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アルジャーノンに花束を

劇団昴公演

鳴門市民劇場9月例会
 2022年9月8日(木)
 感想集


鳴門例会カーテンコール

今回のお芝居は大変難しい内容でした。脳の手術を行い、そして知能指数をアップするという内容。私は脳の手術と聞けば、失敗すれば下半身不随、寝たきり等が思い浮かぶ。主人公のチャーリイはアルジャーノンとの競争に負け、手術することを選ぶ。彼の友達より優秀な頭脳IQになった。友達関係も、優秀になったがゆえにギクシャクする。優秀になったチャーリイの変貌ぶりには、不安感を抱えながらも拍手してしまう。でも、こんなことが幸せに通じるのかと自問すると、やはり疑問を感じる。優秀なことが人生で大切なのだろうか?ほかの選択肢はないのかと。また、心の中に残るセリフがある。お芝居の途中で「人生とは迷路箱のようなもの」まったくその通りで、人は迷いながら自分の人生の方向を決めている。チャーリイも最後は元の自分を選択した。チャーリイの結論に対する感想は、やはりそうなるのか。ハッピーエンドと思いますか?

「頭が良くなれば、もっとみんなと仲良くなれるんじゃないか」と思って手術を受けたチャーリイ。彼はみるみるうちに知能を高めますが、当初の思いとは逆に友達を失い、孤立してしまいます。自分でも気がつかないうちに、人を見下すようになってしまいます。学ぶこと、知らない世界を知ることの尊さ、それと同時に他者への「共感する心」を忘れないことの大切さをチャーリイから感じました。ありのままの自分を受け入れてくれる居心地の良い場所は、あの「パン屋」かもしれません。
 舞台設定やセリフのキャッチボールがとてもすばらしく、特に、一場面にいくつもの場所の設定が小道具ひとつで表現されており、見入ってしまいました。

原作を読んでいたので、これを舞台化するのは難しいと思っていました。しかし、よく内容が伝わるように演じていたので感激しました。


(1)前世紀半ばの人気SF小説が原作らしいが、遺伝子操作やSP細胞が常識化している現代で、全く違和感なく考えさせられた。“知能の発達!”、誰もが賢い人間になりたいと望むものではあるが、人工的に異常発達させて、果たして幸せな人生、幸せな社会になるのであろうか? 結論的には、自然に湧き上がる感情、周辺への思いやりや調和力なしでは、人生は行詰まってしまう、との強いメッセージであったと思う。
(2)一幕目は、脳科学の説明で話の筋を追うのが精いっぱいであった。二幕目からはアルジャーノンを抱いて天才チャーリイの逃避行。人体実験の最終結果は自分の天才能でしか解明できないと思い込み、教授たちの名誉欲に反発を感じながら・・・。舞台的にはここからダイナミックな見せ場・・・。自由奔放感情のアパートの隣人画家、昔通った学校の先生への恋、性感情の芽生え、まったく環境が違ってしまった貧しい父母への期待とあきらめ等々・・・。心に違和感、孤独感を感じながら現実社会に向き合い研究に注力する。
(3)アルジャーノンの凶暴化とともに、自己脳力の衰えを感じつつ、元々のパン職場仲間に「昔のままのチャーリイだよ」とすり寄っていく。今は昔のことは全く忘れ去り、昔仲間と屈託なく陽気に汗を流すチャーリイ。 この表題が、主役のチャーリイでなく何故「アルジャーノンに花束を」なのか? はじめ、ピンとこなかったが、まだ天才だった彼はアルジャーノンの生体解剖を必死に拒否し、庭に葬り、教授たちに「花束を供えて下さい」と懇願したそうな。最終、実に切ない、悲しい物語であった。

「天才的な頭脳」を手に入れたチャーリイが、自信に満ち溢れ別人のようにみえた。しかし実際は、得たもの以上に失ったものの方が多かった。判断する基準は、人それぞれ違うだろうが、よく考えリスクもあることも視点に決断しなければ、とチャーリイが教えてくれた。そして本当に大切なものに気づく事こそ人生を豊かにしてくれたりする。どんなに科学技術が進歩しようとも、人の感情や生命をコントロールするような「神の領域」に踏み込んではいけないのかも、と思った。

SFベストセラー小説の舞台化ということでとても楽しみにしていました。実際、今まで夢のような話が次々と実現化されているので、こわいようなワクワクするような気持ちです。でも、人に関することは物と同じ訳にはいかないのでは、と思います。 良いお芝居でした。

ドラマは観たことあったけど舞台は初。ストーリーは一緒の、全く違った作品のようでした。 場面の切り替えがスムーズで分かりやすくて見入ってました。長ゼリフがとても聞き取りやすくよかったです。

小学生ほどの知能しかないチャーリイが、手術によって高い知能を得ていく様子、そしてまた元のチャーリイに戻っていく様子が、チャーリイを演じた町屋圭祐さんの演技で、とてもよく分かりました。歩き方やちょっとしたしぐさまでよく表現できていて、うまいなあと思いました。
 終わった後に、チャーリイもアルジャーノンも、やっぱり生まれたままの姿で生きることが幸せなんだなあと感じました。チャーリイが元の生活にもどれて本当に良かった。また、死んでしまったアルジャーノンには心の中で花束を贈りました。

チャーリイは無邪気な明るく優しい子ではあったが、皆に散々馬鹿にされた記憶から抜けだしたい思いでいた。 当時、中枢神経系の働きを研究していた医学部教授が「迷路への到達力を伸ばし、到達時間を短くするネズミの実験」に着手し、ネズミと競って到達時間を短くする人を探していた。実験台即ちIQの低いチャーリイが人体実験者となった時、希望ができたチャーリイと出会いがあった教授・博士らは大喜びで、このプロジェクトは始まり、結果は大成功だった。
 しかし、チャーリイの身内、彼を取り巻く先生や職場の友達に大波乱が起こった。
 舞台の各所でみられた転回のための転換がとても早わざでお見事。人間模様がまさに様々でとても奥深く、最後に主役の方、人間のうちなるものが変化して転換してゆく、ゆるく始まって全く変わってしまう鮮やかさは圧巻!!

人間、自分なりに自分らしく生きるのが、いちばん幸せだと思った。

前回に観た「アルジャーノンに花束を」とテレビで観たものと3回目になりますが、演出者が変わると、こうも違うのかと思うくらい、3作品ともずいぶん感じが違っていました。
 今回は、手術後の話が長く、チャーリイを取り巻く人物も多く登場して、楽しい舞台でした。

19歳の孫と80歳の私、80ちょっとの婆ちゃんの3人で観ました。3人とも「とても面白かった」です。孫は、チャーリイを演じた役者さんは細かい表情まで演じていて「すごい」と言っていました。 2人の婆ちゃんには難しかった。でも考えてみると「頭のいい人と、そうでない人の世間の評価・偏見がいかん」「教育の問題かな」という意見でした。それと、ずっと前に市民劇場で観たことがあるが、今回2度目で観ると先見性があった作品かなと思う。今、よくロボットに仕事をさせるとかAI(人工知能)の素晴らしさを言うが、チャーリイを観ていて、人間であること人間には色々な人がいて、お互い認め合って人間世界なのだということを大切にしていかないといけないんだと思いました。

昔、観たはずなのに・・・、こんな演出だったっけ? チャーリイが舞台上でピアノを弾き、芸術家肌のセクシーな女優の登場。その意味、新鮮で、圧倒されました♪ 母、妹、父など展開も重層で、何もかも、てんこ盛り。ついて行くのがやっとでした(^^;) 最後に、チャーリイと研究所助手との出会いと別れでの変な「握手」に、彼らだけの意思疎通を感じました。 積読で、家の迷子になっている、原本を探さなくては!

徳島で、夫婦で楽しく観劇しました。「アルジャーノンに花束を」は、かつて劇や映画(ドラマだったかも)で観たことがあります。
 チャーリイ役の演技(特に変わり身)が素晴らしかったです。
 また、何が幸せかを考えさせられました。
 なお、前例会の色紙が当たり頂きました。ありがとうございました。出し続けると当たるものですね。

今回の感想文は、すぐにスラスラ書けると思っていたのに、なかなか書き進まなくて困りました。チャーリー役の町屋圭祐さんの演技はすごいと思って見入っていました。前半の知能の低い時、それから人類初の実験台に選ばれてからの後半のストーリーにどうなんだろうとワクワクして観ていました。そして最後はハッピーで終わってよかったです。

知的障がいを持ち純真無垢なチャーリィ・ゴードンはパン屋で働くかたわら、知的障がい者センターに通っている。ある日、センターの担任アリス・キニオンから新しく開発された脳手術を受けるよう勧められる。その後、チャーリィは、大学で脳手術により驚異的に知能が向上したハツカネズミのアルジャーノンと出逢い、自身の手術の成功を経てわずか数ヶ月でIQが185を超える天才となったものの、やがて自分より能力の低い者を見下すようになり、孤立していく。孤独なチャーリィは大学からアルジャーノンを連れ出し、とあるアパートに身を隠すのだが、そこで自由奔放な女性フェイ・リルマンと出会い、気になる存在に・・・。チャーリィはアリスとフェイ、2人の女性と恋愛関係になるが、フェイがありのままのチャーリィを受け入れるのに対して、アリスは手術によって変貌したチャーリィを愛していたように思う。「その体から子供のチャーリィを追い出して・・・。うすのろなチャーリィを殺してちょうだい!」というアリスの悲痛な叫びのような台詞はかなり衝撃的だった。最終的に、チャーリィは手術の効果が薄れて、元の知的障がいのある姿に戻りパン屋に姿を現す。そんなチャーリィをパン屋の主人と同僚達が快く受け入れる場面では、人の幸福とは地位や名誉ではないと改めて感じたところではあるが、2人の女性との恋愛がその後どうなったのかは舞台で語られることはなく、そこが一番気になるところである。さらに、研究所やアパートの部屋など各場面は勿論のこと、チャーリィの深層心理や回想シーンなど複雑な場面展開が、比較的シンプルなセットの中に小道具や家具を効果的に配置することでうまく表現されていた点も非常に興味深かった。

チャーリーの純粋さをよく熱演できていました。スピーディーに場面が入れ替わり、一人一人の個性がよく出ており素晴らしかったです。

主演俳優の演技が最初から最後まで素晴らしくて見入ってしまった。 舞台の中心にある鉄格子のような扉一枚がストーリーとつながって、場面場面で“精神病院の金網のガラス戸” “海外の治安の悪いアパートの格子戸”など、リアル感を出しており、非常に良い演出でした。
 最後に主人公が元の職場に戻り、結果的にあるべき姿に戻ったのは、賛否両論あると思うが、とてもよかった。

劇団昴で、アルジャーノンに花束を。
 「幸せ」とは。
 頭は、悪いよりいい方がいいだろうし、あの人のようになれればと他人を羨ましいとこの歳になっても思ったり。でも私は私。忘れん坊で頭も要領も悪く、人から見たらつまらない生き方かもしれない。でも、今の自分を幸せだと感じられる。それでいんだと思う。

ドラマ版は主演が違うものも観て、映画も観て、と「アルジャーノンに花束を」は私にとってストーリーが分かりきっている例会でした。なので、例会に向けての学習をしなかったのですが、劇団昴は初めて観る公演なのでちょっと先に「評決」という別作品を鑑賞しました。これが、役者の素晴らしさも凄かったのですが、舞台転換がとにかく面白かったです。
 それがまた、この「アルジャーノンに花束を」も舞台転換が上手・下手・センターと照明や演じる役者によって場面転換が上手くできていて、飽きさせないお芝居でした。過去の回想シーンでパネル奥だけで演じた時は特に迫力あるお芝居でした。町屋さんを筆頭に演じる役者さんも声の張った素晴らしい演技をされる方ばかりで、映画やドラマでは感じられない生のお芝居の良さを実感させられた作品でした。途中迫力がありすぎて怖くも感じましたが、最後笑顔のチャーリーを見られて良かったです。

「正常ってなに?」「異常ってなに?」「普通ってなに?」「普通じゃないってなに?」「“病気”ってなに?」「“病気をなおす”ってどういうこと?」「際限なくたくさんのことを知ることは、いいこと?」「できないことがあるのは、悪いこと?」「本当の優しさってなに?」「本当の思いやりってなに?」「プライドってなに?」「優越感ってなに?」「劣等感ってなに?」「相手のなにを見て愛する?」「相手のなにを見て仲間意識をもつ?」「相手のなにを見て尊敬する?」「相手のなにを見て軽蔑する?」「医学研究のゴールはなに?」「(研究)探求心と倫理観は共存できる?」
 こんな疑問符が山のように積み重なりそして矢のように心に突き刺さってくる、“痛い芝居”でした。 そして「私は他人と区別(差別)することで生じる小さな優越感を生きるモチベーションにしていないか」「自分を含めて真の意味で“個性”を尊重・許容できているか」という苦しい自問にもつながりました。
 いまだ、どの疑問にも答は出ていません。多分納得できる答が出ることはこの先もないかもしれません。 そんな、どうしようもなく重い、作品でした。でも(正直には2回目を観てやっとですが)何故だかクライマックス近くでは目頭が熱くなりました。 観方によっては不幸な結末ともいえる「退行」(受けた手術失敗)したチャーリイの姿を見て…です。
 何故だろう…。 これにも本当の答は出ていませんが、単純に「チャーリイ(と、周りのひとたち)が幸せに見えたから」かもしれません。あくまでも、どこまで行っても、第三者的みかたであることを否めませんが、それでも、私は最後に少なからず救われた。
 もしかして、ひとの幸せは、どれだけ周りの人を幸せな気持ちにできるか…なのかもしれません。そういうことを思いました。
 この話は“ハッピイエンド”であると、今は、思いたいです。身を挺してさまざまなことを教えてくれたアルジャーノンとチャーリイに花束を贈りたいと心から思いました。

鳴門例会カーテンコール

「アルジャーノンに花束を」~一度は観るべき舞台~
 正直に言って、観たあとにこれほど考えがまとまらないことは今までありませんでした。
 「幸せとは何だろう」という問いかけには、そもそも普遍的な答えなどなく、それぞれが考えるべきことなのはわかります。
 チャーリィは、「頭が良くなりたい」と願っていた頃は周囲からも好意的に扱われ、幸せを感じていたように見えます。ところが、望みどおりにIQが向上してからは傲慢な人間とみなされ、自分にとって知りたくなかったことまでが明瞭になり苦しみます(役者さんの人格表現は見事でしたね)。
 ひとから大切にされているように見えても、それは友情ではなく同情なのかもしれません。敬遠されているように見えても、それは嫉妬なのかもしれません。それほどに人間関係は複雑なのだと感じされましたが、最後に子供ほどの知能に戻ってしまったチャーリィの「アルジャーノンのお墓に花束を供えてあげて」という言葉を聞くと、結局はありのままであることが幸せなのかな、と思わされました。
 このお芝居が好きでも、もし好きになれなくても、一度は観て、色々と思いを巡らせる価値があると思いました。

「アルジャーノンに花束を」は30年ぐらい前始めて読んで大好きな作品だったので楽しみにしていました。 チャーリイの人生の変わり方は少しだけ高校に入る前と入ってからの私、就職してからの生き方に似ているな!と思うところがあります。またこの作品に触れる度そう感じてしまいます。

演者の皆様の素晴らしい演技に引き込まれつつ、チャーリイに向けられる周囲の優しさや嫉妬には考えさせられました。
 人は弱者にしか優しさを持てないのか…愛情や友情は何なのか?心に訴えかけられる作品でした。

今回は障がいのある人への考え方を変えるような作品でした。
 最後のワンシーンですが、もとに戻ったことを「病気が治った」と表現されていたこと、会場からはなぜか笑いがおこっていましたが、本人にとってはそれが個性のひとつであったということが衝撃的でした。
 たしかに障がいが治って活躍していく姿が今回の作品の面白いところではありましたが、前述しました点も印象に残っています。

とても緊張感のあるお芝居で時間を忘れ見入ってしまいました。

早い展開、また辛い場面が多く、こんなことはあり得ないと分かっていても、とても重くのしかかってきて、観劇後、大変疲れていました。
 ただ、幸せな結末はほっとしたので良かったです。

一言でいえば、難解な演劇でした。観劇を重ねれば原作の意味、メッセージが伝わると感じました。何某かの人生観を表現したかったと思いますが、私には未だ難解でした。

今回の観劇「アルジャーノンに花束を」は、開演と同時に「難解の世界」へと引きずり込まれた感覚に囚われました。それ程に、劇を観終わった後でも、全くと言っていい程にこの演劇のテーマや意図するところを私自身が理解できずに劇場を後にするという、鳴門市民劇場に入会して初めて経験での混乱した精神状態でした。
 その後、この劇の意味するものは何かと、自問自答する日々を送りながら、その中で私なりの今回の演劇の意味というモノを見出すことができ、やっとの思いでこの感想文に向き合うことができました。
 先ずは、いつもの如く、観客席に着座し、舞台に視線を移すと、その時の第一印象は「えっ?これが今日の舞台なの?」という目の前の何とも言えないほどの簡素な舞台セットでした。そこには、碁盤の目のフロアと簡素な扉と上げ下げ窓が設置されているのみで、これだけの情報ではこれから始まる劇を予想することすら私にとっては困難を極めました。
 その後、唐突に舞台は動き出し、それでも私には「理解不能」の四文字が脳裏に浮かんでは消えの困惑した状態でした。さらに、その精神状態に追い打ちをかけるが如く、唐突に舞台情景が入れ替わり、そして短い演技の後に、再び唐突に別の情景へと移り変わる速さに、私の理解度をはるかに超えた変化で、これも戸惑う要因の一つなのだと感じました。
 つまりは、舞台上の情景が目まぐるしく入れ替わるので、私の理解が追い付いて行くことができずに、そのことが「理解不能」の四文字が私の中で肥大して行ったのだと、冷静さを取り戻した今でなら得心がいきました。
 さて、それでは今回の「アルジャーノンに花束を」のテーマとも言うべき、意味するところを、私なりに考え得た解釈について話を進めたいと思います。今回の観劇の主たるテーマが「知能」であることは、誰もが疑いの余地が無いと思います。そして、「頭が良い(= 知能が高い)」がよしとされる現在の人間社会において、知能の低い者が受ける差別や嘲りは、近年社会問題となっている「虐め(= ハラスメント)」に他なりません。今回の主たるテーマは、その「知能が高い低い」事がもたらす明暗について、観客ひとりひとりが考える機会を与えてくれたのではないかと、私は捉えました。
 知能が高くなる脳外手術を受けたチャーリイは、知能が低かった以前のチャーリイとは別人の如く、見える世界がドラスティックに変化しました。そのことで得られたものは、賞賛と名声だったのでしょう。ただ、その知能の向上の速度に、チャーリイの情緒面での成長が追い付いて行かず、そこにチャーリイ自身の精神の不調を引き起こしたのは想像に難くありません。一般論ですが、私も含めて人間という代物は、知能が高いのが偉いのだと刷り込まれているところがあり、頭がいいことを鼻にかけ自分より知能で劣る者に対する見下しや排除をしてしまいがちです。そこで、人として成長する為には、IQのみならず他人の感情を感じ取る能力などのEQを高めることが必要なってくるのではと思います。そして、高いEQを持ち得る人としての健全な情緒形成には、時間を要するものであり、そこには人と人との肌の触れ合いや日常での何気ない会話、そして共感力が必要になってくるのだと私は考えます。ですから、幾ら知能が向上しても、情緒面での成長が無ければ、その偏りのある状態からは、決して人間的な魅力は醸し出せないのではと思いました。
 一方、知能偏重のチャーリイとは対極にあるのが、フェイ・リルマンなのでしょう。彼女は、気持ちの赴くまま、自由奔放な生き方で、チャーリイから見ると眩しい程の魅力を放っていたのではと、わたしは想像しました。ただ、フェイ・リルマンも感情の赴くままに行動するという事から、やはり人間として偏重なのかとも思います。
 そして、この二人の人物像から、知育偏重な育成や、他方での放任的な育成は、結局には偏重な人間形成に至る危険性を孕んでいるのではと考えました。それらのことから、IQとEQの双方ともがバランス良く健全に育て形成されなければならないと、今回の観劇から感じ取りました。とは言え、私の周りを見渡しても、私自身をも含めて偏りのない人間なんて誰一人として存在しないのですから、やはりその人個人としての魅力は、その微妙な偏りにあるのではとも思いました。
 それでは、紙面の都合もあるので、最後に反面教師として心に留めておかなければならないと私が感じた場面についてお話しして、筆を擱きたいと思います。
 それは、舞台の最後に、知能の低い元の状態に戻ったチャーリイに対する態度として、ギンピィ、ジョウ・カープ、そしてフランク・ライリイらの元同僚が、知能が高い時のチャーリイに接していた厭う態度から手のひらを返したように親密に接する情景を観て、私自身が何とも言えないモヤモヤ感を持ったことです。これは、自身よりも劣っていると判断した相手へは優越感を持って接し、かたや自身より上と見える相手に対しては敵対心を抱いて嫌味を言い放つ態度で接する、それは言い換えれば相手の優劣によって態度を変える卑怯者と言えるかと思います。つまりは、チャーリイの知能が高かろうが低かろうが、そんな事とは関係なしに同じ人間として何故接することができないのかという怒りにも似た感情です。もちろん、私自身を俯瞰的に冷静に見つめてみると、やはり彼の同僚と同じ態度や扱いをしてしまうかもしれないのは否定できません。ですから、彼らを非難することもできないのではないかとも思い、とても複雑且つ自身への憤りの様なものをも感じ取りました。そこで、この情景を心に留めておき、私自身が他者に対してぞんざいな扱いをしそうになった時には、この情景を思い出し、そして私自身への戒めとしての反面教師にしたいと思いました。


(ア)あなたは今、幸せですか?幸せって何で決まるのでしょうか。考えさせられるストーリーでしたね。さあ、それでは物語を振り返ってみましょう。 大学のエライ先生方の手によって、人類初の実験台になったチャーリイ。手術後の自分がどうなるかわからないのに、無謀にも挑戦してしまったチャーリイ。
(ル)類がない、先例がない!だからこそ、そんな実験をやりたがる大学教授達。そんな危ない人体実験に、自分を差し出してしまったチャーリイ。一体どうなるの?
(ジ)自分がどんどん賢くなっていき、32年間の人生で体験してこなかったことを一気に学んでいくチャーリイ。そんな知能の向上は、彼にとっても教授陣にとっても驚きの連続だった。彼はどんどん学習にのめり込み、急激に成長していく。
(ヤー)やーい、やい、大学の先生方よお!あんた達には彼の急激な変化が、彼を追い詰めて苦しめているのがわかっているのか!あんた達には倫理観も何もないのか!彼はかつての同僚が自分をいじめていた事実を知り、両親の気持ちや妹の気持ちを知り、大いに失望し、傷ついている。これほど残酷な真実を知ることがあっていいのか。知能だけが発達し、心の発達はそれについていけていないというのに。
(ノン)飲んだくれて、酔い潰れて、何もかも忘れることができればよかったものを、いつもそこには自分を見つめるかつての小さなチャーリイがいて、とことん何かにのめり込むことができない今のチャーリイ。だからこそ、ダメ!拒否しないで!彼をちゃんと見てあげて!お父さんもお母さんも、チャーリイのことを思い出してあげて!優しく抱きしめてあげて!
(に)日記のように、自分の変化をノートに書き留めたり、ボイスレコーダー(?)に入れたりするチャーリイの姿を見て、どこまで変化をとげれば終わりになるの?と思って
(は)はがゆくなっていたら、先に手術を受けたネズミのアルジャーノンが死んでしまった。それも知能の退行現象という姿をさらして死んでいった。その死に様を見て、自分の行く末を知ってしまったチャーリイ。
(な)なんと残酷な未来であることよ。ということは、チャーリイも、どんどん知能が低下し、最後には死んでいってしまうのか?そんな、まさか!
(た)たった一つの救い、それはチャーリイが元の彼に戻ったこと、元の居場所に戻ったこと、だ。すっかりいかつさが抜け、いつもの笑顔が絶えない優しい彼がそこにいた。
(ば)「場」、一言で言うと簡単だけど、自分の居場所を見つけることは、本当は大変な労力を要するのかも知れない。人は皆、自分の居場所を探して、最後まで、もがき続けながら生きていくのかもしれないなあ。自分探しの旅。言うは安し、行うは難し。
(を)あなたを、彼を、彼女を、みんなを、私自身を、ちょっとでも生きやすいように、お互いに助け合って、笑い合って、心穏やかに生きていきたいものだとつくづく思う。

古い作品に新しい単語を盛り込むと、まさに今の話ですね。身近な話題、身体の長生きだけでなく、心身ともにあっての幸せの提供、かと思いました。昔から、功名心にかられた行きすぎた医療に、警鐘をならしていたんですね。医薬品開発に関わる立場からも感じた感想です。
 そして、今回十数年ぶりに再入会したのですが、やはり、生は良かったです。懐かしい皆さんにも実際に会えましたし(笑)。

世の中には天才と言われる人がいる。頭がいい人はたくさんいるが、天才はそうはいない。身近でそんな人がいたかというと高校の同級生を思い出した。誰も解けそうにない数学の難問を簡単に解いていた。ずいぶん昔の話なので記憶が定かではないが、彼に数学の超難問をどうやって解くのか聞いたことがある。「数学はどんな問題でも一定のパターンがあり、数パターンに集約される。どのパターンに当てはまるかを見つければ答えに導ける。」と言っていたのを思い出した。これを聞いて、天才は異次元の人だとわかった。彼は東大理1に合格したが、その後天文学を学び国立天文台長になり、天文学の分野で活躍していたことを最近知った。無邪気な青年から天才になったチャーリィ演じる町屋さんの素晴らしい演技を見て、遥かかなたの昔のことを思い出した。

60年以上前に書かれたと思えないほど、瑞々しく心に吹き抜けたお話でした。帰ってすぐにネットで調べ、日本のドラマがある事を知り早速見てがっかり。なぜかお芝居で観たような感動がない。演者の醸し出す清らかさを感じない。 鳴門市民劇場に参加させてもらって一年足らずですが、舞台の面白さが少しわかった気がしました。

この作品を数年前近畿の鑑賞会で観せていただいていたので、今回で2回目の観劇でした。2回観劇したことで、話の内容を深く理解することが出来たように感じます。
 特に、終盤近くでチャーリーがパン屋のみんなに受け入れられる場面で感じたことが、前回とは違いました。前回はパン屋の仲間が、手放しにチャーリーが戻ってきたことを喜んで受け入れているように見えるけど、内心は自分達よりレベルが下だと思っているチャーリーが戻ってきたことを喜んでいるのでは?と思っていました。今回は、頭と心がバラバラのチャーリーの苦悩する姿に心が苦しくなり、天才から元通りのチャーリーに戻ったことを素直に喜んで受け入れているパン屋の仲間たち、そして元の場所に受け入れられたことを嬉しいと感じるチャーリーを見て、“戻れる場所があってよかったなあ”と、私自身も一緒に喜びを感じました。アルジャーノンの最期を考えると、その後がどうなるのかと胸が苦しくなりますが。 その人が過ごした時間が人格を作っていく、人との出会いが人を育てていく、同じ時間を過ごすことで仲間との絆を深めていく。簡単に天才になっても、単純にしあわせにはなれない。
 「アルジャーノンに花束を」というタイトルの意味も深いですね。アルジャーノン(=チャーリー)が存在したこと、存在した意味を忘れないでいてほしい、というチャーリーの願いが込められているのでは?と思いました。
 “小さな幸せは、日々たくさんある”と、当たり前のことに気づかせてもらいました。

鳴門例会カーテンコール

E-mailでのお問い合わせは、        鳴門市民劇場ホームページ
nrt-geki@mc.pikara.ne.jp
まで。