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おとうふコーヒー

劇団銅鑼公演

鳴門市民劇場7月例会
 2022年7月8日(金)
 感想集


鳴門例会カーテンコール

作品キャッチフレーズが「おとうふとコーヒーは認知症に効くって本当…?」で、あらすじのメインも台風の夜に特養でひとりの女性を看取る…ということだったのですが、実際にはそれらは全体の中のひとつのピースにすぎず、実に色々な要素が組み込まれた多彩な内容の劇だったと思います。「ふみ子さん」は主役ですが、台詞数も出番もむしろ多くはなく、取り囲む人たちのそれぞれの人となり、そして、あの集団の関係性の中でこそ浮彫りになるそれぞれの人間性が、短い時間の中でうまく描かれていて、どの人にも共感をもったり魅力を感じたりしました。そして、翻り、「ふみ子さん」は、そんな人たちに“世話になる”のではなくてそんな(色々問題を抱える)人たちの“扇のかなめ”になる存在という風に思わせる最後。誰しもやがて迎える人生の最後の時期について、無用の恐怖や不安は無くし「あんな風にありたい」と希望を持たせてくれる作品だったと思いました。
 昨年末に母を自宅で看取った私は「下顎呼吸」など、死の瞬間の様子に関する医療関係者のアドバイスはまさにそのまま自分が受けた説明であり、生々しくてちょっと苦しかったですが、この劇をきっかけに、石橋先生がふみ子さんに語り掛けた言葉どおり、母もきっと「上手に…」旅立ったという思いを再度自分の胸に置くことができました。そして、エピローグで瑞樹が「ばあちゃん」について語る中では、「ばあちゃん」がたくさん残していた自筆メモの話が、実家にある母のそれ(認知症で…忘れないように…ではなかったですが、日記やメモ魔の母でした)と重なって、泣けてきましたが、悲しさ・寂しさが昇華していくような清々しい涙でした。
 「おさんぽ」で一番評価したいのは…。施設利用者を「おばあちゃん」とか「おじいちゃん」とか呼ばず「ふみ子」さん「金山さん」と名前で呼んでいることでした!「絶対呼称は名前」派です!!

「おとうふコーヒー」の「うるさい」感じに賛否両論あると思いますし、介護現場が美化されていたようにも感じましたが、色々な問題を通じて少数者への共感、多様性を認めることがテーマになっていて観応えがありました。
 なぜわざわざ台風の日にドタバタと看取りを?と最初は思いましたが、嵐が去った静けさの中で、皆がそろったところで迎えるふみ子おばあちゃんの最期というのは印象に残る演出でした。

今回の観劇である「おとうふコーヒー」は、仕事の都合で藍住町総合文化ホールでの舞台鑑賞が叶わず、私としては初めての「あわぎんホール」での鑑賞という運びとなりました。ということで、劇場の造りや雰囲気が異なると、やはり演劇自体に対する眼差しも異なってくるのでしょうか?自分自身でもよくは分からないのですが、感覚的にいままでの藍住町総合文化ホールとは趣の異なった雰囲気での舞台鑑賞に臨むこととなりました。そして、その異なった趣に応じるが如く、舞台の幕開けが、祖母ふみ子の脳内をイメージした白いベールで被われた舞台設定で、孫の瑞樹による「認知症」と「記憶」の医学的解説からの始まりは、意表を突かれた思いで、その意外性に思わず唸ってしまいました。
 その後、舞台上の時間は予定調和の展開で流れ、劇は閉幕へと移り進み、その時点で今回の主幹を流れるテーマは「看取り」であると気づかされました。つまりは,その意味するところを呼称するが如く、無理・無用な延命治療などは行わずに、目の前に横たわる人が自然に亡くなるまでの過程を見守ること、舞台上ではそのものが演じられていたからです。
 一方、今回のテーマでの傍流は「老々介護」、「選択性別姓」とそれに伴う「事実婚」、「性同一性障害」とそれに係わる「LGBTQ」だと思いました。ただし、これらについては劇中では深堀りせず、セリフの中だけに留めていたのは、おそらく演劇という限られた空間と時間内では、どのテーマも一筋縄では解決策が見出せない複雑で難解な問題であるからだと思いました。
 いずれにしても、主流、あるいは傍流を問わず、今回のテーマはどれもが誰にも降りかかる困難さを内包する非常な難題であり、私自身にとっても「介護」については目の前に差し迫って避けて通ることが出来ない厄介な代物となっています。そのことから、いずれは私自身が介護をする側から介護をされる側へと移り変わり、祖母ふみ子と同じように周りの人たちから温かく見守られながら穏やかな寝顔でもって逝くのか、はたまた病魔に侵され苦痛にもがきながらあの世へ逝くのか、その時にどの様な最期を迎えるかは判断出来ませんが、全ての人に必ず訪れる最後の己の姿がおぼろげながらも思い浮かんできました。とは言うものの、現在の私の想像力を遥かに超える己の終末期の姿を明瞭に脳裏に描き出すことは不可能でした。それは、終末期を未だ経験していない(経験した時は死するとき)こと、さらには個々の死に様は百人百様で、どれが正しいとか、間違っているとか、決められるものではないことも要因の一つとして挙げられると思います。つまり、個々にどの様な死に様を示したいかというのは、個々人の人生観や死生観に大きく左右されるからです。
 そんな様々な死に様が考えられる中で、劇中で役者が放ったセリフの一つに「上手な逝き方」に類した発言があり、そのセリフを耳にすることでどの様な逝き方が自分自身にとって「上手な逝き方」になるのか、私自身が棺桶に足を入れるまでに自問自答しながら私自身に最も合った答を見つけ出したいと思いました。と思うものの、一朝一夕に答えが出るものではない事は重々承知している反面、あるいは死に直面したとしても答らしきものも得られないかも知れない不安をも抱かざるを得ないことも考えると、如何にして「上手な逝き方」を迎えるかは私の人生での最大の課題なのだとも思いました。
 ところで、本感想の冒頭で、今回の演劇での主たるテーマは「看取り」であると申し上げましたが、現実の介護現場は、言葉で簡単に語れるほどに生易しいものでは無く、しばしば介護虐待等が社会問題となるほどに過酷を極めている現場かと思います。そんな中で、「特別養護老人ホーム(特養)おさんぽ」の様なスタッフに囲まれて人生の終末を迎えることが出来る老人は、今の日本国の中に如何程の方が居るのであろうかと思いを巡らすと、やはり、そこには介護を行う側の心の余裕というものが重要な要因なのかと思いました。というのも、自分自身を振り返ってみて、心の余裕をなくした時には、決して他人に対して優しい心でもって接することは出来ないことだと自覚しているからです。ですから、目の前の仕事や解決しなければならない難題に忙殺される、そんな日々に明け暮れる現代の人々の置かれている現状からは、相手を思いやる介護はそう簡単には出来ないものではないかと思っているのです。そのような観点からすると、劇中の役者の演技から、とりもなおさず現在の日本の介護現場が置かれている直視すべき状況を映し出していることに他ならないと、逆説的な視点ですが「おさんぽ」の介護職員らの心温まる振る舞いから、その真逆としての現実の介護現場の困難を極めた姿を私は思い浮かべました。
 さて、話題を孫の瑞樹のカミングアウトに移すとしましょう。
 今回の劇中での主役をなす双璧としての孫の瑞樹が女の子として生まれ、その後心と身体の性の不一致を自覚することで、男性として生まれ変わることを決心したその裏で、祖母のふみ子が、瑞樹が女性から男性へと性転換することに対して寛容さを持って受け入れたことは、瑞樹にとってもこの上ない喜びであったことは想像に難くありません。
 その受容に至るまでの祖母ふみ子の心の変遷を、舞台上で描かれている年代が、ふみ子が逝く現在と、今居る施設に入所した年代、あるいは孫の瑞樹が初めて見舞いに訪れた年代へと、現在と過去との往来を繰り返して葛藤を経ながらも少しずつ寛容さを育成してゆく心の機微や変化を描き出しており、その心情の移り変わりを見事に表現していたのに感動するとともに、人の気持ちとはこのように一進一退を繰り返しながら変容してゆくのだと気づきました。それとは別に、祖母ふみ子の心に変化を及ぼしたものには、「認知症」が大きく関与しているのではと考えました。つまり、「認知症」を患う事で物事の記憶が遠のくのは、ある意味において本人にとっては苦痛や嫌な事を忘れさせるという「メリットの面」と、大切で決して忘れてはならない大事な事を忘れ去るという「デメリットの面」との相反する表裏一体の関係ではないかと改めて思うに至りました。そして、この相反する関係性が、孫の瑞樹のカミングアウトを、戸惑いながらも祖母ふみ子が受け入れるのに至った要因の一つではないかと想像したのです。 それに加えて、例えば性同一性障害等に代表されるLGBTQに対する寛容度は、若年の男女では寛容度が比較的高く、高齢の女性でも寛容度を持ち合わせている調査結果があります。一方、中高年以降の高齢男性等では、こういったLGBTQに対する寛容度が低く、むしろ嫌悪感を持つ人がかなりの割合で存在することが分かっています。そして、この調査結果からも、女性はLGBTQ等に対する寛容度が高いことが裏付けられており、この調査結果を受けた形として祖母のふみ子が孫の瑞樹の性認識に対する違和感を受け入れたことに対して高齢女性であるということが何がしらの影響を及ぼしたのではないかと思いました。
 最後に、本演劇でのタイトルである「おとうふコーヒー」には、如何なるメッセージがあるのかと考えながらの帰り道でした。その一方で、「お豆腐」は「コーヒー」のデザートとして、プリンやムースの様な食感で案外相性が良いのではないかとの考えに至り、早速にも私自身で試してみたいものと思いました。ということで、その組み合わせの食レポは、後日改めてご報告申し上げたいと思います。

鳴門例会カーテンコール

何年ぶりかで生の舞台を観て、うるっと来たり、小さく笑ったり、楽しい時間を頂きました。

今回のテーマは初めミトリ?️と思っていました。 でも話が進むにつれ、同一性障害も絡めた物語になっているんだ⁉️と
 同一性障害については友達に一人そうかな?と思われる子がいたし手塚治虫のリボンの騎士も同一性障害をテーマにしたアニメだと聞いた事があり、昔から有る話で今のように公に容認したりオープンに出来る雰囲気ではなかった様に思う。
 でも、今は皆が認めよう!認められたい!という動きがあって公の場でも認められつつあります。 そういう理解を深めていくためにも劇にして関心の有る人は勿論、関心の無かった人にも考えて貰えるんじゃないかな⁉️と思った。

「おとうふとコーヒー」で認知症が防げたら、こんな嬉しいことはないですね。何かを信じるということは、心の救いでもあります。「現在」と「過去」をそのままの舞台で演じ分けて…私には初めての経験で面白かったです。

物語が進むにつれて、一人一人のストーリーが明らかになっていく見せ方に引き込まれました。
 最初は漠然といた人たちが、だんだんと確立されたものになり徐々におもしろくなっていったような感じです。
 個人的には(自分も栄養士の資格を持ち、関連する仕事をしているので…)栄養士の役のひとがいることに親近感をおぼえました。

久しぶりに観劇でき、本当に楽しかったです。

舞台で時間の流れをうまく表現できているシナリオの巧みさに驚きました。ナイーブな介護問題を家族と施設関係者で表現できているなと思いました。

私もこの物語と同じ年頃。身にしみる思いに背筋を正すことしきり。永谷ふみ子の孫、永谷瑞樹さんの語り方・動作、一言一言にうなずき、ヒントを頂き、感動、感動。 今の自分の心境と重ね合わせ、うなずきと反省、そして、勇気を貰いました。最後のシーン、彼の叫び、演技に好感を持ち大ファンになりました。有難うございました。

己の持つ固定観念が覆された。「演劇を観ることで、感動したり、涙したり、勇気をもらったり…」という表現をしてきた自分の固定観念が。
 自身の存在を見直した。「鑑賞する側も、演技者、製作者側を感動させたり、涙させたり、勇気を与えたりできる存在なんだ」と。
 7月例会担当として、機関紙作成のため写真整理をしていた。カーテンコールの役者さんの表情をその一コマ一コマがしっかりととらえていた。
 顔をあげた瞬間、「祝創立50周年」のプラカードが目にはいったのだろう。
 目を丸くし、口を押え、驚きの表情で肩をすくめる田上役・栗木さん。最後は目頭を押さえていた。
 すっくと立った辻所長役・植木さん。顔の前であわせた手が涙を隠すようにだんだんと上がっていった。
 感無量の表情。終始「気をつけ」状態、直立不動の金山役・名取さん。渋い。
 旗本役・井上さん。瞬時に状況を読み取り深々とお辞儀を返される。その動き、演技同様キレがある。
 瑞樹役・齋藤さん。大きく開けた口を押えるように両手を合わせ、驚きの表情。にこやかな笑顔にかわった後、袖で涙を拭う様子。
 終始、笑顔のふみ子役・谷田川さん。何事にも動じず騒がず、すべてを受け入れてくれるお人柄。さすが!!
 みんなで取り組んだ劇団へのエールを伝えるパフォーマンス、私たちの思いはしっかり伝わっていた。劇団と演劇鑑賞団体、両者で舞台を創り上げるということの一端を実感した。

鳴門例会カーテンコール

とても考えさせられる場面が色々ありました。ホームのふみ子さんは、好きな人達に見守られて、とても幸せな最後だったと思います。年老いてもいつも前向きで柔らか頭でいた事が皆に愛されていた要因ではないでしょうか!私も老人のひとりとして、そうありたいと思います。

みんなこの舞台に共感する部分がどこかしらあるのではないか。
 僕も昔、介護をやっていたので共感する部分が多くある。ピアノがすこしできるという話になって、すごい周りの雰囲気が明るくなったりとか、利用者との会話のやりとりとか…。舞台ではなく本物の介護士がいると思って見ていました。
 最後に「がんばっぺー」と言って、カーテンコールでも「がんばっぺー」と繰り返していた永谷ふみ子役の谷田川さほさんに負けないくらい、僕も「がんばっぺー」

要介護3の母親を自宅でみているので、どんな舞台かとても楽しみにしていました。「おさんぽ」のような施設なら自分もぜひお世話になりたいと思いました。善意の人々にみとられて、ふみ子さんは幸せだと思います。50周年を迎えた劇団銅鑼の皆様の意欲的な舞台に拍手を送ります。

看取る側から、看取られる側に近付きつつある自分のことも想像しながら観ていました。 老人問題、福祉問題、ジェンダー問題等々、現代社会に切り込んだ内容で、大変興味深く観せていただきました。役者さんの演技も個性豊かで良かったです。

前半はテンポの速さや演者どうしのたたみかけるような台詞回しになかなか付いていけなったけれど、ふみ子さんの存在感に嵐の夜の施設の空気を少し共有したような気持ちで観終わりました。
 終演後、駐車場からジュズつなぎ状態で車を走らせましたが、時間はちょうど小学生の下校時刻、安全第一で芝居の余韻は家に着いてから、ぼんやりしみじみ味わいました。

そう遠くない未来にお世話になるかもしれない特別養護老人ホームのリアルな舞台だった。施設の利用者であるふみ子ばあちゃんは、おとうふとコーヒーを「食事」として食べていた。それは、認知症にならないための信じて疑わない健康法だったのかもしれない。孫を忘れないように写真を飾ったりして、涙ぐましい努力をしていた。複雑な家族の事情もありながらも明るくふるまい、施設の職員からも愛され慕われていた。人生最後の日を自分の思い描いた通りに迎えるという人生のしまい方のお手本を見せていただいたような気がした。
 ふみ子ばあちゃんのステキな笑顔と「がんばっぺ」という言葉がとても印象的だった。

認知症、看取り・・・という、しんみりとしたテーマでも、コミカルな場面も多々あって楽しめました。
 加後さんと真柴さん、初対面の絶妙な間、最高です。
 ふみ子さんが、周りの人々の人生にいい刺激を与えたんですね。これからの介護の問題、課題も考えさせられる作品でした。

私は最初この演劇の題名を見て、たくさんの疑問が湧きました。「おとうふコーヒーとは何だろう?」「おとうふとコーヒーは合うのか?」「どんな内容なんだろう?」など沢山です。
 だから最初はどんな内容なのか掴みにくかったのが本音です。けれども、どんどん観ていくとアルツハイマー病についても、それを取り巻く関係についても2時間弱とは思えないほどの濃さの内容でした。おとうふコーヒーを観て、家族の大切さや血が繋がらなくても感じられる人間の輪を感じました。

特別養護施設など自分にとって、将来を考えさせられる身近な問題だったので、最後まで息をのみながら観ていました。そして、身につまされる問題だと思いました。
 とてもいい作品を観ることが出来て良かったです。

介護施設なんぞのお世話になりたくないと思っているけれど、10~15年後にはどうなるか分かったものではない。又、認知症になりたくないので好きな酒もプッツリ止めた。
 今回の観劇では、そうした思惑が外れた場合の一端を窺い知ることができた。

おばあちゃんが亡くなる日に、たくさんの人が看取りに集まってきて、おばあちゃんの人柄がしのばれます。場面が過去にさかのぼる時に舞台がすばやく転換されるのが見ていて気持ち良く感じました。
 お話がすすんでいくうちに、このおばあちゃんの姿が樹木希林さんに重なって見えてきました。希林さんのことを思い出しながらお芝居を楽しみました。

私は7月例会のチラシを見た時、サブタイトル(縦書)「おとうふコーヒーは認知症に効くって本当・・・?」に惹かれました。
 第一回運サ5/27(金)夜、梅津氏より作品紹介を伺い、この作品は現在の社会問題を取り上げていると考え、例会までに会員数を+2とし、相方に努力しましょうねと伝えた。
 観劇は2回し、「おとうふコーヒーと孫は認知症に効く」という感想になりました。祖母(ふみ子)と孫とは、ある宿命を乗り越え、絆を結び、それらの影響が力となって介護支援者達が、ほんものになっていった介護所「おさんぽ」は私の将来の夢です。

「人生が終わる瞬間をどう迎えるか」後期高齢者になると、いつも頭の片すみで考えている。人の命の重みを考える時、その深さを痛感する。
 「おさんぽ」で働く人達の温かい気持ち、逝く人への思いやりが重苦しい空気をやわらげてくれる。そんな雰囲気に引き込まれていく舞台だった。
 時々驚くような奇声と早口のセリフには少しついていけない部分もあった。
 おとうふとコーヒーが認知症に良いかどうかは別として、孤独死が話題になる昨今、最後を見守ってくれる人の居ることが幸せなんだと心がほんわかとして、とても満足感いっぱいの舞台でした。

2017年9月認知症の永谷ふみ子さんの最期を迎えようとしている場面と、過去4年間が交差して進行している。この間に介護保険制度が変更になったが、特別養護老人施設「おさんぽ」の職員さんやボランティアさんが永谷さんや同じ認知症の元消防隊員の金山泰司さんへの接し方、特に永谷さんが認知症に効くという「おとうふ」と「コーヒー」を出してあげるタイミングは素晴らしかったです。
 2013年は「介護2」でも施設に入れたが今は「介護3」以上でなければ入れない。(介護度がそれ以上高くても希望者が多くては入れない)
 最期を迎えようとしている日にメガトン級の台風がきたが、職員・ボランティア・お医者さん達が集まって看送っている場面では涙が出ました。

よくある老人施設の話で利用者に対する職員の対応の仕方等がリアルに表現されていて、自分に置き換えて考えたりしました。
 「おとうふとコーヒー」を食べると認知症にならないと信じ、毎日おいしそうに食べる老婆や、今も若い頃の消防士のままでかくしゃくとして毎日を過ごしている認知症の老人はほほえましく感じて安心出来ました。

「おとうふコーヒー」の言葉から認知症の話を想像できませんでした。特養ホームの人間模様を沢山描き問題点を深めていましたが割合印象に残らず感動が少なかったように思いました。

徳島でみましたが冷房がききすぎ寒くてたまりませんでした。ひとりの老人が最後の時を迎えようとしている日から1年前、1年後、2年前、2年後と話が展開していく劇でした。
 民生委員と介護施設の人との関係など町内会長をしたこともあるので面白く見させてもらいました。
 ところで、おとうふもコーヒーも好きですが、認知症にきくのかな?いずれにせよ、これからもどちらも楽しみたいと思います。

舞台が老人ホーム、まさに“あるある”ですよね。
 施設職員やボランティア、利用者との交流や信頼関係など、まるで家庭を思わせるような強いつながり感じました。

今月の例会は、特別養護老人ホームでの内容でした。私も年齢的に該当していて、身につまされます。最後を迎えての場面で沢山の人々に見守られて―。私もそうあればうれしいと自分に置き換えていました。
 孫役の瑞樹さんの最初の語りに力強さを感じ、上手いなぁ~と思いました。最後の退場する時も前からサポートしていて、身についているのか?それとも演技なのか?と思ってしまいました。ただ、性同一生障害者役ということにも驚きですが、最近テレビなどでよくニュース、ドラマでも見聞きしていて驚きません。
 最後のカード、ポンポンに驚き喜ばれていて、市民劇場の最もいいところですね。9月例会のあんどうさくらさんのアルジャーノンに花束を、も楽しみです。

舞台は養護老人ホーム「おさんぽ」の集会室が中心となり、職員、栄養士やボランティアの交わりや優しさ、人間の心の交流、信頼、恋愛、おせっかいありのユーモアを交えた演技が優れていた。その中で台風襲来する外の様子が表現されて騒音と舞台の乱れや出演者のにぎやかな演技が心に残っている。その中で主人公の「おとうふ」と「コーヒー」のつながりがよく分かった。

特養の人気者で孫からも一番頼りにされていたふみ子婆さん!認知症も進む。
 最初、全面白ずくめの脳内表現や、台風襲来の大騒ぎの場面から始まり、順次思い出の時間を逆回転させる演出で、緊張感のある力作舞台であった。
 この劇に登場する人は皆いい人達ばかりで、所長・職員・ボランティアの奮闘、気使いおせっかいは曇りなく、甘くなく滋養に富み、常日頃の「おとうふコーヒー」のように素晴らしい。ふみ子さんも最後まで家族を思い、お世話に感謝し朗らかに過ごす。また若い人達が、自分の過去や欠点に悩みながらも、人に役立つ喜びを感じ、積極的に介護に参加していく姿は感動的であった。現実の世の中でもこうあって欲しい。
 臨終の場で「見る人には呼吸苦しそうに見えるが、本人はもう苦しいことありません。」に安心したし、又フィナーレ後の最後の劇団挨拶「これからどんな世の中になるかわからないですが、“がんばって”です。」が今日のまとめの様で印象的だった。

舞台は、特別養護老人ホーム「おさんぽ」。大型の台風で橋が冠水し交通が断たれる中、認知症の利用者ふみ子さんの看取りの夜に集まる人たち。台風の最中の看取りの夜を中心に、過去のエピソードとの場面転換を繰り返しながら、ふみ子さんとその孫、瑞樹との交流を中心に各々の登場人物たちの思いが語られ話は進んでゆく・・・。吉本新喜劇ばりのテンポの良いやり取りがあるかと思えば、瑞樹のトランスジェンダーが故の苦悩が語られたり・・・。でも、最後はふみ子さんの「頑張って」の言葉に勇気づけられる心に残るお芝居でした。それにしても、利用者のみならず、職員やボランティア、民生委員や医師までも、自分の居場所を見いだせる「おさんぽ」みたいな施設に私も入りたいです!

主人公ふみ子さんの看取りのお話。看取りの場面を、冷静に見ることが出来るのだろうかと、実はとても不安でした。いずれは自分にも訪れる最期の時、何を感じながら舞台を観るのだろうかと。       
 とても温かい気持ちになれる内容でした。認知症になっていても、人としての尊厳を大切にしてもらえる、「おさんぽ」のような施設が現実に数多くあったらどんなにいいだろうなと。
 自分自身が、多くの人に看取ってもらえる、一緒に最後の時間を過ごしたいと思ってもらえる人でいたいなあと思いました。

白くふわっとした感じの中で語りだす彼。これってなんだろうと興味をそそられるオープニング。実は、事前に観たDVDはこの部分が強烈に残っていて、他の部分はあまり印象が残りませんでした。さしずめ誰かの脳の中??あ~この子のおばあちゃんの脳の中なんだ~。ラストもそのシーンで終わり、脳のなせることのお芝居なのかと思っていました。
 でも、今回生でこのお芝居を観ると、役者一人一人の生の声が心に響いてくるものがあり、特に、ふみ子さんと孫が久しぶりに会うシーンでは、孫の瑞樹が性同一障害を告白するというセリフが私には重く心に突き刺さりました。例会前のインタビューでは、瑞樹役を演じた齋藤千裕さんから、自身も性同一性障害なのだが、この劇団に入ってお芝居にでてくる「おさんぽ」と同じように自分を扱ってくれる劇団に感謝していると聞きました。まだまだ理解されにくい障害の一つです。今までいろんな障害の方と接することが多い私は、今回もインタビューで直接声を聞けたことにより、また一つ考えさせられました。もっともっと勉強していかないと、と思いました。
 私は、介護職を経験し、終末期介護(ターミナル介護)も経験しました。現在まさに介護を考えている最中で、頷くところが多いお芝居でした。こうでありたいターミナルケアですが、環境によってはそれができない状況もあることは十分理解できます。でも、その人の最後は自分で決められたら一番いいことだと、また改めて感じました。
 今回の例会は、特に観た人の感想が違っていい、それが人なんだと思います。

ふみ子さんの飲むコーヒー。とてもおいしそうでした。早速、帰宅して挽きたてを飲みたくなりました。
 ただ、一幕2時間の長丁場は、座席の堅さが身にこたえました。役者さんの熱演には感動しました。

おとうふコーヒー・・・この題名と認知症とどう関わっているのか興味がありました。
 特別養護老人ホーム・・・「おさんぽ」のようなところがあったらいいのにと思います。
 いろんな現代が抱える社会問題が盛りだくさんで、詰め込みすぎ?とも思いましたが、重い題材なのに明るい気持ちで見られたのは良かったです。最期の息を引き取る間際の先生の言葉を聞いて、なんだか看取ることがこわくなくなった気がします。
 初めて見た演劇が銅鑼、いつも心の中に何かを残してくれます。がんばって、しっかり生きていこうと思います。


(お)おかしいなあ。今日の舞台は全て白い布で覆われている。これは一体???
(と)と思っていたら、ここは瑞樹という若者の祖母の脳の中らしい。そしてその若者は「認知症はなぜ起こるか」について語り始めた。不思議な物語の始まり・・・。
(う)うしろ中央の舞台には大きなカレンダーの張り紙が。というか、数字で年月日を表しているだけ。ある意味、凄い手抜きの舞台背景。今回の舞台は場面が過去4年間と現代を交差する物語。それを表すのに一枚の紙の変換で行う。変えるのは年代の数字のみ。日付はずっと9月17日のまんま。舞台を暗転させている間にベッドと机イスを少しだけ動かして、特別老人ホーム「おさんぽ」の集会室を作り上げる。紙一枚で時代変換ができるなんて、なんと面白いやり方だこと!しかし、
(ふ)複雑なのは舞台で展開される内容。ただの特別養護老人ホームでの人の看取りではない。老人が最後の時を迎えるまでには同じホームの同居人も含めて認知症の問題が見え隠れしていた。また、その日はメガトン級の台風が襲来し、橋の冠水により、ホームは孤立無援になっていた。その上、その最後の時を迎えようとしている老婆の元には、裏山を越えて泥だらけになりながら駆けつけた孫娘の瑞樹ただ一人。その孫娘には性同一性障害という問題が!
(コー)「コーヒー」と「お豆腐」が認知症予防にいいと聞いて以来、それしか食べなくなったホーム利用者の一人であり、今正に最後の時を迎えようとしているのは永谷ふみ子さんというおばあちゃん。孫娘瑞樹からの告白は晴天の霹靂であったことだろう。わかってもらいたい孫娘と大好きな孫娘からの予期せぬ告白を聞き、戸惑う祖母。
(ヒー)ヒートアップしてきてこれからどうなるの?と気が気でなくなっていたら、認知症のおばあちゃんの方が急に冷めて、いつもの優しいおっとりとした祖母に戻っていく。小さい頃から可愛がってきた孫娘からいきなり「僕は男になりたい。僕の心は男なんだ!」と告白され、すぐに「はいそうですか」とは誰しも言えないし、納得もできないであろう。しかし、彼女は、愛する孫を陰では理解していたようだ。ラストの場面で、祖母が亡くなったあと、瑞樹は心だけでなく、身体も男になる決心をし、静かに眠る祖母にそう伝えて幕が閉じた。
 今回の認知症患者で特養の住人の永谷ふみ子さんは、明るい性格で施設の人気者であったそうです。認知症を患っていたとはいえ、彼女に話を聞いてもらっていると、いつの間にか、その悩みが消えていく、そういう聞き方のできる懐深いおばあちゃんでした。いつも笑顔で、気さくで、だから施設のみんなで彼女を送りたいと思い、集まってきた職員やボランティアたち・・・。命とは自分が持っている生きている間の時間だそうです。そうなら、自分時間を素敵に生きたいですよね。楽しく笑って、周りにも幸せをお裾分けしつつ、そんな人生っていいですよね。なかなかできませんが、私もおばあちゃんを見習って、せいぜい家族を笑顔にしていきたいです。

鳴門例会カーテンコール

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nrt-geki@mc.pikara.ne.jp
まで。