■ 国家が起こした戦争が、個々の家庭にどのような悲劇と哀しみを与え続けるのか、根本家の人々を通じて見事に描かれていた。どのような理由があろうとも、おろかな戦争を二度と起こしてはならないと痛切に思った。
■ 昭和18年とは私の生まれた年です。演劇中その年が強調されると、私の胸がうずきました。演者の声が聞きわけられなかったのが残念です。
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今回、鳴門と徳島で観ることができた。以前鳴門で同じ劇を2度観るという体験をしていたので、少し余裕はあった。しかし、2度目もあついものがこみあげてきた。赤紙といわれるものがある日突然きて、家族が戦地に赴かなければいけない心情はいかばかりであったか・・・。
そして、戦意を高揚するために撮られた写真の存在を初めて知った。戦争の最中であっても、子供たちは無邪気に笑い、大人たちはどことなく悲し気な表情をしている。100枚目の写真は撮られたのか、撮られなかったのか・・。1枚の写真の重みを感じさせられる作品だったと思う。
6人の演者がひとり何役もしていて、幅を広げているところはとても良かったと思う。運が良かった、運が悪かった、と何度も出てくるが、その一言では片づけられないなと思った。しかし、過去から現在へと生かされてきた私たちは「運がいい」と言わなければいけないのかもしれない。
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スライドを使った舞台も結構良いなと思った。
ナレーター形式で声もよく聞こえたので、内容もよく分かった。私たちの知らない食糧事情とか悲惨な体験記録を痛感しました。
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戦争を知らない世代が大半の現在、主人や息子を戦地に送り出す心情は、理解できないだろうと思う。一枚の家族の写真を胸に入れて出征する人たちの気持ちも同じだと思う。次々と映し出される映像の向こうに沢山の人々の喜びや悲しみが見え隠れする舞台に胸にぐっとくるものを感じました。
終戦が国民学校1年生の私にとって、毎日が恐怖の連続、とても人の気持ちなど思い遣る余裕はなかったのが実情です。あまり思い出したくない面もありますが、あの苦しい時代を乗り越えたから、今の生活があると思っています。
眼に見えない敵、コロナとの戦いに終始する日々、でも命を的に戦った人々のことを思えば、少しは幸福なのかもしれません。
■ スクリーンに映った家族写真は、1枚1枚にドラマがあり、重みがありました。戦争がなかったら幸せに暮らせていたのに、と思うと胸が締め付けられました。「平和のありがたさ」と「命の大切さ」を改めて感じました。
■ 出征軍人の家族たちの辛さ苦しみ、そして南方戦線で悲惨な戦死を遂げた兵隊さんたちの話は何度聞いても心が痛む。辟易する思いもあるが、やはり時々はこのような話を思い起こすことが現代の我々の勤めであろう。
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百 百まであと1枚。撮られていた写真の
枚 枚数はなんと99枚!
め めいめいの家族が、めいめいの場所で、めいめいの服装をして写っている。
の のんびりとした昭和18年の東京の下町とそこに暮らす人々の何気ない一瞬。しかし、そこには夫もいなければ、成人した大切な息子もいない。
写 写された写真は戦地にいるその夫や息子に送られるとのこと。その夫や息子は招集されて今は兵士、、、
真 真実、彼らの元に届いた写真もあれば、届かなかった写真もあるとか、、、
兵士にとっても家族にとっても、それぞれに掛け替えのない一枚の写真。
シャッターを押されたあの日、あの前後の時にも普段と変わらぬ日常があった・・
昭和49年春より、ルポライター児玉がつかんだあの写真が写されたあの時代の家族の真実。
辛いものや辛いことの方が多かったが、あの時の人々にも、夢や希望や笑顔があったんだと知り、少し心が救われた。
■ 8歳で終戦を迎え、父も出征し叔父も戦死した時代を生きた人間として、身につまされる劇でした。写真や物語に同感、そうそうそうだったという思いが込みあがり涙しました。無駄で馬鹿げた戦争など二度と味わいたくありません。
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父親が招集されて兵隊として行っていたので興味があった。たった一銭五厘のハガキによって運命が変わった人が沢山いた戦争!私の父は帰ってきたけれど、戦争は嫌だと切に思う。
人の命の大切さをしみじみと思わされた。
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一枚一枚の写真が紹介されていく中で、百枚目の写真はどんなのかな、と話の展開を楽しみに観ました。
皆さん熱演されていましたが、根本タケノの大西多摩恵さんの演技、色々の年代を演じられて素晴らしかったです。見惚れました。
そして、戦争はいりません。
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7月から入会した会員さん。今回、舞台の真ん前、かぶりつきの席でした。役者さんの表情がよく見え、最初から我慢していた涙が最期は…!と感激されていました。
もう、こんな良い席はないのでしょうね!の言葉に、新入会員を迎えたら、一緒に前の席で見ることが出来ますよ!とフォローしておきました。
主役の熱演が光りました♪
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幕開けから静かに物語が始まりました。映像で写真が流れてきます。バックには雲の流れが形を変えて映し出されてきます。映像の写真は、女性の着物姿の多いこと。今の流れではないことが、戦前・戦中をいやおうなしに連想させます。戦地の家族に送られる写真に託すものは、残された家族の元気な姿。こうしてみると届く人はうれしくとも、残された家族の不安感は隠せないと思います。
この序章だけでも戦争の悲惨さを十分に感じることが出来ます。お芝居も最終章に進むと家族の戦死の報告が来ますが、息子を亡くした母親の悲しみは怒涛の如く流れ出ます。すごい演技です。胸を打つシーンに言葉もありません。平和がいかに尊いものか、そして今の平和も戦争に行った人によって守られたものと思います。感慨深いお芝居でした。
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私たちは第二次世界大戦後の世代です。戦争についての話は、聞く機会また読む機会、そして映画などを見る機会も多くありました。でも、このお芝居の中で、政府の援助で写真を戦地に送るということは全く知りませんでした。
私は、この写真の向こうに見えるのは、届けられた兵隊さんの笑顔であり家族の無事を確認できた喜びと思います。一方通行ゆえに、軍隊に行った家族の安否が見えないことの不安さが、残された家族に大きくのしかかっていると思います。その中でも、戦死した家族の悲しみはどんなに大きいことでしょう。この戦争を通じて、戦死された人の数だけ、悲しみがあると思います。
100枚目の写真は送ることのできないものと思います。戦争の無い世の中を私たちは造る努力をせねばならないと思います。
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昭和18年に私の父も召集された。私が生まれて100日後のことであった。舞台の時と同じくして、私の父も海軍兵として満州に行き、飛行機の下じきになり重傷のまま帰され、病院で亡くなった。私には父の記憶がほとんどない。実家には、出征する時に写した写真があるのみである。30代前半の若い父の姿である。もちろん、家族写真などはない。母や姉から、父の事を少しは聞いているが、実感がない。生まれて100日しかたたない私をおいて出征した時の父の気持ちを考えたとき、舞台の家族たちの気持ちと重なって、涙が出てきた。
戦後75年、今でも世界のどこかで戦争が起こっている。どうして、人間同士が闘いをするのであろうか。一日も早く、世界中で戦争が無くなり平和になることを強く思った。
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感染拡大防止対策をとっての例会も3度目となり、スムーズに入場、観劇ができていました。
担当サークルということもありホッとしました。
さて、劇のことですが、出征兵士や、された家族の思いが、熱演から、しみじみ伝わってきました。百枚めの写真を撮らなくてすむ、平和な時代でありたいという気持ちも伝わってきました。
■ 99枚撮っている写真があり、その一枚一枚に各々ドラマがあり、感動あり、百枚めとはどう云う事だろうと不思議な思いで観ていたところ、最後のシーンが100枚目の写真!ああ、こう言う事だったのかと、まさに目から鱗が落ちる思いで大感動、本当にこうあってほしかったとの希望の100枚めの写真、とっても良かったです。
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最近読んだエッセイの中で「メメント・モリ(Mement Mori)」という言葉の意味を知った。「死を忘れるな、我々の傍らには必ず死がよりそっている」という意味のラテン語だそうだ。「百枚めの写真」は出征兵士を元気づけるために撮られた99枚の写真の中のある家族の物語。米軍の空爆で娘が死に、出征した息子は南の島でマラリアに罹り帰らぬ人に。戦時中は誰でも傍らに死があった。そして、突然やってきた。そんな普通ではない悲しい現実があったことをあらためて知らされた。
私の父は大正15年生まれ、終戦当時は19歳。一銭五厘の赤紙を待たずに旧制中学卒業と同時に志願兵になり、予科練に入隊した。父から戦争の話を聞いたことは殆どないが、予科練時代に「赤とんぼ」で練習したと言っていたことを思い出した。調べると正式には「川西九三式中間練習機」といい橙色に塗られていたことから「赤とんぼ」と呼ばれていたそうだ。予科練生は「赤とんぼ」で練習し、その後神風特攻隊となり、命を亡くした人も多いと聞く。もし戦争が長引いていたら、私自身この世に生を受けることができなかったと考えると、普通に生きていることが奇跡なのかもしれない。
このコロナ禍で、感染の恐怖から様々な活動に制約が入り、不安定な時代となった。その結果、感染死だけでなく、自殺者も多くなった。
「メメント・モリ(Mement Mori)」と対になるラテン語に「カルペ・ディエム(Carpe Diem)」という言葉があり、「死を思い、だからこそこの日をつかめ、今この時を楽しめ」という意味だそうだ。コロナ禍で「今を楽しむ」ことは難しいが、日常の何気ない普通のことにも感謝(感動)して生きて行けば、「今を楽しむ」ことができるのではと思った。「百枚めの写真」は色々なことを考えさせてくれた素晴らしい劇だった。
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受ける災いからのダメージの大きさや悲しみの深さと、その後それを癒すため、そして個が集団がなにかしら復活・再起していくために必要な“時間”について考えることが、最近、よくある。劇中も登場した原作者の児玉氏が被写体の家族を訪ね歩いたのは昭和49年。実は、舞台の最初の場面の根本家の人たちの様子も、劇中時折流れる「写真に写った人たちの児玉氏への受け答えの声」も、とてもカラッとしていて明るく、少し想定外の違和感を感じたほどだった。でも「30年の月日」だ。30年という“時間”が人々に立ち直って生きていくには多分良い意味で必要な諦観と癒しを与えてくれたのだろう(実際、自分も昭和49年には中学生だったけど、身近で戦争の傷跡や負の影響を見聞きすることはなくてもはや「戦後」の様相は無かったので当然か…。“根本家”のようなひとたちはそばにいたとは思うけれど…)。
しかしもう一度翻り。人は強く、必ず、時間の力も借りて立ち直ることができる(ことが多い)けれども、だからといって受けた傷は無にはならないし災いをなかったことにはできない。ましてや戦争。災いというより歴史上の過ちだ。だから、知らない者たちは、知って、感じて、未来の何かに繋げる義務があると思っている。そういう意味で、児玉隆也氏の仕事、そしてそれを取り上げてこんな劇にしてくれたトム・プロジェクトの仕事に拍手を送り感謝したい。
写真って…特にモノクロ写真って、いいですね。
物言わぬ写真、そしてそこに添えられた妙に元気で明るいナレーションでしたが、なぜだか、そのすべてに、逆に、胸が一杯になって涙が溢れました。
■ 祖父が戦死なので、あの時代の祖父や祖母を思い浮かべながら観ていました。父は当時幼稚園児で、父親の戦死の報を受け、遺骨を取りに行き中を覗いたらサイパンの石というのが入っていたそうです。だから劇中、戦友が遺骨を小指の骨だけでも持って帰ってもらえてどんなに幸運だったか!そういう人はきっと少ないだろうなと思ってしまった。でも、一番良いのは戦争が無いことだと思う。我が家にサイパンの石に遺影、小さな勲章があるけど、それよりも、生きていたらどんな声で話していたのだろう?と色々考えてみる時がある。
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この物語を見ながらなぜかしら「戦場のピアニスト」を思い起こしていました。内容とか構成とかは全く異なりますが、どの地においても戦争が人々にもたらす悲しみは変わらない。
この物語での根本家の父、あらゆる事を自分が盾となり受け止め娘や息子の死ですら、取り乱さず悲しみを押し殺していた。今はほとんどの人に戦争体験が無く、ニュースなどで観て、知って、想像して、そして観劇とか映画で少し実感してということですよね。素晴らしい題材だったと思います。
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戦争を題材としての今回の演劇を観て、戦争は市井の人々のささやかな幸せを、容赦なく、そして無残にも引き裂くものであると、改めて思い知らされました。今回の時代設定で、この劇で演じた方々の当時の年齢を考え合わせると、私の母と祖母の戦争体験と重なり合う記憶が蘇ってきて、涙無くしては観ることが出来ませんでした。私の母の父親(私にとって祖父にあたる)は、赤紙一枚きりで戦地に赴き、そして帰らぬ人となりました。そして、私の母親の弟(私の叔父にあたる)は、その母親(私の祖母にあたる)のお腹の中にいて、劇中と同じく父親の顔を拝むことなくこの世に生まれました。その心中を察するに、とてもじゃないですが、私には想像もつきません。表面上は「お国の為」との偽りの言葉を発しても、本音としては「何故死ななければならないのか?」との思いで胸がはち切れそうな思いだったに違いないとしか想像出来そうにありません。したがって、今回の登場人物の各々の立場を、私の母方の戦争体験と酷似していると思い至った次第です。
かように、戦争とは、無残にも人と人を有無も言わさず引き離し、自国並びに対戦国の双方にとっても、各々の国の市井の人々にとっても、なんら益をもたらすものではなく、悲しみだけを生み出すものであると思いました。私は、戦争体験の無い世代ではありますが、劇中でも表現されていた悲しみは、決して二度と招いてはならぬものとのメッセージとして受け止めて、今後も歩んでゆきたいと思いました。
ところで、今回の写真集を眺めていて、その白黒(モノクロ)写真には、私自身の幼き頃の想い出が蘇ってきた感じを抱きました。今回の劇で背景として映し出された各々の写真を観るにつれ、その質感や人物が写っている背景の情景が、私の幼き頃の写真ととても良く似ていて、懐かしさと新たな感動を呼び起こしてくれました。手元にある古びたアルバムを捲ると、その頃の情景が脳裏に浮かびあがってきて、なんとも言えない心持ちになり、その意味でも今回の観劇は私にとって格別なものとなりました。この紙面を借りて、劇団の方々、並びに市民劇場の関係者の皆様にお礼申し上げます。どうもありがとございました。
■ 戦中の家族の写真、舞台に映し出されることで、お芝居の内容、気持ちがすごく心に染みました。残された人の想いが…出征した人の想いが…やっぱり戦争反対!!
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私は戦後小学校に入学。自分、知人の家族に「一銭五厘の赤紙(召集令状)」で戦場に行った人がいないので、具体的なことは知らない。出征軍人を元気づけるため(東京の下町)留守家族宅を訪問し、家族全員を一枚の写真に残し、戦地に送っていた。その後、敗戦とない、渡せていない氏名不詳の写真(99枚)を持って、昭和49年まで留守家族宅を探していたとのこと(田舎の方でも行っていたのかと?)
舞台のバックに留守家族の大きな写真が次々と…美しい色の大空の雲。最近テレビ新聞でのコロナウイルスマスクでの生活を一瞬忘れるような気持になりました。(戦争の芝居と言えば、悲しい暗いことばかりと思っていましたが…。)
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私は戦後に育ちました。様々な人の生活、生き様を写真を通して考えさせられました。戦争を知っている人が少なくなっている現在、今若い世代が戦争の悲劇をどうとらえているか、幸福とはどういうことかを知ってほしいと願いました!貧しい時代を生きてきた私達も今、幸福にどっぷりつかっています。
戦争は起きてはならないことだけど、現在でも外国では食べる事さえままならぬ事態が起きています。悲惨な生活をされている人が何万人もいます。演劇を通して、戦争とは築いてきた幸福を奪い取ること、先日テレビで軍隊に入っている若者が出てきてお金のために生活のために、戦っていることを知りました。早く幸福をつかみ、元の生活になることを願わずにはいられません。
■ 写真に写っている人を訪ねて人々の生活を記事にするのかと思いきや、家族の生活を知っていく、生きている家族の中の悲しみを描く身につまされた場面も多々ありました。本当は戦争に行きたくないのに行かねばならぬ本人の悲しみをリアルに演じておりました。戦争を知らない人が多い世の中、二度と起きてはならぬ戦争、考えさせられる芝居でした。今の幸福を壊してはならないと切実に願います。
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戦争は、これまでの生活を壊し、言い尽くせない悲しみや苦しみを人々にもたらす。しかし、その体験は、その真っただ中にいる時、20年が経過した時、そして、現在と形を変えていく事になる。現在を生きる私には戦時中の日本人の考え方や行動はとても違和感を覚えるが、当時を生きた人にとってはそれが普通の事であった。
戦争体験をした人が、ほとんどなくなってきた今こそ、この劇から戦争のもたらす様々さ理不尽なことなどを思い起こし、平和の大切さを実感させられるお芝居でした。
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今回の「百枚目の写真」を見て自分が小学生の頃、祖父が今回の内容とリンクするような戦争の話をしてくれた事を思い出しました。祖父は次男ですが、長男は戦死したそうです。祖父が戦争から帰ってくると、「いる者が帰ってこんと、いらん者が帰ってきた。」と母親から言われたと聞きました。残された家族には、色んな思いがあったのだと推測しますが、今こんな事を言うと大変です。誰が悪いという事ではないですが、当時は家督相続なのでこんな感じになるのでしょうか。
また毎年お盆のころ当時、城山にあった護国神社へ祖母に連れられ参拝していたことも思い出しました。当時はあまりわからなかったのですが、祖父の兄が戦死し祀られているので参拝していたのだと思います。数年前に祖父・祖母とも亡くなったので今参拝している家族はいないと思い、護国神社へ参拝に行き、靖国神社の秋季例大祭に玉串料を奉納する事が出来ました。
今回の観劇から良いきっかけを頂けてよかったです。
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しばらく例会に参加できてなくて、久しぶりの例会でした。
戦争で亡くなり、生活が一変してしまった人たち一人一人にそれぞれの生活があったことが伝わり、とても良かったです。
やっぱり生の舞台はいいな、と思いました。
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観劇後、家で遅い夕食を食べているとき、何気なくつけたTV(NHK BS)「夏の雲は忘れない」の今年長崎で公演された模様の放送があった。父からは、戦争に行った話や祖母からは長崎原爆の話をよく聞いていた(実家も長崎なので)。今更ながら、父が戦争から無事に帰ってこれたのも、原爆の影響か、長崎の山に遮られ、諫早にまで来なかったのも奇跡なのでは?
平和のありがたさを感じる一日だった。
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戦争を体験していないけど、戦地で戦う人もその人の無事を祈る家族も悲惨で哀しい。
平和で平凡な日常を写す写真って、本当に好きです。まさにその瞬間(思い)を写しだしていますから。