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クリスマス・キャロル

劇団昴公演

鳴門市民劇11月例会
 2023年12月27日(水)
 感想集


鳴門例会カーテンコール


(ク)苦しくなったり、悲しくなったり、心乱れるニュースの多かったこの1年でしたが、この徳島の地には市民劇場がいつも通りにやって来てくれました。11月例会も、延期はされましたが、1ヶ月後には再開の運びとなりましたよね。
(リ)リスクを顧みず、ここ徳島の地に再度足を運んでくださった劇団昴の皆さん、本当にありがとうございます。公演が再開されるというメールが回ってきたとき、どんなに嬉しかったことでしょう。すぐにサークルのメンバー全員に知らせました。
(ス)スケジュール調整が大変だったことでしょう。でも、そこを押して来てくださいました。劇団昴の皆さん、再度のお越しを本当にありがとうございました。
(マ)参ったのは、劇中で歌われた、ティムのあの「きよしこの夜」です。まっすぐで、伸びやかで、清らかで、素直な声が、私達全会員の心をわしづかみにしました。なんと素敵な賛美歌!さて、舞台でのお話はと言うと…
(ス)スクルージの金、金亡者の心を溶かすに十分な周りの人々の温かさを見せてくれた精霊たち。どんなにスクルージから邪険にされてもクリスマスには自宅に招待しようとする甥っ子のフレッドに、ケチなスクルージから1週15シリングで雇われているにも関わらず、クリスマスにはスクルージの健康を家族で祈り乾杯をする書記のボブ・クラチット。自分がどんなにひどいことをしても、自分のことを思って祈ってくれていたことを知ったスクルージ、きっとたまらなかったことでしょうねえ。そして、見せつけられる過去に自分が入って行けたなら、きっとそばに行って心から懺悔したことでしょう。
(キ)嫌われても嫌われても金、金、金と、お金に執着して生きてきたスクルージ。自分自身もドケチ生活を続け、さらにお金を貯めようとするスクルージ。でも、そんなスクルージにだって、純粋で優しい子供時代があり、恋に喜びを感じた青年時代もあったことも知りました。どこでどう間違ったのでしょうか、彼の生き方は。悲しいですねえ…
(ヤ)役の中に今回は進行役という3人の登場人物がいました。最初に徳島の事を取り入れたストーリー展開をしてくれたこと、なんだか、とても嬉しかったです。
(ロ)ローカルな徳島は、県外の方達の知名度が低く、それだけに寂しい思いをすることがよくありましたが、こんな舞台上でさらっと取り入れて頂けると、それだけで笑みがこぼれます。こういう演出も嬉しいものですね。
(ル)るんるん、という心の声が聞こえてきそうなスクルージのラストシーンで終われて本当に良かったです。チャールズ・ディケンズの「クリスマス・キャロル」は子供の頃、読んだ記憶がありましたが、精霊のシーンがどのように演じられるのか、ドキドキしながら見ていました。カーテンやついたてを上手く使い、それぞれの時代の見せ場を、同じ役者が違う役柄にさっとスイッチしていく早業にも感心してしまいました。今回はこのようにストーリー自体を楽しむと共に、一人何役もの配役をいかにスムーズに転換していくのかを見て楽しみました。役者さん達の早業に感心しきりでした。そして何と言ってもティム役の天使の歌声を披露してくれた竹原優支君に私の心はメロメロでした!

今回も小学5年生(女)と3年生(女)の孫と一緒に観ました。5年生の孫は、学校の図書で「クリスマス・キャロル」の本を以前読んだことがあるらしく楽しみにしていました。
 子どもは正直で、興味のない場面だとゴソゴソするのですが、興味のある場面では身を乗り出して集中します。子どもの表情で「こういうところが子供は好きなんだ。」「これはちょっとむずかしいのかな。」など知ることができ、私は違う場面で楽しんでいます。観劇後には「どうだった?」と尋ねると自分の感想を言ってくれるので孫とのコミュニケーションも深めることができています。
 さて、今回の孫の感想は――
・第一声は「おもしろかったぁ~!」です。
・「メリークリスマス」と大きな声で何度も言い合っていたのが印象的で、大切な言葉なんだなと思った。
・未来の精霊だけ人物がいなくて演出がすごいなと思った。
・未来は何が起こるかわからないのに未来の精霊がいたことで、自分の未来を知ってしまったり、反対に、知りたくないこともあったのではないか。
・最初はいじわるな人も何かがわかって、やさしくなったことで、幸せになれるし、みんなにも尊敬されると思った。
 など、子どもなりにいろいろ感じるものがあったようです。これからも、孫たちと観劇を楽しみたいと思っています。

年末に心温まる舞台を見ることができ良かったです。クリスマスの街の楽しそうな様子に、一緒になってクリスマス・キャロルを歌いたくなりました。

テンポのいい展開で、気が付くと幕間になっており、楽しく観させていただきました。
 大道具が変わるわけではないのに、場面がしっかりと変わっていく様は舞台のマジックだなぁ~と、思いました。
 クリスマスは過ぎてましたが、心ほっこり楽しい時間を過ごせました。ありがとうございました。

事前情報なく観たので、思っていたより音楽要素が多く、とても楽しめました。皆さんの歌声もハモリも素晴らしく、子役の方のソロにも(ドキドキするだろうなとか、周りの音が全てなくなって歌声に集中する感じやその歌声なども含めて)感動しました。

諸事情により、延期になり12月というクリスマス月に公演できたのは嬉しかったが、事前に見ていた写真が暗いものが多かったので、実はあまり期待してなかった。でも、劇団昴さんで宮本さん主演という事での期待は120%あった。始まって、まぁ、いい意味での期待を裏切ってくれて、舞台セットの濃厚さ、演出のドキドキ感、照明の綺麗さ、何よりティムの歌声の美しさ。宮本さんも面白くスクルージを演じていて、見ている方の感情の起伏が激しく、どんどん話にのめり込めた。精霊も次にどんな登場してくるのかワクワクしてしまった。

お金儲けにしか興味が無く、人付き合いも無いそんな心が暗くなりそうなシーンから始まった劇でしたが、何かちょっとしたきっかけさえあれば人は変わる事ができるものなんだと考えさせられました。
 お金は大切ですが、そればかりに捕らわれて、たった1人の甥さえ信じられず益々孤独を深めていく。たった1人ぼっちで。歳を重ねてこんな寂しいことは無いと思うのですが寂しいという事にさえ気付けない。
 けれども今回のイブの奇跡が起こり今まで心を許す事の出来なかった人達の自分に対する本当の気持ち、とても大切に思っていること、又雇用主として信頼されていることが分かればそれはとても嬉しいことです。そしてそれに答えたくなる。自分から心を開いていけば、挨拶をしたり、ちょっと微笑んでみたり、そんな些細な事がとても嬉しく感じます。
 1人では寂し過ぎます。支えあったり、助けあったりして生きていけるのが幸せだなあ~としみじみ思いました。
 いつも何か新しい事を考えさせられる市民劇場に感謝、感謝です。今回も楽しく観劇させて頂きました。

徳島の地で、「クリスマス・キャロル」が上演出来て本当に本当によかったです。一か月以上も先延ばしになり、待ちに待った作品。過去と現在、現在と未来が時空を超えて、目の前で一度に見られるなんてすごいです。演劇は、キャストやスタッフの方、照明と音響の総合芸術ですね。
 人はいつでも生まれ変われることに気づかせてもらえる、なんて素敵なファンタジー作品なんでしょう。甥っ子のフレッド、書記のボブ・クラチットとその家族 特にティムの心の優しさに心洗われる思いでした。人をねたまず、人の幸せを祈ることができる心清らかな人間でいたいなと、思いました。

何だか若いころを思い出させる懐かしい芝居で楽しかったです。

今回の「クリスマス・キャロル」は、私が感じるところでは、現代社会に生きる私たちに対する多くの教訓を含んだとても素晴らしい演劇だと思いました。その上で、その教訓を三人の精霊に導かれながら悔い改めて行くスクルージの心の変遷で表現するという手法で見事に演じられていたことに、只々感動するばかりでした。ところで、11月例会である今回の公演会が12月公演へと延期されたのですが、当初の私のスケジュールから今回の延期公演会は、鑑賞不可でした。それが、諸事情により急遽予定変更となって、観ることが叶った訳なのですが、観終わった直後に私が感じたのが、冒頭の感想なのです。
 さて、この「クリスマス・キャロル」でのテーマ(劇を通して観客に気付いてほしい事)は、一体何なのでしょうか?それを私なりに考えてみると、演目が示すが如くに、やはりキリスト教の精神とも言うべき新約聖書における「与えよ、さらば与えられん」という聖書の教えなのではとの考えが思い浮かびました。つまりは、無償・無条件の奉仕によって、自己の内面や他者を通じて神の祝福が与えられるという、精神的な報酬(幸福感)が得られることを示唆した物語だと思ったのです。さらに、この教えと類似するものとして東洋思想に目を向けてみると、そこには大乗仏教の精神に基づく理念である「他者に生かされ、他者を生かし、共に生きる」という意味での「利他共生」との概念に行き当たりました。
 それでは、私が上述の考えに至った道程をご紹介したいと思います。
 先ずは、一体全体何が、スクルージを、強欲であり、且つ、金持ちであるのにもかかわらず(いや金持ちであるが故に)ドケチで意地悪な上に、かなりの性格がひん曲がったひねくれ者に仕立て上げたのか?それを読み解く鍵は、第一の精霊が見せたスクルージの少年時代、並びに青年時代にあるかと思いました。それは、舞台上での役者のセリフや回想シーン等々で、やはり彼の生育環境に大きく起因するというのは明白だと私は理解しました。そして、彼の両親の特に父親による厳しい躾と、それに反目するスクルージに対するある種のネグレクトに依拠するとの考えに至りました。それはとりもなおさず、幼少期に十分な愛情(無償の愛)を受けて育ってこなかったことが、彼を頑なな態度をとる存在として形成させたのに違いないと思ったのです。
 さらに、そんなスクルージの屈折した心根に追い打ちをかけるが如く、愛する恋人との別れが、より一層にスクルージの心を内へ内へと追い込み、心の門に鋼鉄の扉を設けるがごときに他者を受け付けない「心の引篭もり状態」に陥らせたのではないかと推察しました。
 そして、そんな状態の愛情に飢えたままに大人となり、その愛情に対する渇望が満たされることなく人生を歩んで行くうちに、全てが内向きとなり、心を閉ざすような人格が強固さを増して形成されてしまったという側面から眺めると、スクルージ自身も「愛情不足による犠牲者」なのだと言える憐れむべき存在なのかもしれないとも思いました。
 ところで、人に(愛を)与えることが出来る為には、自身の心に潤い(余裕)が無ければ成し遂げられないと思います。ですから、スクルージは、いわば愛情不足による「常に心の乾燥注意報の状態」としての立ち位置として捉えることも出来る訳です。その様な観点から、スクルージを反面教師として私の心の潤い(余裕)が少なくなって来てはいないか、常に私自身を振り返るある種の鏡として折に触れて思い起こし、私の人生の第二章を歩んで行きたいとも思いました。
 一方、クラチットの家族たちは、正しく老子の「足るを知る」を実践する家族なんだなと思いました。舞台上でのクラチット自身や彼の家族の振る舞いを観ていると、他人に施しを与えるのは、何も金銭や物資に限らないと思いました。仮に金銭的な供与が出来なくても、例えば常に笑顔で接するといった心がけ次第で、たとえ僅かであったとしても、互いに幸福感を得ることが出来るのではないだろうかと、とても考えさせられる一場面でもありました。
 次に、第二の精霊がスクルージに「無知」と「貧困」のふたりの子供を見せたのは、どんな意味があるのだろうかと、私なりに考えを巡らせてみました。単に「施しをせよ」といった意味であるのだろうか?これを私なりに解釈すると「無知」は「貧困を生産する」という事ではなかろうかと思ったのです。つまり、現代社会の日本でも言えることですが、「無知」であるがゆえに「貧困」に陥ってゆく様を色んな所で見聞きするからです。ですから、ここに「無知」と対極にある「教育」が非常に大事であり、「貧困」から抜け出す為、あるいは「貧困」に陥らない為には、「教育」が非常に重要な鍵となって来ると思いました。これはとりもなおさず、現代の日本では「相対的貧困」が増えているという現状を鑑みると、今回の劇中での示唆は現代社会においても重要な意味を持つのではないかとも思いました。
 最後の第三の精霊が示したスクルージの未来には、私にとって反面教師としての示唆に富むメッセージを読み取ることが出来たように思いました。つまり、やはり人は一人では生きて行けないのではないかと思うのです。と言うのも、生前は強欲の限りを尽くしたスクルージですので、正しく「死屍に鞭打つ」とも言うべき仕打ちを、死してなお受けているとも言うべきではないかとも思ったのです。この様な仕打ちを受けるのは、いわば「自業自得」とも言えるのですが、我が身に置き換えて考えてみると、やはり私としては「私自身の死」を親しき人々に悲しんで欲しいと思ったのです。という事は、私自身の周りに対して、生前に如何に徳を積むかという事が重要となって来るのかと思いました。他方、そんなスクルージへの救いとして、この第三の精霊に見せられた自身の目を背けたくなるような未来の姿から、現世での己の浅ましい強欲の塊とも言うべき考えや行いを悔い改め、他者への「無償の愛」を注ぐことを厭わない考えへと大きく転換したことだと思いました。
 以上とは別に、本演劇で最初に出てきた「マーレイ」の亡霊の意味は一体何なのかとの私の考えをご紹介したいと思います。私の妄想に近い推測ですが、おそらくマーレイはスクルージが、その強欲で利己的な考え故に、マーレイ自身と同じ轍を踏んでほしくないという一種の親心の様なものから亡霊として姿を現し、スクルージへの忠告を発したのではと思いました。そして、スクルージの考え(心)を正しい方向へと導く為に三人の精霊を遣わしたのだと考えました。ということは、スクルージと同様に生前の強欲なマーレイであっても、共同経営者のスクルージへの「良き方向へ生き進んで欲しい」との思いがあったのだと、そこに私としては僅かながらもマーレイの「良き人間性」を感じることが出来たのです。その様にマーレイの存在意義を捉えると、私は劇が始まるや否や感じた重苦しく嫌な感覚から少しですが解き放たれ、そしてなんだか心が軽くなった気がして来たのも偽らざる気持ちです。ですから、その後の帰路も軽やかに劇場を後にする私の胸に過ったのは、久々に心温まる良質な観劇に出逢えたという感動以外の何物でもありませんでした。
 最後に、全体を通してこの劇から学んだ教訓として、他者に対する「共感」「愛情」、そして「敬意」は、今後の我が人生を歩んで行く上で常に持ち続けなければならないとの思いを強くするに至りました。

鳴門例会カーテンコール

「クリスマス・キャロル」で市民劇場への3回目の入会をしました。社会人になった時、子育てを終わった時、代表だった姉の死後時を経て…真ん前で役者さんの顔まで見える観劇は、心躍るひとときでした。クリスチャンの私は、施設への訪問クリスマス会で牧師が子供たちに見せるスライドのようなものでクリスマス・キャロルとか、靴屋のマーチンを見て、好きな物語でした。今の世は、クリスマスといっても“サンタクロースが来る日”というのが定着していて、“イエス様”のことはどこへ?という感じ。舞台の上で、イエス様のお名前が出、聖書の一節が朗読されるというのは、うれしいことでした。重鎮の方は、さておき、私の眼には洲本大輔さんの姿が目に留まりました。お名前を知りたくて、パンフレットを買いました。洲本さんの活躍とともに、劇団昴の活躍も期待しています。昴の公演が再び徳島に来てくださるようにと願いつつ。

スクルージさんが心を改めてだんだん思いやりのある方に変わっていくという心温まるお話でした。子役の「きよしこの夜」が良かったです。

原作の大筋(ハッピィエンド)は知っていたし、映画も見たし…。そのうえで、誤解を恐れずに言えば、子供向け?のおとぎ話的なものという思いで気軽に観始めました。ところが…。なんとクライマックスではなぜだか胸が熱くなっている自分がいて驚きました。人はそんなに簡単に変われるはずはない…(変われるなら苦労しない!)またそもそも、こんなに「いい人」と「悪い人」が分かりやすい世の中でもない…(単純じゃないから、ややこしい!)。こんな風に斜に構えていた自分の気持ちが変わったのは、歌の力?それともこの時期にこの作品に触れたことによる魔法?? 
 観終わった後いろいろなことを考えましたが、きっと、自分が純粋な気持ちになれたことを素直に喜べばいいのでしょう。
 一番心に残った台詞(語り部の言葉だったかも)は、スクルージが“よきひと”になった後、以前の彼と比べて色々に言う世間の声があったけども、「彼はそんなことは一切気にしなかった」というところでした。変わることを恐れなくていい、恥ずかしがらなくていい…人の目なんかも気にすることはない…そんなことも最後に近いところで語られていて、一層温かな気持ちになれました。

とてもよかったです!

とても感動的で面白かったです。もう一度本を読み返してみようかと思ってます。

無慈悲で意地の悪いスクルージが、精霊たちに過去、現在、未来を見せられることで心を入れ替えるというシンプルなストーリーであるが、シンプルであるがゆえに幻想的な見せ方に工夫がこらされていて、最後まで飽きずに楽しめた。立体感のある舞台セットも素敵だし、なにより役者さんたちが巧みで、一年を締めくくるにふさわしい素晴らしい舞台でした。

人間が天に達しようとして失敗する聖書の物語(バベルの塔)は、人間の傲慢の象徴として引用される美術ではおなじみの主題(キリスト教の道徳を説き、信仰心をはぐくむのが目的)でもあると理解している。ここでは、人間は卑小なものと考えられ、日々繰り返す愚行は、これらを情け容赦なく暴露したブリューゲルや、この時代の民衆の世界観を物語っているのでしょう。 
 “象徴と現実”で世界の二つの姿を、“フランドルの画家たち”の北国の芸術として、“ヒエロニムス・ボッシュが創造した悪夢と悪魔”で悪魔の世界を、“悪徳と美徳”の農民として、“動乱に生きる風刺”で聖書の中の比喩と類似を、“生活を描く”レアリズムの先駆者として、“辛辣な想像力”よることわざと風刺をもって、人間と大地と四季を描く「ピーテル・ブリューゲルの世界」が心/頭の中に彷彿と・・。
 生前強欲な生活を送った友人(マーレイ)が、死後の世界から鎖に絡みつかれ苦しみながら(キリスト教の教義には、死んだ人を助ける方法はないので)、主人公(スクルージ)に忠告/啓発をすることから始まる一連のストーリー/物語の進行から結末へと・・(ディケンスの原作ではどのような結末になっているのかは別として/分らないが・・) 「存在している総てのものは、善=神よってであり、悪の影すらない。神は、みな善いものとして造ったが、人間は自分勝手に悪くなったので神が罰し、その罰は永劫に続く・・」というのが、キリスト教の教義なのだから、夢の事象からの現実世界の改心/善行(?)では救われないハズ・・。
 脚本家の意図はどうであれ、観客(私、私たち/日本人の大方)は、「そもそも神が人間を造ったのなら、なぜそんな悪い悪魔がいるのか、人間を誘惑すること(アダムとイヴ)を、全知全能の神が、なぜ許しておくのか。神が慈愛の者ならば、人間をこんなに弱く、かつ罪の傾きを持った者としては造らないで、悪い傾きの無い者に造ったはずなのに・・。地獄のような酷いところを創り、そこに堕ちた人間は永遠にそこにいなければならないのだから、神には憐みがない。神が地獄にいる人々を救済しないのは、すこぶる不愉快である・・」と、自らの宗旨(仏教、神道等々)がどうであろうと、神の掟よりも遥かに慈悲の教えが普通だと感じるのが自然だと・・。
 日本人の記憶に残る絵本は? というと、“桃太郎”や“アリとキリギリス”など、頑張れば報われる、悪さをすると/怠けると痛い目にあう。“アンパンマン”や“仮面ライダー”、“プリキュア”などのヒーローものや“水戸黄門”は正義と悪の戦いが描かれ、因果関係がない2つの出来事の間に、因果関係を読み取って、良い人には良い結末を悪い人には悪い結末を期待している“因果応報のルール”に沿ったストーリーばかり・・。
 翻って、(キリスト教社会の)グリム童話の「貧乏人と金持ち」の教訓は、親切な行いをした人(貧乏人)に良い結果が、失礼な振る舞いをした人(金持ち)に悪い結果がもたらされるという意味で、因果応報を教訓としているようにも・・。多くの人は「めでたし、めでたし」と思うハズだが、ふと立ち止まって考えてみたら、ごく当たり前に「貧乏人」と「金持ち」の存在を受け入れていることに気づかされる。そのような格差は是正されるべきなのだが、「貧富の差が存在する世界は良くない、ということを伝えようとしている」と思う人はほとんどいないのでは・・。
 「冷たく能力の高い集団」には妬み感情を生じるが、この人物がひどい目にあうのを目の当たりにしたら「ざまあみろ」の感想とともに妬みの感情は消えてしまう。
 「心優しく貧しい、暖かく能力の低い集団」には同情するが、幸運に恵まれる結末を聞いたら、「・・幸せになって良かった」と納得し、同情もしなくなる。「めでたし、めでたし」で貧富の差の問題も印象に残らなくなる。 かなり横路に入り込んだようなので、ここからは元の道に戻すことにしましょう。
 今回の観劇で印象に残っているのはふたつ。そのひとつは“子役(ティム)の讃美歌アカペラ独唱は反則じゃないか・・”で (“Silent Night, Holy Night”は、神父と娼婦の禁じられた恋とも)、残るひとつは“主役(スクルージ)の風貌が磔刑のキリストを連想させる”ということ。
 と、いろいろとあるが、最後に主人公に詩を贈ることにしましょう「・・眠りなさい/子供のように/生まれ代わるなんて出来ないから/時のベッドに/疲れた身体を/横たえて・・・、眠りなさい/子供のように/なにも知らず/そっと息だけして/星の窓辺に・・・」の唄を。
 番外の蛇足ですが、「蝋八(陰暦12月)のあとにかしましくりすます(正岡子規)」、お釈迦さまが悟りを開いたという仏教行事の、そのすぐ後にやってくるにぎやかなキリストの降誕祭と・・、スーパーでは柚子を売る棚のそばにケーキやチキンが並んで、100円均一の店ではクリスマス用の装飾類のそばに正月飾りが・・、これが今の日本の年の瀬・・と喝破した吾人が居る。
 「皮肉なことに東洋の宗教は、西洋の宗教以上に西洋の合理的な思想によくなじむことが判明している。仏教は理性や現実性、現代までに人間が達成した業績に矛盾することがない。」とも。
 (エーリッヒ・フロム(ドイツの社会心理学者)「自由からの逃走」)
 また、ザビエルが日本での布教が上手くいかずに日本を離れるに際して「・・自分の心の中におびただしい悪があることに、日本に来て初めて気づいた/自分の無能を知った。彼ら(百姓たち)の質問に答えるには学問が必要だ。特に哲学に通じていなければならない。・・・日本に布教で来る人々は、困難や苦労に抵抗するための無数の徳を備えていない限り、滅びてしまうかも知れない・・」と手紙で本国に・・。

とても心温まる話しで、あんな風に私も自分の人生を見つめ直せたらと思う。 そうしたら、嫌な思い出も少しは違ったモノになるのかな?と

人間は変わらないという考えを最近は多くの人が持っていますが、人は改心できるという劇を観て、何となくですが、希望を抱いてしまいました。人は変われるという古典的な強いメッセージを受け取れました!

ティム役 竹原優支くんの「きよしこの夜」を歌う声に、癒されました♪ 今後のご活躍を期待しています。

舞台は総合芸術だとよく言われるが、まさに今回の舞台は、すべてにおいて素晴らしく一瞬にして引き込まれた。劇団昴の「クリスマス・キャロル」のスクルージは、1991年の初年から2023年までの間に7人の俳優さんが演じられている。長い間、この作品に向き合い、今日素晴らしい舞台を届けて下さったことは、本当にありがたいなと思った。初めて本格的な舞台を観た小4の孫は、何を感じ取ってくれるだろうと期待をもって娘に聞いたところ、逆さにつるしてある七面鳥に興味を持ったようだ。前のめりに観ていたとのこと。舞台美術に興味を持ってくれたのだと、勝手に解釈している。時がたっても、今日の舞台は彼の記憶に残っていることだろう。
 ストーリーがとても分かりやすく、訳あって金欲亡者となってしまったスクルージが、同僚マーレイの亡霊と出会い、一瞬にして人が変わったように善良になるという夢物語ではあったが、自分を変えられるのは、他の誰でもなく、自分自身だと思った。ティムの透き通るような歌声に心を洗われ、ミュージカルさながらの声量の歌に少し遅れの素敵なクリスマスプレゼントをいただいた気がする。

過去にスクルージが言っていた時の表現、過去・現在・未来がとてもうまく表現されていた。

世の中にはこんな煮ても焼いても食べられない人がいるのだ、と思って見ていたが、ほんとうの意味で変わってゆく人間たる人間を見せてもらいましたね。ブレない人間 たまりませんわ…

「クリスマス・キャロル」は何度も見たお芝居です、あらためて観て、温かい気持ちになりました。ミュージカルというのもよかったです。小さい男の子が、澄んだ声で「きよしこの夜」をうたったときは、涙があふれそうでした。素敵なクリスマスプレゼントをありがとうございました。

とっても素敵でした。私のこれからの人生を前向きに歩き出せそう。マーレイさんの様に鎖につながれた人生は送りたくない。

さすが不朽の名作、感動的な良い作品だった。
 クリスマスはキリストの誕生日、の認識しかなかったが、
 お互いの幸福を願う慈愛に満ちたイベントであることを知り、心温まる思いがした。
 ティム少年の「きよしこの夜」は、心洗われる素晴らしい歌声だった。

けちで偏屈な頑固者の主人公スクルージがクリスマスの精霊たちに導かれて、過去・現在・未来と時空を超えた体験を通して、悲惨な未来を希望に満ちた未来に変えるべく改心するというチャールズ・ディケンズ原作のあまりにも有名な作品を舞台で観られるとあって、観劇の日を心待ちにしていました(11月から12月に延期になったときは少し不安もありましたが、結果的に12月公演で季節感もマッチしていて良かったです)。スクルージの「過去」の場面からは最愛の妹を想う気持ちとそんな妹を失った哀しみが、「現在」の場面からは、クラチット家の貧しいながらも幸せにクリスマスを祝う家族と病気がちながら健気に振る舞うティムが、「未来」の場面では、そんなティムが亡くなって、スクルージ自らも悲惨な末路をたどる未来の姿が、スクルージの心を変化させてゆきます。それは「過去は変えられないけれど、過去の反省から現在の行いを正すことで、未来を変えることができる」と観劇する私たちに語りかけているようにも感じました。
 あと、市場の活気溢れる場面などミュージカル的な演出も心に残りました。中でも、クラチット家のクリスマスのシーンで家族のために歌うティムの澄みきった歌声は素晴らしかったです。

鳴門例会カーテンコール

E-mailでのお問い合わせは、        鳴門市民劇場ホームページ
nrt-geki@mc.pikara.ne.jp
まで。