劇団東演公演「マクベス」鳴門例会(2021年11月8日)で“マクベス”役をされる能登剛さんを開演前の楽屋に訪ね鳴門市民劇場がインタビューしました。
鳴門市民劇場(以下鳴門と略) ユーゴザパト劇場の俳優との共演や、オレグ・レウシンさんの演技指導において、日本とロシアの違いで困ったことやハプニングがなどあれば教えて下さい。
能登剛(敬称略 以下能登と略) 私が入団したのは1993年なのですが、ちょうどその年に『ロミオとジュリエット』という作品でユーゴザパト劇場と共同作業を始めました。私としては入団したすぐその時からロシアの演劇を創る稽古場を見て、役者としても一つ一つ歩いてきたものですから、個人的には大きな違和感というものはなく、彼らはこうやって芝居を創るのだという意識で共演することができました。
鳴門 言葉の壁があると思うのですが)
能登
勿論、ロシア語は十分には理解できませんので、通訳、台本の翻訳もしているコーディネーターの佐藤史郎さんが稽古場を仕切ってくれています。
もう何年もロシア語に親しんでいると、稽古場で出される”ゆっくりと”とか”もっと早く”とか、”もっとはっきり”とか、”もっと感情をこめて”とかそういう言葉は覚えますので、通訳を待たずにこうしなきゃと思うようになりました。
エピソードとしては、ロシアの役者は演出家と意見を戦わすことを全然恥ずかしいこととか思わずに、自分がこの場面はこうしたらよいと思えば、自分の場面でなくても他の役者の場面でも稽古中に意見を発言するのです。それで、演出家はそれを無視するのではなく、「じゃあ、やってみろ」と言って、やらせてみて、それで自分の演出と比べて、「やっぱり俺の方でいく」とか、あるいは、「それをちょっと使ってみる」とか、そこは日本人だけの稽古場とは、もしかしたらちょっと違う空気があるかもしれません。延々と彼とその討論をしているのを私たちは見ているということもありました。
鳴門 魔女の言葉に翻弄されていくマクベスですが、マクベスを演じるうえで気をつけられたり、工夫したり困ったことがありましたか
能登 魔女って会ったことはないけれど、芝居の中ではそれがいることを前提に話が進行していく。お客様はそれを見て、ああなるほどと思うのか、何やってんだと醒めてしまうのか、お客様の気持ちが舞台に吸い込まれていくのか、今離れていくのか。もちろん吸い込まれていくようなことにならなければいけないし、それが真実で本当に今魔女と対面している、その場がここにあると思い、興味をもって観ていただけるようなその空気を作り出さなければいけないということが一番難しいことです。同じ芝居を毎日毎日繰り返し演るので、一度できたらそれで終わりということではないのです。時々言われるのが、「昨日やったような芝居をするな」と。「今、初めてここで事件が起きたのだという、そういう体でいないと、役者としては進歩していかない」と。それが大変であり、目指しているところです。
鳴門 シェイクスピア作品を何度か演じられていますが、その楽しさ、難しさについて教えてください。
能登
非常に幅が広い、何の幅が広いかというと、お客さんによってどう観えてくるかという幅がいろいろあります。それぞれのお客様の、それまでの人生の経験とか、ぶつかったこと、問題になったこと、困難に会ったことによって、その方の生活の中で、こだわっていることに対しての気持ちの向き方も変わっていく。芝居を観ていると、今、目の前の舞台上で何かが行われている、その人物がどう動いていくかをお客様は想像します。絵にしても書にしても一つの作品を前にしてそれをどうとらえても自由といえば自由なんですよ。その人が【どうとらえるか】というのが面白いことであって、なぞなぞのように「これが答えです」というものはないと思うのです。その幅を作り出せる、その要素がその余裕がシェイクスピア劇は非常に大きいのではないかと思うのです。他の芝居ではこれはこうなって、この物語はこう事件が起きて、こういう感情がおきてこうなって場面的にはハッピーエンドみたいな、もう道筋がほぼ出来上がってしまっています。勿論、いい作品は幅が広いわけですけど。そういう意味で、シェイクスピア劇は役者としてもやりようがいろいろあると思いますし、受け手の側もいろいろに解釈できる、そこが面白いところだと思いますし、大変なところでもあります。
マクベスは悪人というふうに見えると思うのですが、決めつけてしまうのは簡単なのですが、100%の黒かというとそうではないはずです。舞台幕開きの時マクベスは、とても皆から称賛されて、いい仕事をして、しかも心の有り様もいい人間だったはずです。その人間が白に近いグレーから、どんどんどんどん黒に近いグレーに変わっていくという、その加減というのが10%刻みとかではなく、1%刻みあるいは0.1%刻み、そのグラデーションがマクベスの面白さではないかと思います。
鳴門 ベリャコーヴィッチさんの「マクベス」をやる前に能登さんが持っていた「マクベス」の印象とは同じなのか違いがあるのか
能登 恥ずかしいことに、それまで「マクベス」を観たことがありませんでした。「マクベス」を演るとわかったときに、中国の劇団のマクベスを中国広州で観た経験があるのですが、その時の「マクベス」や出版されている戯曲の中の「マクベス」と比べると、ベリャコーヴィッチが翻案した上演台本の中で生きている「マクベス」の印象は、はるかに人間的でした。以前は読み方が浅かったということもあるのですが、どちらかというと黒に近いグレーばっかりが頭に入ってきて、この人間は面白くないという思いすら持っていたんです。それがベリャコーヴィッチの「マクベス」を実際に観て、自分とは全然違う世界の生き様ではあるんですけど。じゃあ、自分の中にそういうものが全然ないのかといったら、やっぱり、黒に行くか白に行くかという細かなことでも迷いながら生きているわけで、それで「マクベス」を、演じる対象として魅力が感じられるようになりました。それがつまりベリャコーヴィッチのマクベスがよりお客さんに訴えやすい、理解されやすい秘密なのかなと。
鳴門 2013年にハムレットで鳴門に来られているんですが、鳴門または四国の印象をお聞かせください。
能登 その時時間があり、実際に船に乗って鳴門の渦潮を拝見し、想像以上に素晴らしかったです。何か地球が生きているって、こんな中で人間は生きているのだなと感動しました。見られてよかったです。鳴門の渦潮を最初に知ったのは、サザエさんのエンディングで、カモメに餌をやるとか……でも実際はそんな軽いノリの観光では決してなくて、例えば桜島の噴火とか、いろいろな地球のうごめきを体験できるタイプの観光で、鳴門の渦潮は本当に不思議で、私達は地球に生かされているんだなぁって感じたのを覚えています。
鳴門 この世界の入られたきっかけを教えてください。
能登 ひとつはDNAの中に紛れ込んでいたのではないかと思うのです。母方の祖父が材木商をやっていたのです。近くの慶應義塾大学演劇部の芝居が好きで入れ込んでいたようで、大道具で必要な材木を随分助けていたみたいです。その縁で「おやっさんもちょっと舞台に立ってみるか?」ということで、通行人をやっていたみたいです。その祖父の血が濃かったせいか、私は子供のころから何か表現するというのが好きで、最初は歌であったり、保育園のダンスとかいろいろあったのですが、小学校一年で書道を習い、書いたものを見てもらえるというのが嬉しかったのです。小学校五年のときに、舞台ではないですけど、加藤剛さんの「風と雲と虹と」という大河ドラマを見て、そこで描かれていた平将門像がすごく恰好よかったのです。庶民の味方の頭領というか統治者になっていく人なのだと思い、それを演じていた加藤剛さんの仕事の方に興味を持ちました。芝居をやりたいと思いだしたのはその頃で、ただ中学校にあがるころには芝居ではなく普通の道がよいのかなと思いだしました。でも高校から大学に行く時に、将来どういう道に進むのかと考えますよね。本当に全然知らなかったのですが、高校の卒業名簿を眺めていたらそこに加藤剛さんがいらして、野村万作さんという今の先代の野村万作さんもOBで、自分がここからそっちの道へ進むということもあるのだとわかり、ではやろうという感じでした。父は職工さんで本当は上の学校に行きたかったけど中学校中退で仕事一筋だったので、子供には大学に行かせたいと私は小さいときから聞かされていたこともあり、一応大学も出て、そのうえで芝居をすることにしました。
鳴門 2023年に「獅子の見た夢」の四国公演がほぼ決定しました。この作品について現時点でお話しできる情報があれば教えてください。
能登
東京での初演時は、客席数70人くらいの小さな東演のアトリエだったので、今度は大劇場でどうつくるかということがこれからの仕事です。小さな劇場で普通に話している中で芝居をしてもお客さんは同感できる。大きな舞台でそれをすると、お客さんを置いてきぼりにしてしまうのでそれはつまらない。みなさんには「マクベス」を見て2年後ですから、マクベスとは全然違う世界になってきます。
「ハムレット」の時にハムレットを演っていた南保大樹が「獅子の見た夢」の劇中劇では主役です。第二次世界大戦の頃の話で、その当時の日本の名優といわれた松山出身の丸山定夫さんという方を彼が演ります。それも素晴らしいですし、最後、彼が獅子を舞うところが見どころです。三好十郎という劇作家をご存じだと思いますが、彼が書いた「獅子」という芝居を、私たち「桜隊」のメンバーが演っています。
私は、演出家の役をやります。演出家が八田元夫というのですが、彼は桜隊と一緒に同行しなかったのです。それまではいろんな所に一緒に廻っていたのですが、たまたま広島滞在中に東京に用事があって生き残り、彼が戦後作ったのが劇団東演なのです。劇団東演のルーツになるようなそういう作品です。戦後に新たな新劇運動が広がっていった中で、東演も一生懸命やってきたのですが、そもそも戦時中は慰問団での芝居が本当の思いを伝える芝居を許されなかった。そんな時代に、桜隊の方たちはこういう芝居を作りたいって作り、広島で犠牲になりました。その生き様を描いた芝居です。その意思を受け継いだような劇団として、いま私たちは仕事していますので、是非この芝居は観て欲しいです。
鳴門 地方公演中でもジム通いをされていると伺いました。地方でのジム探しはどうしているのですか
能登 今朝は5時半に起きて、2時間程汗を流し、朝ごはんを食べ、あわてて着替えて慌ててここに来ました。今はすごく便利になって、エニタイムフィットネスという系列店は、24時間営業でICチップの付いたキーを一人一人会員が持っていて日本全国、世界中自由に行けます。日本国中旅している私にとってはうってつけの場所です。以前はそんなになかったのですが、今は行くとこ行くとこ7割か8割方あるので助かります。1時間以上はストレッチで固くなった体をほぐして、舞台上で暴れまわってもケガをしないようにします。その後、30分ほど筋力トレーニングをし、あとランニングをして心拍数を150まであげて、舞台上でもそれぐらいまでいくので、いつでもいけるような体にしています。「マクベス」だからという訳でなく、「ハムレット」で巡演しているころからボチボチ始めました。
鳴門 旅公演の楽しみは?
能登
そもそも私が芝居をやりたいと思ったのが、旅公演で日本全国を廻りたいということです。家が職人の父親で固い家だったので、外を見たいという思いが強かったのです。子供の頃、役者の方たちの旅公演での話を聞くと、「ああいいなあ、そういう仕事もあるんだな」みたいな思いがあって、高校になって一人旅を始めたりしました。この世界に入るときも、まず最初に受けたのが俳優座でしたが落ち、文学座の研究所でひっかかりましたが、その上に行くときまた落ちて、でも旅のできる劇団に入りたいと思いましたが、文化座さんで落ち、やっと辿り着いたのが東演で、入って幸いにも1年目から九州に行ったり中国地方も廻ったのです。文化庁の移動演劇というので、普段演鑑さんの廻らないような所にちょこちょこと行っていたのが初めての旅です。ですので、旅は大好きです。
そして、あちこちこうして、こういう仕事をしていなければお会いすることもなかった人たちとお会いして、その縁が膨らんでいくこともありますし。自分の知らない世界を知る、知らない感情、いろんな気持ちを分けていただいて、ひとつひとつ自分が大きくなれるようなそういうのが楽しいですし、嬉しいです。
鳴門 演劇鑑賞会にメッセージをお願いします。
能登 生前ベリャコーヴィッチが我々と一緒に鑑賞会の旅を廻るのが好きで、あちこちの例会を廻っっていて、彼が言っていたのが「ロシアは役者も演出家も劇場もいいし、素晴らしい演劇のレベルを持っている自慢できる国だ。だけど、一つないものがある。日本の鑑賞会のような組織がない。日本は世界に誇れる演劇文化を支えている大勢の人が日本中にいる。これを本当に誇りに思ってほしい。そしてさらにそれを大きくしていって欲しい」ということをおっしゃっていたのです。 私も本当に役者として成長するためには舞台を踏まなければどうにもならなくて、どんなに稽古しても100回稽古しても50回の本番にはきっとかなわない。そして、「マクベス」150回できることになったのですが、おかげで初演の時には全然分からなかったこと、十分に理解できなかったところが、少しずつなのですが理解できるようになり、より多くのお客さんに楽しんでいただけるようになりました。これは鑑賞会あってのことです。日本で活躍されている多くの役者さんの中にも、きっとこの例会の旅を廻って大きくなった方もいらっしゃると思います。だから、皆さんは日本の演劇を支えているのです。これは素晴らしいことのひとつです。もうひとつは、皆さんご自身、生きていて日々の生活の中で、大変なことや疲れることや滅入ることがあると思うのですが、劇場で同じ空気を感じながら、一つの作品を観ていくと、普段消費しているだけのエネルギーを逆に吸収できる、そういう場がここにはあるのではないかと思うのです。そして、そんな場を知らない人がまだいっぱいいて、もちろんみんながみんな振り向いてくれる訳ではないと思うのですが、声を掛けたら中には、「エッそんなのがあるの」って、それで行って芝居を観たら、「ああよかった 誘ってくれてよかった」という声を何度も耳にしています。それを信じてこれからも一緒に、日本の演劇をロシアに負けないように素晴らしい