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モリー先生との火曜日

加藤健一事務所公演

鳴門市民劇場2013年9月14日例会 感想集

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鳴門例会カーテンコール

モリー先生、ミッチありがとう!
  加藤健一さん、義宗さんありがとう!
  どう死ぬかを学べば、どう生きるかは自ずと見えてくる。
  色々と考える時間を与えてくれたこと!
  まだまだ人生半ば気持ちの上では若者だが、老いと死はいつも背中合わせにやってくる。
  高齢者と言われる年齢になった。
  明日はどうなるか分からないが、死とは当分無縁のように思っている。
  この先道に迷うことがあるかもしれない。
  その時、ミッチと共に教わった様々なヒントを糧に悔いの無い一生を終えたい。
  加藤健一さん、義宗さん、実の親子の息の合ったお芝居また、素晴らしいピアノ演奏。
  「モリー先生との火曜日」心ゆくまで楽しませていただきました。
  本当にありがとうございました。

人生の指針のようなお芝居を真剣に観劇しました。ありがとうございます。
  さて、振り返って自分の人生を考えると、独身時代は、いつも迷って正しいか否かの回答を出せずに、そして相談する人も殆んどなく自分の気持ちに従い歩んできたと思う。結婚して妻との二人の人生は、お互いに話し合って長い時間重ねて歩んできたと思う。今、子供たちも独立をして自分の人生を歩んでいる。今回のお芝居に、モリー先生のことばの中に「いかに死ぬべきかを学びなさい。そうすればいかに生きるべきかがわかるでしょう。」
  逆説的ではあると思うが、人はいかに生きるべきかが永遠の課題と思います。定年を迎え、数年経つ身には残された人生をいかにいきるべきかと自問自答しながら歩みたいと思います。大変に重いテーマを2時間15分かけて、私たちに「人生を考えるチャンスを提示して頂いたこと」に感謝しております。

実にしんみりとした二人芝居でした。
  人生を生き抜く珠玉の教訓が次々とモリー先生の口から溢れでるいいお芝居でした。
  モリー先生の教訓が一つまた一つ、じわじわと身にしみました。
  ブラボー!
  希望として、ミッチの恋人役の女性が登場してほしかった。華やかで、インパクトになると思います。

う〜ん…観終わった後で「よかった」と思えましたが途中でねむくなってしまうようなストーリーでした。
  帰りの演奏、握手でのお見送り感激しました!!

とても良かったです。 あんな長ぜりふを全て覚えているなんてすごいです。

私は教師です。教師にとって教え子の成長や教え子との再会は大いなる楽しみです。
  そのことからも16年ぶりの再会、そしてその後1000q離れたモリー先生宅へ毎週火曜日の来訪は余命わずかなモリー先生にとって、どんなにうれしい時間だったことでしょう。モリー先生が残した言葉にも印象深いものがあります。
  それにしても終演後の義宗さんのピアノ演奏、健一さんの見送り(握手をしてもらいました。)はとても良かったです。鳴門での上演が千秋楽というのも思い出になります。

今観て感激した役者さんに見送ってもらうなんて、ワクワク、ドキドキしながら出口に向かいました。ピアノ演奏と握手、十二分の余韻を楽しみました。

モリー先生の言葉がずっしりと胸にひびき、正面から死と向き合う姿勢に感動した2時間15分でした。あっという間に時が流れたように思います。二人のぴったりと息の合った演技が観客をぐっと引きつけたようです。
  私も一員として一語一語をじっくり味わいました。「死ぬことは悲しい、不平不満を持って生きていくことがもっと悲しい」どきっとする言葉でした。いつかは必ず死はやって来る。それが何時か分からないからこそ、生きていけるのだと思う。実行に結びつけることは難しいが、じっくりと自分自身を見つけるよい機会でした。自分の背負っている荷物が少し軽くなったように思います。
  又、お会いしたいですね。次回の公演を楽しみにしています。それまで、しっかり自分の生き方、方向を見つけられているように生きていきたいものです。
  モリー先生すばらしい人生訓をありがとうございました。
  心から拍手を送って、大感謝の胸中を伝えたいです。
  久しぶりに芝居の中にどっぷり入りこめた舞台でした。

若い役者さんがハンサムだったこと(劇の後にロビーで電子ピアノを弾いておられました)、モリー先生が病気なのに元気な声を出して『から元気』でお弟子さんを安心させようとしていた演技、お弟子さんも先生が弱っているのに気付かないふりをしていた演技。

モリー先生の私たちに伝えたいメッセージがW加藤氏の熱演から充分、伝わるお芝居でした。 久々にすばらしい劇に出会えた気がします。
  最後にお芝居に対する情熱を加藤氏が語って下さいましたが、市民劇場の存在価値を役者さんの立場から伝えられて身が引き締まる思いがしました。ありがとうございました。

終演後の隣の人の第一声「ようあれだけのセリフ、おぼえられるなあ!」
  「ほんまになあ!」おふたりの熱演に感心しきり!!
  一日一日を大切に生きたモリー先生と寄り添ったミッチー。モリー先生は人生の終盤にこんな相棒がいてうらやましい限りです。
  ピアノ演奏もよかったです。特にロビーでの演奏を聞きながら会場をあとにした清々しさは忘れられません。
  アシストホーンをお借りしました。最初使い方が下手で雑音が…。ご迷惑をおかけしました、がセリフをはっきり聞き取ることができて楽しめました。

鳴門例会カーテンコール

二人演劇としては内容的に良かったと思いますが、出演者が二人だけですのでどうしても盛り上がりに欠けたとの感を覚えました。

(1)超多忙のミッチは毎週、モリー先生を見舞うことになるが、先生との会話の中で思いやり、人生、愛を論じ、次第にミッチにとっても、そこに居ると自分を取り戻し救われた時間になって行く。
  死の直前まで、有意義な人生を送ろうというモリー先生の強い意志と人生経験に裏打ちされた柔軟な心が印象的だった。モリー先生が語った言葉をもっとしっかり受け止めたい気持ちになって、同じ表題の本を入手した。14回の会話は実に広範囲な人生のテーマについて語っていた。仏教に通じるところもあった。再度ゆっくり読み返したい。
(2)今回「二人芝居」と聞いてどんな展開が見られるか関心があったが、鍛えられた台詞の語り口、モリー先生の五体が次第に弱っていく仕草、要所要所のユーモア、ミッチと先生の親愛と敬意が通じ合っていて明るく人生の話を聴くことができた。
  又、舞台装置では緑と紅葉のカエデの樹、モリー先生の本いっぱいの部屋、最後の丘の上で茂る力強い梢等、劇の進行がよくわかり、すがすがしく印象に残った。

モリー先生の生きる背中を教え子が見て、それに葛藤しながらも身につけていくストーリーに引き込まれました。生涯を通しての人生訓ですね。
  最後方で観劇していたのですが、二人の声が最後までよく通りさすがですね。

前回の「ハムレット」はガサガサした感じでしたが、今回の「モリー先生」は二人芝居ということもあり、しっとりしていて感情移入ができた。鳴門市民劇場の多くの会員と同様に、私も映画が千円で見られるようになり、この芝居を観ながら、これからの二・三十年のことを考えた。日本でヨーロッパの個人主義を生きた永井荷風をなぞることは無理だろう。映画と本好きの私は映画館へ行って、本を読んでいれば、十分楽しく暮らせると思ったりする。忘れずに付け加えるが、芝居鑑賞は三番目。
  しかし、モリー先生と同業の私は、仕事をしているから映画館で映画をみることも仕事に関係のない本を読むことも面白いのだと思う。映画を見て、本を読んで、芝居を観て感銘を受けると、自分もいい仕事をしなければと思う。
  今回の芝居はスタイルのいいミッチと胴長短足のモリー先生の間に、人生を感じた。本当はALSだと発声筋が萎縮して声が出にくくなるだろうが、二人とも声がいいのに感心した。当たり前だが、一番前の席では二人の声に遠近感を感じ、二人の空間の隔たりを年代の隔たりに感じた。テレビに出ている加藤健一は仮の姿で、舞台の彼が本物の加藤健一だと思わせる内容だった。私もいい仕事をしなければと思うと同時に、年経るにしたがって、仕事と遊びを癒合させ、仕事の中に楽しみを見出し、遊びの中に仕事を見出したいと思う。

例会後…。生活の中のさまざまなシーンでモリー先生の言葉がふと心に浮かんでいます。(本当は些細なことなのに)一大事のごとく気持ちが落ち込んでしまうときには「波の話」(波はいずれ砕け散る運命でも、ちっとも残念とは思わない。自分は大海の一部だから→ちっちゃいことを気にしてもはじまらない)、(これも、冷静になれば何でもないことなのに)相手に苛立ちや怒りを抑えられない気持ちになったときには「相手を許しなさい。そうすれば争いはすぐ終わる」(これは!世界中の争いを絶やさない人々に、繰り返し、きかせたい)、逆に優しくなりすぎて自分の立ち位置を見失いそうになるときには「謙遜のあまり、自らの輝きを隠してはいけない」(勇気が出ます!)、二年たっても家族としては無念さがぬぐえない、病気と闘って亡くなった父のことを思うときには「死ぬということは悲しいこと。だが、不幸せに生きているっていうのは、もっともっと悲しいことだ」、亡くなる前にもう一度会いたかった友人を思うときには「返事はできないけど、ちゃんときいているから」…。そして観劇後、家族の顔を見るたび「大切な事は出し惜しみせず、すぐに言うべきだ。ここぞというときに言おう!などと取っておくから、伝えられなくなる」という言葉がアタマをかすめます(“出し惜しみ”)というのが、いいよね!なかなか実行できないけど)。
  でも、こんな、心に染みとおるような言葉の数々に勝るとも劣らず感動したことは、絶望の淵にあるはずなのに常にユーモアを忘れないモリー先生の悠然たる生き方でした。これはもしかすると、演出と加藤健一という役者の演技力に拠するところが大きいのかもしれませんが、この作品を単なる「名言集」のようなところに落ち着かせず、より大きなものにしてくれた隠れ技ではなかったか。どんなことがあっても…あんな風にありたいものだと思いました。あの強さが、あの心の広さの素なんだろうと、思いました。

今回はノンフィクションということですが、今までできたことができなくなっていくということで、妙に実家の親の状況と重ねて考えてしまいました。(親はただ年齢と不摂生の問題ですが…)
  「どんな状況でも人を許しなさい」というようなメッセージがあったように思います。心に響く言葉ですが、自分があの状況になったら実践できるか分からないと思いました。

とてもよかったです。最後に握手もしていただいて感激でした。

私達は何を目的にそして何のために生きているのだろうか?
  死についても深く考えさせてもらった。
  すばらしい舞台でした。

ピアノ演奏が素晴らしかった。

非常に感動しました。
  出演者二人だけなのにテンポの良さ、軽快なピアノ演奏に吸い込まれそうになりました。 恩師に義理を果たすべく一度だけの訪問のつもりが毎週火曜日にモリー先生の自宅に通うようになり二人だけの講義の始まりとなる
  すばらしい演技に心打たれました。
  終演後のロビーでのピアノ演奏よかったです。ありがとうございました。

鳴門例会カーテンコール

冷蔵庫いっぱいのエッグサラダを思うと胸が痛いけれど、毎週友達といろいろな話をできたモリー先生は幸せだっただろうなと思いました。自分の人生、こんな風に大切な存在が作れるか、これからの課題です。
  パンフレットにあった「あなたが腹を立てる相手にあなたは一番依存してるんだよ」〈手元にパンフがなくうろ覚えですが〉が、ほんとにそうなんだよなと思いました
  帰りにロビーで聴いた義宗さんの電子ピアノ、ステキでした。
  カトケンさんに直接感想とお礼を言いながら握手していただいたのがとてもとてもうれしかったです!

難病に犯され、余命わずかなモリー先生、スポーツライターとして活躍するミッチアルボム。二人の関係は大学教授と教え子との関係。ある機会あって再会する。16年前の教え子を温かく受け入れてくれる。そして二人だけの最後の講義が始まる。
  人は生まれて死すまでのモリー先生の魂のような独自の名言を
  語り継ぐ。短い時間ではあるが、師弟を超えた二人を育んだ時間は終わったのだ。もうこれ以上先生の声を聞くことも話すこともない静かに眠りについた。モリー先生さようなら、有難う。ミッチアルボムの胸の中に灯りが灯る。先生の残した数々の言葉。ミッチアルボムは忘れることはないであろう。観ている私も心が軽くなった。
  達者な役者さんの二人芝居、良い芝居を観せていただきました。

学生時代の恩師の言葉を思い出した。「人はいつか死ぬ。いつ死んでも悔いがないように毎日精一杯生きよ。」毎日プラプラしていた学生時代によく言われた言葉であった。
  こんな過去もあり、その恩師とモリー先生が重なってしまい観劇しているというより講義を聞いているようであった。二日酔いの悪条件にもかかわらず一睡もすることなく講義を最後まで聞くことができた。私にとっては大変いい演劇であった。

とても感動しました。舞台の全部が丁寧で飽きさせず、二人芝居が不自然じゃなく、ずうっとのめり込んで観ていられました。息子さんの顔の大きさがカトケンさんの半分位だったので、舞台には損かなと思いましたが男前でピアノも上手で、才能溢れる後継ぎがあって良かったです。機会があれば他の芝居もまた観たいと思いました。

人生にはコーチが必要だ」とモリー先生が言っていたが、本当にそうだと思う。若い頃には未経験のことが多いくせに年配の人の助言を聞いてもピンと来ないことが多かったけれど、歳を重ねて振り返ってみると、確かに人生の先輩たちの教えは貴重だと気づく。
  今回の劇を観て、自分もモリー先生の火曜日の授業を受けたかったなどと思ったが、自分さえその気になれば、モリー先生は自分の周りに何人も見つかるだろうと気付いた。モリー先生自身が自分の病からさえ大切なことを学んだ様に。

自分の体がしんどい時に冗談を言ったりまわりの人を気遣ったり、到底自分には出来ないなぁと色々考えさせられました。内容もお芝居も素晴らしくとても良かったです。
  何と言っても息子の加藤義宗さんがピアノを弾けるイケメンだったことがすごく“オトク”でした。

モリー先生のひとことひとことにじっくり聞きいる。すばらしい舞台でした。多忙の中で見失ったいることをたくさん問いかけられた思いがします。「本当にきみは生きているのか?」…「愛なくば死せよ」「どう死ぬのかを学べばどう生きるのかは自ずと見えてくる」など、大切なことばをもらいました。不治の病の淵でもユーモアを忘れないモリー先生のように生きたいと思いました。

以前、ALSの患者さんの会に参加させてもらったことがある。罹患すると全身の筋力が低下し、進行も速く、最後は呼吸ができなくなり死にいたる難病である。モリー先生はその病気を受け入れ、いつも前向きだった。もし自分が同じ病気だったとしたら、同じように前向きになれるのだろうか。
  モリー先生は病気に向き合い、死とは何か、人生の意味、人として何が大切なのかをたった一人の生徒、ミッチに講義する。その講義は、いつも前向きで温かく、時にユーモアを交えての楽しいものだった。そして、その中の言葉はどれも素晴らしかった。地位や名声、お金も欲しい、そんな人間だったミッチは、講義を聴き少しずつ変わっていった。遠路をいとわず毎週火曜の講義に欠かさず通ったミッチも素晴らしかった。
  最後に、人として正しく生きることの大切さを教えてくれたモリー先生を、ミッチと同じ生徒となって観客席から安らかな気持ちで見送ることができた。
  温かいものが残るとてもいい作品だった。

重い題材だったので、涙が流れそうな場面があったりもしましたが、全体的には、爽やかな印象が残る劇でした。
  しかし、二人のセリフの長いこと…、特にナレーションも一緒にこなすミッチ役の息子さんは凄かったですね。あれだけのセリフを暗記するのって…。ため息をついてしまいました。しかもピアノまで弾きこなす。天は二物をお与えになるのですね。また、終演後、息子さんはピアノを弾きながら、加藤健一さんは握手をしながらロビーで見送りまでしてくださり、余韻に浸りながら帰路に着きました。また、加藤健一さんの演技の素晴らしさ、モリー先生がそこにいるかのような錯覚にとらわれてしまいました。本当に素晴らしい劇でした。
  そのおかげかモリー先生からのメッセージもしっかりと持ち帰りました。不治の病に侵されて先生との毎週火曜日の二人だけの授業、人生とは…死とは…生きるとは…という普遍的な問いかけに対して再度考えるきっかけをくれた作品ともなりました。
  「いかに死ぬかを考える時、いかに生きるかを考えられる」という言葉がありましたが、私のモットーは「死ぬ時に後悔をするような生き方をしたくない!」に対しても再度、考える時間をくれたように思います。そして、死ぬまでの時間の中で自分の周りにいる人たちが幸せでいてくれることを願うと共に、きちんと言葉に出して、感謝の言葉を伝えていきたいと思いました。
  大勢の方を幸せにできなくても、ご縁があって知り合った方が少しでも「出会えてよかった!」とそう思っていただけるような人でありたいと思うとともに、また、仕事を通じて何か出来ないかを考えていきたいと思います。 

「生涯の師」を持つことができた教え子と、「生涯の弟子」を持つことができた教官の話だったのですが、「あの人間関係を現在の我々の社会にも置き換えたい」と感じさせられました。

簡素なセットの中でも、毎週ミッチが通ってくる火曜日には時間の経過や状況をの変化をうかがわせる配置があって、舞台装置というものに関心がもてた。
  当日、実は舞台の折角の親子(父子)競演を集中力を出せずみていた。私事で大きなイベントを経験した日の例会日で疲れていたので。
  後日、台本を借りて師弟のやりとりをじっくり読ませてもらい場面を思い出しながら納得した。
  モリー先生と同じ病気の友人をみてきた経験もある。ミッチのように最後まで会話はできなかったが…。モリー先生の「大事なことを言いたいんなら、日ごろから言ってなければいけない。ここ一番最後に言おうなんて考えているとタイミングを失してしまう。」同感です。亡夫との急な別れを体験して。

穏やかな舞台だったので少し退屈だった。
  “いかに死ぬべきか”と考えたこともなかったので大きな宿題を出された例会になった。

本当に楽しく、心温まるお芝居をありがとうございました。
  「いかに死ぬべきかを学べば、いかに生きるかも学べる」
  「人に与えることで自分が元気になれるんだよ。」
  一言一言、つい自分のまわりのできごととくらべて、なるほどとうなづいて味わっていました。
  豊かな人生とは……?
  原作の本も読んでみたくなりました。

鳴門例会カーテンコール
鳴門例会カーテンコール写真は劇団の許可を得て鳴門市民劇場Webページ作成委員が撮影しています。

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