている、大阪で活躍しているマリオネットという演奏家です。ポルトガルギターと小さいマンドリンと大きいマンドリュート、普通のギター、それを今回録音ですのでそれを持ち替えてもらって厚みをつけてもらっています。なぜポルトガルギターかっていうのがあるんですけれど、どこの国の音楽、どの時代の音楽という特徴のないことで、和物ですけれど不思議な世界、幽玄な世界も含めてこれはきっと合うぞと思ったわけです。ほとんどの方が音楽が合っていますねとか最初はエッと思ったが良かったと言ってくれます。
人形劇の面白さをここで言いますと、私たちは人間の形をしているものや動物の形をしているものだけを人形と言いません。たとえば風をあらわすのに葉っぱの一枚をどう操作するのかがそうです。大きな舞台では風を吹かせたり、雨を降らせたり大掛かりな装置を使ったりしますが、人形劇では機械に飛びつかずたとえば雪を降らせる場合、切った紙を降らせるばかりではなく、お正月の繭玉を役者が二本操って雪を降らせるとかそういう表現をしてみたくなるのが人形劇なんです。つまり手作りです。こんなことも含めて人形だと思っています。
最後に伴蔵が女房を殺して最後にお国さんい言い寄ろうとしますがそのときに呆然とした伴蔵の後ろに儚い世界ですが蛍が飛びます。蛍も手作りで小さな電球にマジックで塗ってそれなりに作り役者がそれを飛ばすんです。
(以下蛍の種類について説明)
最後に蛍が飛んだり燈籠が流れてきます、けれども一切実写とかしません。役者が燈籠をどう動かすかで水を感じてください。どんな物体、布一枚でも動かすことで表現をすることが人形劇だとプークは思っています。今回は大人の芝居ですので台詞は一杯あります。でもできるだけ人形の動きで語れる動きでわかることに対してはできるだけ言葉を取っていきます。とくに台詞を一生懸命聞いていなければならないというよりもう少し楽に、動きで語っている部分もあります。音楽とか効果音とかが大事です。かなり総合的な芸術が集まって見ていただくので、耳だけではなく目で見ることの面白さ、それはちょっと楽に見ていただけます。特に一幕目は新三郎とお露の武家のきちんとした動きがありますが、落語の世界ですのでその中でもおかしいものはおかしいんですね。笑っちゃいけないまじめに見ないとと思わないで笑いたかったら一幕からどんどん笑ってください。二幕になると伴蔵とおみねの長屋から始まりますのでラフになり皆さん開放的になって気持ちが交遊できます。でも一幕はそういう世界ですのできちんと座ってシーンと見てくださいということではなく落語ですのできれいな舞台を目指していますが、人間のおかしさを含めて笑いが色々入っていると思いますので遠慮しないでうんと開放的に見てください。
あと、なんで猫なんですかという質問がありますが、今回三体猫が出ます。これは伴蔵とおみねの庶民的な猫です。この猫以外にお露さんの猫で真っ白な猫がいます。それからお国さんの部屋にはイメージは黒猫なんですが舞台で黒は難しいので紫色のちょっと気取った猫がいます。こういう猫を出すことによってたとえば伴蔵とおみねが二人で言い合って喧嘩なんかしますが二人の間で猫を取り合ったりして猫は逃げていったりします。人間がおろかなことをしているときにこの猫の目線があることで人間の世界を感じてみることや、お露さん猫は新三郎と親しくなるきっかけになったりします。お国さんの猫はお国さんが猫に邪険にするわずかなしぐさを見せることで性格を見せたりします。三者三様の猫を上手く使うことで性格が描写されたり、長く台詞を言わずにひとつ猫について仕草をすることで描写を増幅することができます。
私が創った本は場面ごとすべて花が出てきます。たとえば梅ですとか、おみねさんの長屋ですと白粉花がが出てきたり、お国さんの部屋では紫陽花のふすまががあったりとか茶屋の場面では百日紅ですとか全部花が出てきます。伴蔵がおみねを殺すという場面が私にはどうしても腑に落ちなくて、もっと見ている方に伴蔵がどこでスイッチが入ったか狂気になってしまったかがぜひやりたくてひとつ場面を増やしました。そのときに関口屋といって伴蔵がお金をせしめた後に自分のふるさとで大きなお店を開くんですがそのうちで床の間の花を何にしようとずいぶん考えて白い花で血のように赤くしゅっと模様が入った夏椿がありますね。その場面を増やしました。花を使うのは遊びも入っているのですが、おっ、あの花が出ているぞとそういう楽しみ方もして欲しい。
さっき床が斜めといいましたが稽古のときにものが転がって大変でした。小道具が多いところは転がらないように工夫しましたが、稽古場で転がったことを逆手にとって、転がることの面白さもありだなということがわかって、ここで言ってしまって本番でドキッとしないと面白くないので内緒です。
なにか聞きたいことはありませんか。
- 問
- 台詞は人形を使っている人が言うのですか?
- 答
- 99パーセント役者が言います。一部エコーがある台詞は録音です。
- 問
- 円朝が人形で出てくるのですか?
- 答
- 円朝は大きな人形で、プークのベテランの佐藤達雄が演じて台詞を言います。膨大なお話ですので解説的なことも言います。
- 問
- 役者という言葉を使っていますが人形遣いではないのですか?
- 答
- 人形遣いがわかりやすければそれでもよいですが、俳優として台詞も言います。普通の俳優の力量がある者が人形も使います。それを目指しているので役者といいます。円朝は落語家なので羽織を着て現れ少ししてそれを脱ぐ、人形でこれをするのは難しいですが工夫してそれをやると、客席からほーっと感心されます。そういうことも目指しています。
- 問
- ボスターは綺麗だが人形とは見た目が違う、ポスターのこだわりは?
- 答
- イラストは有名な切り絵作家の百鬼丸、気に入って依頼しました。このポスター作品ができたときには少しイメージが違うと感じましたが作者が気に入っているのでこれになりました。ポスターの依頼の時期と人形が出来上がる時期が違うので同じイメージになりません。このお露さんは少し恐い絵、首のところの刀傷、新三郎に添えた手が骨になっています。
「人形(お露)とネコを実際に触ってみて、何を感じましたか?」
参加者にお聞きしました。
■ あたたかみのある、本当に見つめられているような人形でした。
■ 大切な人形を触らせてもらって感激しました。話さなくてもすごい存在感でした。
■ 実物を触って、動かすことができて観劇に期待が持てました。
■ 本物の人形に触れることができて感激しました。
人形を動かすことは難しかったです。■ 思ったより軽量でした。動かし方でいろいろな表情が見られるんでしょうね。楽しみにしています。
■ お話をお聞きしてとても楽しみになりました。
人形も生きたように扱えるすごさも楽しみたいです。■ 初めてです。ほんとに良く出来ています。良かったです。ありがとう。
■ 人形に触れて舞台を楽しみにしています。
■ 大きくて重さのある人形はそれだけでとても興味深いものでした。これが動く、生きるところを見たいと思いました。
■ 大きな顔に驚きました。表情をうまく出すのはとても難しそうにかんじました。
■ とても自由になる人形で劇の中でどのように扱われるか楽しみです。
■ 想像したより、軽い感じ指で動かすのは大変と思います。 表情を人形で出すのは?
■ 僕が思ったことは、人間が芝居で表現するより、人形で表現する方が難しいと思いました。
■ 実際に手にとって見た人形が舞台で演じるのを見るのが楽しみです。 人形劇の楽しみ方を教えていただき世界が広がりました。
■ 思ったより軽い感じがしました。ネコも向きを変えることで、表情がかわるのだなーと思いました。
■ 人形劇でないと表現できない良さがあると思う。とても期待感が高まりました。楽しみだ!
■ 実際に持ってみて、本番を見るのが楽しみになりました。
■ まず、大きさにびっくりしました。触って動かしているうちに、とてもカワイク感じてきました。人形使いの素質があるのかな(笑)
9月例会が楽しみです。■ 魂があるような気がしました。本番が楽しみです。
■ リアルな動きに感心しました。
■ う〜ん。当日が楽しみ!
■ 見た目には、漫画チックな顔立ちですがとても表情豊かに動かせるのですね。
■ ただの人形がどれだけ魂を吹き込まれ、生きた演技を見せてくれるのか楽しみです。
E-mailでのお問い合わせは 鳴門市民劇場ホームページ nrt-geki@mc.pikara.ne.jp まで。