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マクベス

劇団東演公演

鳴門市民劇場9月例会
 2021年11月8日(月) 感想集


鳴門例会カーテンコール


・4枚の扉
 人間の2倍以上の高さの“城門”を思わせる大きな扉4枚だけの舞台。でも、その扉が実によく、くるくると回転し、兵士のキビキビとした動きとマッチして、戦場を想起させたり、場面転換に使われたり・・・
・背中での演技
 魔女達の後頭部にお面(マスク)をつけての演技が実に斬新で“異様な魔物”の動きを表現していたように思う。それに加え、背中(背面=裏側)での演技が人間の心の裏側(本心?)をあぶり出していくのにとても効果的だと思った。
・実にシンプルな舞台設定ではあるが、観る者の想像力を誘発してくれる、実に楽しい「マクベス」であった。
・ひとつ付け加えると、私の妻は視覚障碍者であります。つまり、音だけを頼りに観劇する者にとっては、マイクなしの肉声は迫力あるものの、語尾が聞き取りづらかったり、セリフによっては、聞き取れなかったりしたので解りにくかった・・とのことでした。

楽しみにしていたベリャコーヴィッチ最後の演出作品「マクベス」を観ました。今回は例会担当でもあったので、前から3列目の間近で観ることが出来ました。役者さんの表情やしぐさの細かな所までよく分かり、特にマクベスを熱演した能登剛さんの上半身に流れ落ちる汗まで観察することができ、感動ものでした。役者さんの迫力、覚悟、熱、真剣さが伝ってきて、瞬きするのも忘れるくらい2時間半終始見入ってしまいました。
 大胆で斬新でちょっと不気味な魔女の演出と度肝を抜かれる幕開き。スピーディーで息もつかせぬ展開と音と光を使ったダイナミックで躍動感あふれる舞台。本当に素晴らしかったです。

シェイクスピアの作品は一般的に内容が解りにくいところがある。それを補うダイナミックな音楽と演出に助けられ退屈しなかった。素晴らしい舞台だったと思う。

2時間25分の上演時間が短く感じられました。どこをとっても密度の濃い気の抜けない場面の連続でした。まず、魔女の登場です。仮面を被り背中で演技、ロシアの役者さんによるロシア語の台詞、怪しげな舞台装置と音楽など最初から心を奪われました。一人一人の役者さんから発せられる迫力ある台詞、演技の確かさが『マクベス』を素晴らしい作品に仕上げていると思います。
 中でもマクベス夫人を演じた女優さんの演技力に魅せられました。今回は前から3列目での観劇で迫力満点でした。

V・ベリャコーヴィッチさんの素晴らしい演出に圧倒されました。若くして亡くなられた事は残念ですが、劇団東演の皆様がしっかり受け継がれていくと思います。幕開けからマクベスの世界に一気に引き込まれました。魔女の肉体美、音楽も素晴らしかったです。

舞台構成にびっくりした。役者さんの群が回転ドアの動きに物語の流れにつながっていて、有名なシェークスピアの劇だが、衣装も独創的で魔女達の体格のいいのは、ロシア組の役者さんの為か。ワレーリイ・ベリャコーヴィッチの最後の演出作品とか。 観劇も高齢になって、セリフの声の大きさはよく判るが、内容把握がついていかない。9列目でみたが、舞台上で横たわる場面は見づらかった。観劇時間も長くて疲れた。

マクベス、演出、美術、動きに圧倒された感じです。 日本ものにない、目まぐるしさにも吸い込まれました。有名なお話だったので、見られてよかったです。

3人の魔女が登場する冒頭―4人の魔女が背中で語る⁇そこから驚きのステージが始まる。「マクベスはゴーダの領主になる。」一層異様な雰囲気が増すかのようにロシア語でしゃべる魔女とそれを通訳するかのように日本語のセリフがクロスしていく。魔女の腕で指先で、肩甲骨の動きが妖艶にさえ感じた。その後も要所要所に出てくる魔女の動きを楽しみにすらしてしまった。べリャコーヴィッチの魔法にかかったのか。 そして冒頭のマクベスの表情は、戦闘から帰ってきたばかりなのに優しいとさえ感じる表情をしいる。でも、魔女に会い、奥さんにお尻を叩かれ、どんどん表情が険しくなり、独裁者の顔になっていく。ただ、独裁者というものはいつも追われる恐怖も付き物で、不安な表情が恐ろしい顔つきにさえ見えた。台詞が声が体から発する熱が、マクベスの一挙手一投足にまたも私は魔法にかかる。 また、出てくる出てくるキャストの台詞のメリハリ、テンポ、全員で音楽にのった動き。小さなホールならではの迫力に圧倒される。あの異様に肩が上下にゆらゆらする動きには魅力すら感じてしまい、最後にはソロでその動きをして「陛下~バーナムの森が・・・」がやってきて、目に耳に焼き付いてしまった。マクベスは魔女から予言されていた、バーナムの森がダンシネンにやってくるまでは、やられないと。マクベスが破滅の道へと。そのマクベスにはもう彼しか味方がいない。彼の異様な声色に魔法はピークに。マクベス!!覚悟しなさい!なのか、マクベスを同情してしまっているのか、私はどっちなんだ!と自問自答する。
 そして、ラストのカーテンコールに、舞台に次々登場するキャストとポンポンを振ったり、拍手をしたりする客席が一体となる。音楽にのって絶好調になる。これこそが、ベリャコーヴィッチの魔法だ!!

日本人では創り出せない演出に圧倒された。開閉するドアの動き、一秒でも狂った動きをすると一瞬の死を表現することができない。少しでも役者の動きが遅ければ場面転換に間に合わない。動きと音楽で馬に乗り大群を引いた兵隊を空想させる。素晴らしいと思った。
 それにしても人間というものは欲にからまれると人を殺し、それを隠そうとまでして頂点を目指したくなるものなのか?形はかわってもそれは現代にも通じるものがあるようにも思われる。
 最後にかっこいいマルコムよ、国民のために今の気持ちを大切に王として国を治めて欲しいと願い終演の拍手を送った。素晴らしい!

斬新な演出にビックリ!特に魔女の衣装といい、人物表現といい不思議な世界に引き込まれた。舞台装置も単純ながら、あわただしく変化する様は音楽や魔女たちの異様な動きとも相俟って異界を表すのに充分すぎるほどだった。
 一方、人間界はというと、出世欲、地位欲、権力欲が人格者までも殺し、破滅へと向かう。有史以来繰り返されてきた人間の悪徳を余すところなく描き出す。見ていて救いようがない。
 この作品から汲み取るとすれば「今、コロナ禍で分断され、他者への思いを失いつつある世相をどうやって人間らしいものにしていくのか、反面教師として考えさせられた」ということだ。
 ずしりと重たいが、考えなければ。
 それが、シェイクスピアだ。

「マクベス」は有名なので、あらすじなどは知っていましたが劇場で観ることがなかったので、とても楽しみにしていました。舞台上での小道具がなく、音と光、そして大きな扉だけの演出なのに、役者さんたちの動きやセリフの力強さに圧倒されました!薄暗い光の中出てくる魔女が不気味で見入ってしまいました。 筋肉すごい!(笑)

回転ドア4枚だけの舞台ですが、自由自在に場面が変化してスケールの大きな舞台でした。役者さんたちが一人ひとり素晴らしく筋骨たくましくて、日頃鍛えているんだな~と思いました。
 ストーリーは思っていた通り、少し難しかったですが、何とか理解できました。

ストーリーは別として、出演者多勢で壮大豪華な場面に感動し、本当にスペクタクル感を大いに味合わせてくれた作品だった。古典を現代風に創作した心ひかれる場面に対面できて大変よかった。

キャストが24人、迫力あるダイナミックな舞台演出に引き込まれました・。素晴らしかったです。

舞台は少しく暗かったですが、内容的には面白かったとは言えなくて、殺し合いの世の中、大昔から戦争はおきていて今も他国では逃げ惑う人々が大勢います。テレビで写る子供たちの顔をみると心が痛みます。マクベスの中で殺し合いして何を得するかとか、考えさせられる事が多いです。舞台の中での戦争なら見て楽しんで終わったで済むけれど現実に今どうしようもない世の中に少し心が痛みます。戦争のない平和な世の中に早くなって欲しいですね。

ある程度の物語の内容は把握していたのですが、舞台の中で戦争という国盗り物語が始まり、人間の醜さが良く表現されていて結末は思うようにならないという、現代でも言えることではないでしょうか。まっすぐな気持ちで平和な生活を望んでいる人間ばかりだと戦争は起こらないと思います。日本は平和で幸せですね、と、私はそう思います。


・迫力ある芝居に圧倒されました。
・扉4枚を効果的に使用されているのにびっくり。素晴らしかった。
・魔女が後頭部に顔の面をつけていて、面白いな~と思った。

4枚の扉が勢いよく開いたり閉じたりすることで、物語の場面を創り出し、音と光も加わったことで、まるでショーのような舞台だった。衣装も静と動の動きにあわせて柔らかい裾がとても優雅にみえた。マクベス夫人が正気を失ってふわりふわりと扉の近くをすりぬけるのだが、一歩間違えば大惨事になると思うとハラハラドキドキさせられた。
 ストーリーは予習していたので良く理解できた。
 ショーとしても楽しめる舞台だった。
 主人に印象に残ったことを聞いてみると、やはり5人の魔女がとても不気味でインパクトが強かったということだった。

こんな迫力のある舞台は初めて見た。音も光も、そして人も心につきささってくるように思えた。特に扉の使い方が素晴らしく、場面の変化や人の動きをよく表現していたと思う。
 シェイクスピアのマクベスといえば有名な話だが、本で読むのとはまた違って、生の演劇の素晴らしさを改めて感じた。

今までと違った雰囲気と迫力があって見応えがありました。

躍動する舞台、スピーディーな展開――素晴らしい劇でした。
 魔女役の役者さんたちの鍛えられた背筋が凄かった!

藍住町総合文化ホールで初めて見ました。到着時間が少し遅れたので2階で見ました。後ろのほうでしたがよく見え、よく聞こえました。素晴らしいところですね。
 シェークスピアの劇はいくつか見ましたが、やはりいずれも素晴らしいです。

人の名前が頭に入らなくて、ストーリーが分からなくなるところはあったが、野心に溺れる人間の愚かさ哀しが分かりやすく、スピーディーで迫力ある舞台に描かれ、2時間半があっという間の面白い芝居であった。

素晴らしい演出
 劇団東演の俳優陣に『アッパレ!』ですね。

舞台装置も役者さんの動きも素晴らしくとてもいいお芝居でした。
 復讐がテーマなので血生臭いシーンがたくさんあると嫌だなぁと心配していましたが、血は光を当てることで表すなどソフトに描かれていて目をつぶらずに見られました。
 ただ、「バーナムの森がやってくる」というキーワードは、本当に木を持って動いてきたらもっと迫力があって良かったのではと思いました。

シェークスピア四大悲劇ということで大いに期待した。実に力の入った舞台は見ごたえがあった。
 戦乱に明け暮れた中世のスコットランド;地味な衣装と、戦勝に沸く城門や魔女の洞窟、悩み苦しむ王室の壁、それら全てを表す4枚の大扉、魔女兵士たちの鍛えられた肉体と大きな人の流れ等々によって演出され、舞台は躍動していた。
 マクベス;戦勝での栄光と権力への野心、どこからか沸く魔女たちの予言、貪欲な誘惑と果てしない猜疑心、孤独と恐怖を 心理面から詳細に的確なセリフで表現していた。身近で囁く夫人の誇りも、臣下・領民の信頼を失うことの恐れには勝てず、次々と大罪を犯し遂には倒される。平家物語の「盛者必衰、奢れる者久しからず」を思い出した。
 但し「マクベス」は英国王ジェームズ1世の求めに応じて、史実をかなり自由に改変して宮廷上演用に書かれたともいわれ、当時の英国貴族たちに共感、大人気を博したようである。今回の舞台も、オペラのような歌や踊りがあって、非常に深刻な心理描写にも拘らず、深く感情移入せず、わりと他人の歴史を見るように客観的に、迫力ある舞台を楽しめた。
 これがシェークスピア劇なのかと思えた。
 エンディングでは大勢の観衆のスタンディング拍手と感激と感謝の交流があった。

『生きるもの』(魔女)の意味を考えさせられました。 魔女ではなく『生きるもの』と言わせたのはどうしてだろう?と妙なところに意識が行ったのですが、生きるもの=人間、人間の愚かさを揶揄したものなのでしょうか? 甘言に惑わされ、私欲の為に過ちを犯す・・そして、狂って地に落ちる。
 悪しきことを隠すため悪しき事を繰り返す・・
 そこに幸せはなく、心休まらない時だけが続く。
 そんな心の葛藤を『生きるもの』の動きが表しているような気がした。怪しくうごめく上半身裸体の動き、溜息、ロシア語のセリフと重ねた日本語のセリフなど、重要な役割をしていたように思う。
 などと、色々書きましたが、2度観させていただき、本当に楽しい感動する舞台でした。
 ベリャコーヴィッチさんのご冥福を祈って、またどれかの演目の再演を切に希望します。

鳴門例会カーテンコール

観劇前から大変楽しみにしていました。なんといっても一生に一度は見てみたい作品でしたから。
 見終わった感想としては「圧巻」につきるかと。舞台全体が揺れているかの様なセリフと音響、鍛えあげられた肉体による演舞。もちろんストーリーは折り紙つきの面白さ。
 本当に暴力的なまでに圧倒的な劇でした。肉体美溢れる劇でした。
 市民劇場に入ってからいつかは観劇できるかな、と思っていたのでありがとうございました。念願がかないました。

正直に言えば、シェイクスピア作品にはあまり食指が動かない方でした。単純なせいか、自分の実生活になにかしらの繋がりを感じたり共感できるところがあったりしないと中に入っていけないので、身内や仲間同士で殺し合ったりする世界から一体どういうメッセージを受け取ればいいのか分からないから…。「マクベス」も最後は主役が殺されてしまうわけで、救いようがない話。ただ、今回は頑張って(笑)想像力を最大限に働かせ、観て、考えてみました。「魔女」はもちろん自分の中に巣食う悪魔であり、どんな人にもたぶん…いるのでしょう。人格はひとつではなくて、マクベスの場合も、謙虚であるはずの自分(マクベス)に分を超えた欲を囁きそそのかす“もうひとりの自分”がいて、結局はそれに負けてしまったのかな…。ひとたびそちらに染まると帰り道を見失う、その悲劇も描かれていたのかな…。でも、だからといって、人間は強欲になってはいけない、欲のために他人を傷つけてはいけない…というのも短絡過ぎる理解だし、やっぱりなかなか観劇後の心の整理ができないです。だからこそ難しさがある古典? いえ。いっそ開き直って、これはその昔のエンターテイメント作品であったと受け止めてもいいのかなとも感じています。
 さてそんなこととは別に…。ベリャコーヴィッチの演出は想像を何倍も超える圧巻なものでした。役者さんたちは機敏に動かれましたが、くるくる回る扉に挟まれないかと要らぬ心配!300余年前にこの劇を楽しんだ当時の人たちには味わえなかった幸せですね。

シェイクスピアの代表作である「マクベス」を題材とした今回の観劇は、数少ないながらも私が今まで観てきた観劇の中でも異質というか、他の劇作品では感じられなかった程に非常に強く異彩を放っている作品でした。とは言うものの、シェイクスピアと言えば「ロミオとジュリエット」か「ハムレット」を真っ先に思い浮かべた私ですので、本当のところは戯曲「マクベス」をシェイクスピアの作品とは露知らず、私自身の教養の無さを曝け出したようで大変恥ずかしい限りでもあります。 さて、そんな私にとってのシェイクスピア初体験となった戯曲「マクベス」ですが、幕開け前の暗闇に包まれた場内で、ズシリと響く音楽が流れだすとともにスポットライトで照らされた悪魔(劇中では「魔女」と呼んでいましたが、私には「悪魔」に見えました)の主とその手下の形相と舞台演技に、私の視線はそれらの人物と動きに釘付けとなり、これまで経験したことが無い程の圧倒感を覚えました。さらには、劇が進むにつれて登場人物も増え、その舞台の照明が映し出す役者の衣装が、欧州中世の趣を見事に放っており、とても美しく感じました。そして、この時の映画のワンシーンを切り取ったかのような演出にも驚きを隠せず、併せて効果音までが重厚荘厳でスリリングな趣で、このマクベスという観劇にとても相応しい感じがしました。 他方、今回の「マクベス」の舞台セットでは、これもまた今までの観劇とは非常に異なった趣に気付かされました。それは、4枚の大きな扉の舞台セットです。今まで観てきた観劇の舞台セットでは、内容に程度の差はあれども、小物や室内セット等を用いて、その劇での情景描写に寄与していたと思います。それが、今回の「マクベス」では、重厚な扉の趣はあるものの、その4枚の扉のみでの演出には、正直言って戸惑いを隠すことが出来ませんでした。そして、4枚の扉を(ただ単に)回転させるという動作だけで、「マクベス」で観客に訴えたい各々の想定される情景や登場人物の心情の変化を見事なまでに表現していた演出には、只々驚きのみでした。これは、ある意味非常にシンプルな作りの舞台セットで、それも扉を回すというシンプルな動作で全てを表現する新たな技法ではないかと私の目には映りました。それらのことから、今回の劇はセリフ回しを主体とした今まで私が観たことのない様式での観劇となりました。 ところで、 この4枚の扉は地獄への扉か?はたまた天国への扉か?果たしてどちらの世界へ通じる扉なのでしょうか?それは、その扉を開ける者の持つ己の”心”次第なのかもしれません。そういった意味では、強欲の虜となったマクベス自身は、悪魔に魂を売ることで自らの手を血で染めることになった身の上から、地獄への扉を己の意思で開けてしまったという事に他ならないと思いました。そのことは、マクベス自身の心の変化に良く表れていると思います。例えば、王の座を手中にしたものの、眠れぬ日々、命を狙われる怯え、そして心安らかな日が一日たりとも持つことが出来ない疑心暗鬼の日々を送ることになったことからも容易に想像がつきます。これらの心穏やかでない日々の暮らしは、正しく「地獄の日々」と言っても過言ではないと私は思いました。 そんなマクベス自身は、友を裏切り、民衆を裏切り、その結果として、友を失い、民衆からの敬愛心を失い、愛する妻を失い、そして自身の魂をも失って、最後には全てを失った哀れな存在と化してしまったようです。強欲の果てが、民の心を荒廃させ、そして国を荒廃へと推し進めてしまった。つまるところ、魂の休まる日を失ってでも得た富と地位が、果たして幸せなのだろうか? マクベス自身が、心の奥底で気付いているものの、それはもう後戻りは出来ずに、死をもってでしかこの苦しみから逃れる術がないという事だと感じました。心の荒廃から精神を病み、望んでいた幸福は手指の間からこぼれ落ちる砂の様に跡形もなく消え去るのみで、虚しさだけが後に残った。この観劇を通じて、私はそんな思いを強く抱くことになりました。
 以上が、今回の「マクベス」から受けた私の心情変化ですが、それとは別に今後の公演で改善してほしい点が二つあります。
 先ず一つ目ですが、役者のセリフの喋りが早くて、しかも話す量が多いことが災いとなって、観客である私には聞き取り難い場面が多々ありました。その為に、劇に集中する気持ちが削がれた感じがしたのが非常に残念に思いました。この劇の特性からなのかもしれませんが、もう少しセリフをゆっくりと喋っていただいて、そのうえで一回のセリフで伝える内容をもう少し絞り込んでほしいと思いました。そうすれば、役者のセリフもよく聞き取れ、そのことで観客として劇にも集中して臨めるのではと思った次第です。
 二つ目の改善点は、”令和”という時代の空気を読んでほしいことです。それは、酔っぱらいの戯言として男性器を連想させる演出があったことです。この場面を観て、私は即座にこの演出は不適切かつ不要と感じ取りました。ここでの役者の演技は、”昭和のおっさん”が居酒屋で喋る下ネタレベルの下品極まりない内容で、この場面でこの演出が無くても何ら支障が無いと思いました。むしろ強い違和感を覚え、それまでの張りつめた空気を損なうかのようで、今回の戯曲の品格が台無しとなる危惧を抱きました。つまり、今回のような演出は、令和の時代では環境型セクハラとも受け取られる演出ですので、今一度時代の流れを汲み取って、演出家はその時代の考えを採り入れるべきと思います。そのような観点から、この場面に関しては演出家の方には再考を強く望む次第です。
 最後に、閉幕前の出演者の挨拶で、客席と役者とが一体となっての合唱は、とても心を高揚させてくれるものであり、元気が湧いてくるものでした。そして、この最後の演出で、私の「マクベス」から受けたどんよりと沈み込んだ心も少しは元気を取り戻せたのかなとの思いで、劇場を後にすることが出来ました。

魔女たちの言葉にまどわされ、妻の言葉に、欲望をかきたてられ自分を見失い、勝利を祝い領主にとりたててくれた王を自らの手で殺害し、その後は平常心を保てなくなり友までも殺してしまう。
 そして自分自身も破滅へと向かってしまう。もし魔女たちに出会わなければ、もし妻の欲望に耳を傾けなければ、心の奥底の欲望をむき出しにすることはなかったかもしれない。

シェイクスピアは話が暗い!でも、一端疑心暗鬼になったら次々に悪い方に考えてしまうのが人間の心かもしれない!プラス欲が加わるとドンドン深みにはまってしまうのかな?と思っています。そういう心の機微を表現するのがとてもうまい!だからどの作品も暗くなってしまうのかな?と思っています。

藍住は舞台が近いですね。今回一番前の席で、迫力がありました。
 イギリス人は心の声が饒舌だなあと(笑)。
 色々感じたり考えたりしたので非常に疲れました。こういう感じの疲れは久しぶりでした。
 有名な文言もいくつもわかったので、そこは楽しかったです。

演出に感動しました。

後頭部に銀色の仮面をつけて後ろ向きで動く不気味な男たち、魔女なのか?魔女だよね、男だけど魔女だな、見事な筋肉、あれ、外国の言葉しゃべってる、と混乱しながらもあっという間に舞台に引き込まれました。
 大きな回転扉のみの舞台装置、小道具もなし、戦いのシーンにも剣は使われませんでした。シンプルで無機質な仕掛けなのに舞台上の熱気がすごい。舞台の上を男たちが駆け回っているだけに見えて、大きな扉をうまく使ってのスピード感のある舞台転換にも魅せられました。私には確かに馬が見えました。「マクベス」を初めて観たのですが、おそらく他の劇団とは一線を画す斬新な演出だったのだろうと想像できます。
 印象に残ったのはマクベス夫人の狂気、腹の据わった賢夫人のはずなのに徐々に壊れていく様子が本当に恐ろしかったです。
 一応、観劇前にマクベスのあらすじは予習しておいたのですが、セリフを中心に物語を追うことは最初のうちにやめて、ただただ役者さん自身の身体による表現に魅了された時間でした。

4つの扉があるだけのシンプルな舞台、扉の回転と照明、音楽だけで様々な場面を表現していたが、全く違和感はなかった。煙と同時に現れる怪しげな仮面をつけた魔女たち、意味不明のロシア語が不気味さをより際立てていた。そして、鍛え抜かれた筋肉美、妖しすぎる。整然と動く兵士たちは、踊りに歌、歓声、奇声、圧倒的なパワーで迫ってきて、観ごたえのある舞台だった。これが、ワレリー・ベリャコーヴィッチの演出か。
 シェイクスピアの悲劇には死はつきものとはいえ、マクベスの戦果を称賛し、誰からも慕われている国王をその日のうちに殺すことなどあり得ない。観終わった後は「共感も教訓も得られない劇」と思ったが、人と感想を語り合っているうちに考えも変わってきた。劇の中で起きた様々なことを、現代社会に置き換えるとまた違った見かたができ面白い。
 会社、官庁、政治家等、社会でのし上がっていくには、成果、実績を出していても、万人に好かれる善人では難しい。マクベスも最初は善良で勇敢な戦士だった。しかし、魔女たちのささやきに翻弄され、妻の言葉に惑わされ、いつの間にか白からグレーそして黒へと変わっていった。これに近いことは現代でもあり得ることだ。
 全ての権力を手にしたマクベスは、国王としての栄華と快楽を妻と享受するつもりだった。そしてそれを最も望んでいたのは妻だった。しかし、敬愛していた王、親友を殺したことへの呵責で、共犯の妻をも拒絶し、疑心暗鬼になり孤独になっていく。「上り詰めると孤独になる。」「周りの者は忖度して本音を言わなくなる。」これは現代でもありがちなことだ。
 追い詰められ、自信もなくなったマクベスにとって、残された手段は魔女にすがりつくしかなかった。そして告げられた「バーナムの森が攻めてこなければ大丈夫」「女が産んだ者には殺されない」という予言。常識で考えると森は動かないし、人は皆、女から産まれるので、殺されることはない。マクベスはその予言を信じ、心の拠りどころにしていたが、どこかで覚悟はできていたのだろう。妻子を殺され復讐に来たマクダフが「俺は女から産まれたのではない。腹を割かれて出てきた子だ!」と叫んだ瞬間に、マクダフの剣を自らに突き刺すという最後は、この絶望的な孤独から解放されたかったのではないのかと。 マクベスは国王になるという夢を叶えられたのに、そこに喜びはなく、結局自らを破滅へと追い込んでしまった。誰にでも夢はあり、夢を叶えたいと思っている。しかし、夢が叶えられた時、大きな幸せが待っているというのは実は幻想で、夢は夢のまま追い続けている方が、ささやかな幸せ感じて生きていけるのではと思った。

マクベスは魔女に出会った。では、魔女に出会わなければ王殺しは無かったのか?
 そんなことはない。魔女に出会わなくてもマクベスは王を殺したに違いない。
 なぜか?
 出来ると思ったから、自分が王になれると思ったから、自分は王の器だと思ったから。
 往々にして人は、物事がうまくいったときにそれは自分だからこそできた、と思い、それにふさわしい地位を求めても良いと思ってしまう。
 しかしながらそれは勘違い。マクベスが成果を上げたのは親友の助けがあり、王の理解があったから。
 マクベスが王の器であったなら、王を殺さずとも彼は王になれた。
 そして、マクベスは王になったとたんに自分が王の器ではないことに気付いた。
 よくある話であり、だから魔女は分を知らない自分自身の心であった。
 「マクベス」は、己の器を大きくするための努力を怠ったまま、分不相応な地位や権力を求めて起きる悲劇であり、だからこれからも受け継がれていく物語だと思う。その意味ではもっと若い世代に鑑賞して頂きたい劇だと思う。

魔女たちの予言に翻弄され、国王ダンカンの暗殺に始まり、友人や周りの者たちを死に追いやり、やがて悲劇的な結末に向かっていくマクベスの物語。舞台上の4枚の回転する扉で城の回廊や大広間、寝室や森など様々なシーンが表現されたり、国王暗殺の場面では赤い照明で返り血を浴びたマクベスを表現したり、観る者の想像力を刺激する演出に引き込まれ、時間の長さを感じさせない舞台でした。何より印象に残ったのは、魔女を表現するのに、魔女の面を後頭部にかぶり、背を向けて演技する姿。怪しげなその動きは、この世のものと思えない異形の魔女そのものに見えました。それにしても、国王殺しをためらうマクベスをそそのかす夫人の姿は、この物語の中で最も野心に満ちていて一番怖い存在でした。

シェークスピアの四大悲劇の一つ「マクベス」。おぞましい人間の欲望の果てに、友も、妻も、地位も、自分の平静な心すらも失っていく主人公マクベス。いつの時代にあっても、悪に手を染めると、平静ではいられなくなることを私達に戒めとして見せてくれていた。
(マ) マーダラー(murderer殺人者)と化していく苦悩のマクベス。一人を殺せば、また一人を殺さなければ落ち着かなくなる心理が見事に描かれていた。
(ク) クイーン(queen女王)となることを夢み、マクベスをそそのかし、現国王を殺すことに手を染めてしまったマクベス夫人。結局、彼女は正気ではいられなくなり、自らの死を早めてしまう・・・。
(ベ) ベスト(best)マッチな俳優達が繰り広げる悪魔チックなファンタジー。ロシア人役者が発する妖精の言葉はまさにマジカルで、この世のものとは思えない、恐ろしい響きがあった。
(ス) スーパー(super素晴らしい)「ダイナミックな音楽と、驚異的な門扉の開け閉め。あの門扉があるために、城への出入りをする人々が、狭い舞台上であっても、うまくその効果を発揮できていたし、マクベスの苦悩の様や、彼の心の叫びを門扉で隠しつつも、うまく表現できていた。
今回の作品では、あの大きな門扉をどこに配置し、いかに動かし、活用していくかが大きな問題ではなかったかと思う。あんなに大きくて荘厳でありつつも、ハイテクな門扉を作られた裏方の皆さんに、大いに拍手を送りたい。

はじめに、4大悲劇の1つであるマクベスを初観劇できたことに感謝いたします。
 魔女の予言通りに王になったマクベスですが、私はマクベス本人よりも夫人の野心が、いい意味・悪い意味を含めて、びっくりしました。
 劇では、人の命を殺めた結果、いつかは、その殺人という行為にがんじがらめになってしまう人間という生き物の感情をうまく表現しており、特に、ヒトの欲望や野望、弱さ、小ささ、恐怖心を詳細に感じることができました。

シェイクスピアの戯曲「マクベス」、劇団東演は舞台という限られた空間でこの悲劇をどのように観せてくれるのかと期待していました。
 物語が進行展開していくなかで、区切り区切りに舞台にそそり立つ回転扉と怒涛・疾走する演者人々、幾度も幾度も象徴的な演出が繰返されました。このあまりにも激しく荒々しい演出は圧巻で、マクベスが持つ闇や弱さを観客の前に突き付けている、そんな感じがしました。
 シェイクスビアは16世紀のイギリス・ルネサンスに生きた劇作家、戯曲悲劇「マクベス」を著し人間という生きものを観客に向けてみごとなまでに曝け出して、そして問いかけているのだと思います。21世紀の我々に向けられた問いかけは、耐えられないほど重くて深いものなんですね。

劇団東演の皆様、コロナウイルスの感染の恐怖が減少したとはいえ、公演ありがとうございます。
 さて、マクベスのストーリーはスコットランド王の暗殺から、王殺しの張本人マクベスへの復讐劇である。開幕直後、魔女の予言からこの舞台は始まりました。ファンタジックな照明、工夫を凝らした舞台装置、役者さんの衣装、また回転扉(4個)、回転扉はあらゆる場面で使われ、兵隊と貴族の変化を一瞬に変える。発想が斬新であった。
 魔女軍団の不気味さ、そしてさらに不可解な動き、まるで、人の心のうごきを表しているようであった。照明も工夫されている。血を感じさせるときは赤。邪悪な感情の時も赤。
 全体を通して流れるテンポの良い音楽、まるでミュージカルのような音と動き。演ずる俳優さんの表現の幅広さを感じさせた。
 今回のマクベスの舞台は、今の私たちの世界とかけ離れている。人の動き・感情・台詞等が夢の中で演じられている舞台の様に思えた。

時を越え、国を越え、人間の欲望というものは…?この劇ではどのように展開してゆくのだろうかとワクワクしていました。人も景色も背景が大きく表現されていました。悩みぬくことになるマクベスの小さいこと!!近親の者たちが取り巻く中で、私が最も愛すべき人は人間味ある苦悩に満ちたマクベスでした。
 帰途、誰かが話しかけられた。私の連れの御二人にどういう方かを尋ねたところ、「あの人はロシア語の通訳をされる方」という事で、あらためて、そうなんだ……。多くの方々が、この劇にかかわられ、23人の中に採用されたロシア出身のダンサーもおられ、日常的に暮らしを支えられる方だったのだー。
 舞台装置がはずされるのを待つトラックの大きいことにびっくり。JRの貨車に次ぐ長さに驚きながらあわぎんホールをあとにしました。

鳴門例会カーテンコール

E-mailでのお問い合わせは、         鳴門市民劇場ホームページ
nrt-geki@mc.pikara.ne.jp
まで。