加藤健一事務所公演「サンシャイン・ボーイズ」鳴門例会(2024年1月15日)で“アル・ルイス”役をされる佐藤B作さんを開演前の楽屋に訪ね鳴門市民劇場がインタビューしました。
インタビューに先立ち、一月例会運営サークルは、朝日新聞に掲載された佐藤B作さんのインタビュー記事の内容に勇気づけられ元気を頂き、無事クリアを達成することができたことを報告し、佐藤B作さんにお礼を述べました。
鳴門市民劇場(以下鳴門と略) 演じる上で気を付けていることや普段のトレーニングについて教えてください。
佐藤B作(敬称略 以下佐藤と略)
普通ですよ。僕は50を過ぎたころから、めまい・ぎっくり腰・ガンと病気をしました。それまでは、自分の身体に自信をもっていて、芝居を演っては酒飲んでと。大きな病気をやってからは、ああこれダメなんだ、芝居ができなくなるんだと思って、それで肉体訓練、柔軟体操・腹筋・背筋と、ちゃんと身体を作り直そうと。
それから15.6年前に足裏の先生に出会ったんです。僕は東北の福島出身なんですけど、その先生も福島の人で、独学で足裏の勉強をなさって。
ぎっくり腰をやったときに、いろんな人から聞いていろんな病院に行っても治らなかったのが、足裏の佐々木先生とお会いして足裏を診てもらったら5分です、5分で治ったんです。“えっ、なんじゃこりゃ”と思って。僕の息子の佐藤銀平は演劇を志しているんですけど、腰を痛めまして入院していたんです。騙されたと思って来なさいって佐々木先生に言われ、やはり“ちょちょっ”てやったら治って。“これは何だ”と思って、それから週1回佐々木先生に治療してもらうことになって、だんだん自分も足裏を勉強して、これは腰のツボ、これは胃のツボなんだなってわかるようになって。コロナの影響で佐々木先生が東京まで治療に来なくなって、それからは3~4年自分でやるようになりました。俳優で食えなくなったら足裏で生きていくかというくらい極めましたね。凄くいいですよ足裏は。胃のツボとか腰のツボを刺激してそこの血流をよくして、血液循環でもとの正しい状態に戻すというのが足裏の基本理念らしいですね。だから、腰が痛いという人がいたら赤ひげのように、ちょっと足を出してごらんと治したりしている。悪いところは足ツボやると痛い。それが良くなると全然痛くなくなるんです。その痛みがなくなるまで我慢できるかがね。
<インタビューに参加している会員の一人が3日前から腰痛になっていて、その人の治療を2分くらい行う。翌日には痛みがなくなったとのこと(後日談)>
鳴門 今回の作品はニールサイモンの名作で、日本でも過去に何度も上演されていますが、今回の舞台で注目してほしいところは。
佐藤
カトケンさんとのいがみ合いですかね。
日本の漫才コンビなんかでも台上で漫才終わったらもう一言も口きかないっていう人が多いみたいですけども、本当に仲悪いですね。お互いに俺の方が面白いだろうって意識があるから、何か主張が強いっていうか。それだったらこう演るべきだろうって、譲らないというか喧嘩ばっかりしているシーンなんですね。それがどう面白く伝わるか、観ているお客さんに楽しんでいただけるかというのが勝負の芝居のような気がしますね。
最終的にはお互い年を取って片方はもう死んじゃうかもしれない感じになって、その時になってやっと二人は握手できたみたいな。やっぱり人生ってキツイものだなっていうか、生きるって大変だなって思わせる芝居だと思います。でもそれは面白いコントをするため、お客様に楽しんでもらうために、お互いしのぎを削って戦うという感じなんで。皆さんのお仕事も大変で楽しく“はは、へへ”とすまされるような仕事は一つもないですよね。笑いを取り入れたコントという仕事に飛び込んだ二人の大変さ、地獄というのがこのお芝居の芯になっていると思いますね。
鳴門 喜劇に対する考え方や思いがあれば聞かせて下さい。
佐藤
喜劇というのは難しい芝居で、お客さんに笑っていただき楽しんでいただけないと喜劇と言えないと思うので、その時その時どういうお客さんが集まったかで、同じことを演っても笑ったり笑わなかったりというのはよくある話です。だから、普通の演劇のストーリーが出来た上に、この芝居を面白くするためにはどういう演技をプラスしたらよいのか、もう一度書き直すような芝居が喜劇なんじゃないかと僕は思うんですよね。
喜劇になっているというのは、お客さんに楽しんでいただける、そして演劇的に面白くてしかも笑えるという芝居ですね。チェーホフも喜劇を書くんですけど、あれは静かな喜劇、高尚な喜劇のような感じがするんですけど。
劇場でお客さんがドッと笑って下さる瞬間を若いときに体験すると、あれが麻薬のようでね。あれがあるとヨシっていうか入場料の三分の一は返したかなという気になれて、ホッとする要素もあるのが喜劇。演っていてそういう手応えがあると嬉しいし、最後に芝居が終わって緞帳が降りてくるときに、何となく劇場の観客席の感じがわかるので、ああ今日はお客さん楽しんでくれたなという気持ちがあると、生きていてよかった、この仕事を選んで良かったという気になるんですよね。
こういう演劇を観ろとか高飛車に言えないんだよね。本当に楽しんでもらって笑っていただけるというか、そして演劇的にも凄いっていう喜劇を、まだサンシャインもそこまでいっているかどうかわかりませんけれど、まだまだ道半ばかもしれませんが、観た人も“ヨッシャ明日から仕事頑張るぞ“って思えるような演劇が作れたらなといつも思っています。
鳴門 鳴門には2003年「その場しのぎの男たち」、2009年「見下ろしてごらん夜の街を」以来ですが、鳴門や四国の印象はどうでしたか。
佐藤 どこでもいい反応をいただきました。「その場しのぎの男たち」は三谷幸喜さんに最初に書いてもらったオリジナルの喜劇で、去年劇団50周年記念公演の時も東京で再演させてもらったのですが、やっぱりいまだに大ウケで、僕も三谷君に書いていただいた芝居の中で一番好きな芝居です。彼はまだ30代で、僕がそれを最初に演った時は40代で、客演の伊東四朗さんが僕より一回り上なんです。50周年でまた伊東さんに出ていただいていて、やっぱりチケットもよく売れるんですね。もうお客さんもこれは面白いというのがわかっていてね。劇団にとって本当に三谷さんには足を向けて寝られない。
鳴門 東京ヴォードヴィルショーを主宰され、舞台から映画、TVなど幅広く出演され活躍されていますが、この世界に入られたきっかけを教えて下さい。
佐藤
僕は東北の福島出身で、飯坂温泉という温泉場の八百屋の長男で、親父もお袋も小学校しか出ていなくて、初めて長男が大学に行くということで両親の期待を一身に受けました。
東京の早稲田大学の商学部に入って、僕は商社マンになろうと思っていました。最初に入ったサークルが外交学会というまじめなサークルで、授業が終わった後に千駄ヶ谷に英会話を習いに行くという、絵にかいたような真面目な青年でしたね。それが、もう2か月で嫌になって、5月になったらもう一切勉強するのも嫌になっちゃったんです。中学生のころからお袋に頼んで塾に通わせてもらったり、なんせ勉強が好きな子供でしたね。英語、数学、算盤、書道の塾からいろんな塾に通うのが好きな子供で、そういうことで東京の大学を目指していたんです。高校の担任の先生からは「福島の大学だったら合格するよ」って言われたんですが、「先生、早稲田へ行きたいんです。」と言ったんです。「早稲田だったらこの成績では大変だなあ」と言われたんですが、見事合格して入ったのに、なんか人間って贅沢ですよね、我儘なのか。
ずっと勉強一筋できて、好きな女の子がいたんですけどデートもしたことも口をきいたこともなかったんです。朝7時15分発の福島までの通学電車で高校へ通ったんですが、好きな女の子、佐藤みちこさんという同級生もやはり通学電車の3両編成の1両目の後ろに必ず乗るので、7時15分に行けば会えるのに勉強が大変で朝起きれないんですよ。こんな絵にかいたような真面目な子が、5月になったら全部嫌になっちゃって、それで学校にも行かなくなって、新宿のジャズ喫茶に朝までいるようになったんです。そこで知り合った友だちと色んな話をするのが楽しかった。ある時、下宿で土曜日の午後に「若者たち」という、両親がいない兄弟4人が力を合わせて戦後を生き抜いていく、田中邦衛さん、山本圭さん、佐藤オリエさんが出演のテレビドラマを見てとても感激しまして、「俺もこんな学校行かないような生活をしたらダメだ、何かやろう、何かに夢中になろう」と思ったのが演劇なんですよ。
小学校時代に、4年、5年、6年と演劇部にいたんですよ。それは、学芸会が中心のお芝居で、学芸会のためにお芝居をするというだけでした。顧問の佐藤みつこ先生が自分で脚本を書いて演出もなさるんですが、この先生がとっても怖い先生で、凄く怒られていました。芝居がうまくできなくて、学校の講堂で夜遅くまでやるんですが、満天の星空の中、泣きながら家へ帰った思い出がずっとあります。本番の学芸会になると、近所のおじちゃんやおばちゃんが観に来て「としおちゃん、よかったよ、うまいね」と褒められるのが嬉しくて、常に痛めつけられているのでちょっとでも褒められるとうれしくてうれしくてね。その近所のおじちゃんたちが喜んでくれたのが子供心に嬉しいという気持ちがまだあったかもしれないんだけど、演劇をやろうということになったんです。
早稲田の演劇部に入ったら早稲田の演劇はセミプロで、稽古に入ると「授業なんか出てる場合か」と怒られて、そしたらもう成績が悪くなっちゃって、それで商社もあきらめてプロの俳優になろうと思ったんです。その頃は、就職は無理だと勝手に思い込んで、俳優になろうと思って俳優になるんですが、俳優になるのはもっと大変だということが今になったら分かるんですが、その年齢の時には気づいていないですね。夢中になって芝居ばかりやっているんで俳優になれると思っちゃう。
それから苦労しましたけど、自由劇場というところに入れてもらって、それから仲間たちと東京ヴォードヴィルショーを作って、三谷君もそうですが、良い作家と知り合い、良い本を書いていただいたりしました。うちの若い山口良一というのが萩本欽一さんのテレビに出していただいたりしたんです。すると萩本さんからお声をかけられてと「B作君、君はテレビに出ないのかね」と言われて、テレビに出るようになったんです。
やっぱり、いろんな人のお力添えがあって今日まで贅沢に芝居ができるような生活を送れていると思います。だから、うちの若いやつらにも「誰かが応援したくなるような人間にならなきゃ駄目だよ。頑張っているな、じゃあ応援しようかと思われる、そういう風に応援される人間になれるように頑張りなさい。」と常に言っていますが、「何言ってるんだ」という顔でしか聞いていません。やっぱり、そういう言葉が本当に自分に響くようにならないと、何を言われても人間というのは分からないんだなという感じがします。
鳴門 演劇鑑賞会の活動について考えられていることや鳴門市民劇場の会員にメッセージをお願いします。
佐藤
東京公演だと劇団はなかなか黒字にならなくて、一つの芝居を作るのにはお金がかかるんですが、その作った芝居の公演回数が多くなることによって経費は減るという当たり前の話なんです。その一つでも多くしていただくために、大先輩の宇野重吉先生たちがお作りになった全国の演劇鑑賞会、市民劇場という組織の皆様のお力添えがあると、本当に劇団も嬉しい顔ができるんですよね。
ですから、お互いに、もちろん皆さんが喜ぶような、楽しめるようなお芝居を作らなきゃいけないと思うし、そういうプレッシャーももちろん感じながら、本当に皆さんが観て良かったねと思われるような、楽しめるようなお芝居をいつでも作ろうと思ってスタートするんです。しかし、面白い芝居を作るというのはかなり至難の技で、本当に苦労するんです。五本のうち一本でも面白い芝居ができたら、それを持って三年か四年に一回全国を廻ることができたら、劇団もその先維持できていくというか、演劇する喜びも持続できると思うんです。
皆さんも自分のお仕事をお持ちなのに、東京からの劇団を応援するという心広いお方のお力添えあってこそ、我々の劇団が生きていけると常日頃感謝しております。