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サンシャイン・ボーイズ

加藤健一事務所公演

鳴門市民劇1月例会
 2024年1月15日(月)
 感想集


鳴門例会カーテンコール


(サン)サンデー毎日を送っている私にとって、鳴門市民劇場の例会は何にも増して楽しみであり、喜びです。その上、1月は担当サークル。加藤さんに会える!佐藤B作さんに会える!いつもに増して、楽しみにしてきました。
(シ)幸せです!加藤健一さんの声が、あの低音でよく通る声が舞台一杯に響いています。もうそれだけで、観に来て良かった、と思いました。頭はボサボサ、パジャマも着かえず、だらしない生活を送る年老いたウイリーを見事に演じていました。また、その彼の横で背の高い素敵な俳優さんがマネージャー役のベンを演じていました。毎週水曜日に欠かさず訪れ、食料や雑誌を運んでくる心優しき甥の役です。二人の流れるような言葉のやり取りに目が釘付けでした。そして、叔父を気遣い続けるベンに、グッときました。
(ヤ)やっと出てきたルイス役の佐藤B作さん!感激のあまり、拍手しようとしましたが、周りを見て落ち着くことにしました。実はインタビューの時に腰痛の治療をして頂いたのです。B作さんの手はまさに“神の手”でした!私の腰痛は嘘のように消えていました!
さて舞台です。ルイスが現れるとすぐ、ウイリーがけんか腰になっていました。年齢を感じさせないウイリー役の加藤さんの激しいセリフ。その彼の言葉尻を捉えて面白いことを言い続けるルイス役のB作さん。面白いことを発する度になんとも言えない表情をするB作さんの顔に思わずクスリ。ご本人も自分の面白いセリフに笑っていたのかもしれませんね。とにかく大笑いはできないけれど、二人の掛け合いに心がほっこりしました。
(イ)生きてきた証って顔にも出るけど、その背中にも出ますよね。長い人生を重ねてきた哀愁が二人の背中から漂っていました。本当の年よりも上の役を演じるのは歩く所作一つをとっても違うと思うのですが、二人はそれを見事に演じられていました。かつての大スターだった頃の軽妙さはなくとも、ドタバタもがきながらの再コンビ誕生。でもでもやっぱり意見が合わず、いがみ合い、罵り合い、でも、ネタを進めていく二人。
(ン)ん?あのナースって、何?素晴らしいボディにウイリーもウキウキしていていかにもコントっぽくて面白かったですね。昔、「8時ダヨ、全員集合!」で加藤茶さんがやっていた「ちょっとだけよ」と伸ばす足を思い出して、余計に笑ってしまいました。
(ボー)ボーイズ、そうですよね、年を取っても太陽のように輝く二人は「ボーイズ」の呼称にふさわしいと思います。ニール・サイモンのつけたタイトルが素晴らしいです。
(イズ)いずこに居ようとも、やはり相棒は相棒ですよね。病に倒れたウイリーに名前を変えつつ、ルイスは花を贈り続けました。胸が熱くなりました。ベンからそれと聞かされたとき、ウイリーの心にはどんな変化があったのでしょうか。最後のシーンでは、ウイリーが将来入ろうとしていたホームに、ルイスが先に入居することを知ってしまいます。いろいろなことがあったけれど、結局、二人は離れられない間柄だったのでしょうね。アクターズ・ホームに後からやってくるウイリーをルイスはどんな顔をして迎えるのでしょうか。想像すると思わず笑みがこぼれます。お二人さん、今度こそ、素直に仲良くしていってくださいね。

あれだけ、互いに罵り合い、いがみ合っていたのでは、成るものも成らないだろうとは、容易に察しがつく。ならば、この劇の意味は何?何が面白いのだろう?
 劇のストーリーとは別に、佐藤B作さんがお元気そうで何よりでした。

「サンシャイン・ボーイズ」楽しかったです。
 古き良きアメリカンな喜劇を観たと感じました。笑いと苦味の配分がさすがのさじ加減でしたが、自分がもっと高齢であれば、苦味の部分が身につまされすぎて楽しめなかったかも。これからは、自分自身を笑い飛ばすパワーを持つことも大事だな、と思いました。

今回の感想は。。。 主役のお二人は本当に上手ですよね。加藤さんはとても声が良いですね。
 佐藤B作さんが老け役をするようになったんだな、私も歳を取るわけだ!などと思いました。ちょっとケンカする場面も多くて少し眠くなる時もありましたが、お二人の間がピッタリでしたよね。看護師さんが出てくるコントのリハーサル場面はとても面白かったです。あのコントの最初から最後まで見られるのかと期待してしまいましたが、残念ながら病に倒れてしまいましたね。友情は付かず離れずが一番良いのかもしれませんね。

サンシャインボーイズはW主演の加藤健一さん、佐藤B作さんの74才コンビの丁々発止のドツキ漫才的やり取りが絶妙でしたね。いや面白かったです!

あのようなタイプの芝居は初めて見たような気がしますが、とても面白かったです。

楽しいお芝居でした。カトケンさん、B作さんのコンビで最高です。最初から笑いっぱなし、ちょっと切なくなって・・どんどん引き込まれていきました。もう一回観たいな・・。

加藤健一さんと佐藤B作さんとのコントや悪口叩く二人の掛け合いがたまらなく面白かった。また、お互いに気になりつつも優しい言葉をかけるわけでもなく、二人の信頼関係がひしひしと伝わってきました。

コメディーと聞いていたので楽しみにしていた。その笑いは「ワハハ」は少なく「フ・フ・フ」とか「プッ」が多く、いや言の多いセリフの中に、相手を思いやる気持ちがいっぱい感じられて、顔も心もニコニコで帰った。

場面はあまり変化はなかったが演技者は2人きりである場合や入れ替わり対応する様は喜劇を思わせるような演技であった。とくに終りの場面では、ウイリー・クラーク(加藤健一)とアル・ルイス(佐藤B作)と語り合う場面は心にしみる演技だった。

加藤健一さん、佐藤B作さんのラリーのようなやりとりが、とても素晴らしかった。幕が開いた瞬間からクスッと笑わせてくれたり、ふとした沈黙で笑いをとったりと会場はたえず笑いに包まれていた。トントントン・・。おはいり~。
 期待を裏切ることなく笑わせてくれた。年を取ると、過去の栄光にすがりたいものだが、あの頃は良かったと思えて生きていけるのであれば、それも”あり”だと思った。

どの役者さんの演技も個性豊かで良かったです。加藤健一さんと佐藤B作さんの台詞の言い回し、表情、動作(演技全般)が何とも言えない絶妙さで胸に迫ってきました。

カトケンさんとB作さんの絶妙のコント、素晴らしかったですネ。お二人の間合いの取り方、素晴らしかったです。若き日の栄光と誇りを抱き続け、お互いにその思いをぶつけあえる関係、ちょっぴり哀愁を感じながら楽しく観させていただきました。1月例会にふさわしい内容でよかったです。

加藤健一、佐藤B作、いいコンビ、意地の張り合い。自負と誇り、テコでも曲げない頑固な気持ちは、老人特有の愛すべき気質なのかもしれない。頑固がなくなれば、一角の年寄りではなくなる。融通の効かない頑固さは長年生きた証でもある。

いつもはいがみ合っている2人ですが、本当は心の中でお互いを心配していることが伝わって、心が温かくなりました。ところどころに、くすっと笑える場面がたくさんあって、楽しいお芝居でした。きっと、これからも同じ老人ホームで、またコンビを組んでまわりの人を幸せにしてくれるのでしょうね。

笑って泣いて、心温まる良い芝居だった。
 加藤健一と佐藤B作のコンビが絶妙。

最後が良かったです。長年離れていても、かつて最高のコンビと言われた二人には、心通わすものがあるものですね。久しぶりの喜劇だったことも良かったです。

目の前で、表情までよく見えて、とても良かった。
 加藤健一さんを初めて観ましたが、とてもチャーミングでファンになりました。

顔を見るのも嫌なほどのふたりが40年余り一緒にコンビを組んで仕事をするなんて考えられない話です。
 お互いの才能を認め合って仕事をする、そこには二人の間の心のどこかが結び付いている部分がみえるような気がします。そして、それが分かるような気になりました。
 最後に同じ老人ホームに入るという結末はなんとも見事なギャグであり、おちだったと感じます。

鳴門例会カーテンコール

まず、加藤健一さんは、声も台詞の“間”の取り方も大好きで、今回も期待にたがわず大満足でした。原作を読んだ時より、台本を読んだ時より、笑えて、楽しかった! アル(B作さん)との掛け合いもさながら甥のベン(義宗さん)との掛け合いも“らしさ”が出ていた気がして面白かったです。一方佐藤B作さんは、ご自身が弾ける役回りの作品もありますが今回は加藤健一さん(ウィリー)がそちら側だったので、どちらかと言えば抑え目の役どころ。こんな渋めのB作さんもいいなあ~と思った次第。そして物語はといえば…。事前には「気軽に笑えるコメディですよ」と周囲に言っていたこともありそういう先入観があったのですが、観終わって落ち着くと「イヤ、これはそうじゃないな」という気持ちになりました。「老い」に差し掛かり、かつての仕事上での能力も、健康も、財力も、生活力までも無くなっているというのに、それを認めたくない、プライドは捨てたくない、頑固でわがままで自己顕示欲を捨てきれない、しようもない“爺さん(たち)”の、悲しくも可笑しい物語だった。ここまで極端でなくてもきっと誰にも思い当たることはあるはずで、だから、目をそむけたくなった人もいれば共感できた人もいるのでは…と思いました。私は共感できた派です。年をとるということは、いろんなことを(いい意味で)諦めないといけないし、受け入れないといけない、そこに至るまでの姿を、カッコ悪く(笑)見せてくれたなあと。ただ「その姿」が極端に悲しくも醜くもなくて、ペーソスを交えた“笑い”になっていたのは、やはりカトケンさんとB作さんの演技力のたまものです。『頑固でわがままで自己顕示欲を捨てきれない、しようもない“爺さん(たち)”』は、たまらなく愛しくチャーミングな爺さんだ!…最後は思えました。人生の最後の舞台で、アルにとってはウィリーが、ウィリーにとってはアルがそば居る状況になったこと(同じ老人ホームに!)は、これ以上の幸せはないでしょう~と思えました。ハッピイエンドでよかったです。

ニール・サイモン作だから、外国人向けの喜劇なのでしょうけど、B作さんと加藤さんの音程が高低差が非常に大きいので、うしろで観ていても聴き分け易くて、よく笑え、はたまた解りやすかった。  世の中には反対ばかり言い合って、傷つきながらどうにも別れられない友情、まさにサンシャインボーイズといってよい同性がいるのでしょうね。

佐藤B作に会えてとても良かったです。

辰年初っ端の観劇で、私は「笑えない男」になってしまったようです。
 それは何故かと言うと、舞台で放たれたおやじギャグとも言えない様な駄洒落的なセリフが、私的にはこれが「アメリカンジョーク」というものかと思うと、私の笑い(ユーモア&冗談)のセンスを育んできたこれまでの育成環境の日米での大きな違いを痛感したからなのです。
 と言うのも、先ず前半部分での演技では、舞台上や私の後部座席の観客からの笑いは起きていましたが、悲しいかな私の心の中には全く笑いが生じませんでした。ですから、不謹慎な言い方かもしれませんが、いつの間にか夢の世界に誘われていたようです。そして、時折我に返ったように頭をもたげて舞台に視線を移すと、やはり私の「笑いの琴線」に全く触れない異質なアメリカンジョークが舞台上で繰り広げられているだけでした。
 その後、15分間の休憩を挟んで後半部に突入した途端に舞台上に現れたのは、退屈な雰囲気を感じていた前半部とは全く異なる景色でした。この後半部の舞台セットを眺めると、今までとは趣が違うので、これはチョッとは期待できるかなと…。ですが、それも甘い期待であったという事が判明するハメになるとは、その時は全く予想だにしていませんでした。その理由は、舞台上の役者間で繰り広げられたアメリカンジョークの応酬は、今回の劇中での時代背景からすると、当時としてもやや下品ながらも特に問題視される程ではなかったのだと思ったのですが、そのアメリカンジョークの内容を今現在の時代背景や日本人(ここでは私個人としておきます)の笑いのツボへのハマり具合から鑑みると、ハラスメントの範疇に置き換わられることとなり、決して無邪気には笑えなかったからなのです。それに加えて、これも役者の演技にケチをつけるようで心苦しいのですが、佐藤B作氏のセリフを発する口調が、ただ闇雲にがなり立てるような感じで、その為に何を喋っているのかが、観客席に居る私には全く聞き取れなかったのです。もっとも、彼の口調は今までのテレビ等で見聞きしていたので、生の舞台上でのセリフの言い回しが特別では無いという事が分かった上での私の正直な感想です。さらに、舞台上での二人のやり取りが、単なる頑固爺の我がまま合戦の様な印象を受け、正しく昭和の化石か遺物かと見紛う感じで、私としては決して気分よく観ていられるものではありませんでした。 とまぁ、上述のような色んな要因が絡みに絡んで、今回ばかりは「笑えない男」となってしまったというワケです。 さて、では何故その様な「笑えない男」になってしまったかという、そのキーポイントとなる理由について、私なりに考察した上で得た解釈(理由)をご紹介したいと思います。
 それは、冒頭でも記しましたが、国が違えば笑いの感覚が違うため、アメリカンジョークを理解する為には、やはりアメリカの文化や歴史、さらにはアメリカ人の国民性への理解も必要となるのは、当然の帰結であるかと思います。
 加えて、ものの解説によると、アメリカンジョークとは、二つ以上の意味を持った事柄や単語によって、作り上げられている事が多いとのことです。となると、私なりの解釈では、同じ単語でもその場の雰囲気や状況からその単語の裏の意味を理解しない事には、そこでのジョークが何を意図して笑いを誘うのかが、全く理解出来ないことになります。
 つまりは、英単語の持つ表裏での二重の意味と、そのジョークが放たれるアメリカの世情とをキチンと理解した上でなければ、その意味を理解していない日本人には全くもってチンプンカンプンなのだとの考えに至ったのです。 という事で、ジョークひとつとっても、それを正しく理解して心から笑う為には、それなりの経験と知識が必要なのだと、その奥深さを知り得ただけでも、今回の観劇は私にとってそれなりの教訓を与えてくれた貴重な経験であったのだと思いました。

愉快な作品でありながら、「老い」の寂しさと覚悟が伝わってくるような…。

よく笑った楽しい時間を過ごすことができました。

テンポがよく、観るものを飽きさせない、それぞれの役者の方々の話術と芝居に感動しました。最高でした!!

A席で観ることが出来、細かい動き・表情がよく見えました。そして、ウィリーとベンとアル・ルイスの言葉のテンポが心地よく、また、熱演されていてすばらしいお芝居でした。

とっても良かったです。加藤健一事務所の作品はいつも楽しみにしていて、心にしみますね。

主役(の一人)ウィリーを演じる加藤さんの笑顔、既視感の有る笑顔なのだが誰だったのか思い出せない。芸能界にいたと思うのだが、知人の田村さんの笑顔にも似ている・・。
 劇中劇の中のふたりのやり取りはまさに「誰にでもわかる軽演劇(ヴォードビルショー)」で、いっちょ最初に浮かんだのは、普及しだした頃のTVでのアメリカの番組、「三バカ大将」、「ちびっ子ギャング」を観て、お腹が痛くなるほど/息が詰まるほどに笑い転げたこと。
 最近TVでは見かけなくなったB作さん本来の活動/芸風(私が思い込んでいる)と重なり、懐かしく/素直に楽しむことができた。「欽ドン」の“良い子、悪い子、普通の子”での山口良一、「週刊欽曜日」でコントを繰り広げた佐藤B作さん、幾つになっても自分にはまだまだ“伸びしろ”があると信じ“軽演劇”に取り組んでいる/きたということですかねぇ。私と同年代のB作さんには、「あと十年、いや五年」はこれでもうよしとする事は永遠にないのかも知れない。羨ましい限りで、「画狂老人卍(北斎晩年の雅号)」ならぬ「演狂老人卍」ならではの意気込みが感じられる・・。
 「ダイヤモンドは粘り強く仕事をした一片の石炭である」ともねぇ。 “天上天下唯我独尊”の老齢になってしまった私世代に、“詰まらぬ拘り/意地”に気づきながらも抜け出す勇気がない主人公(ウィリー)を通して、(我が身にも重ねてと)気付かせようという構成/意図を感じさせられるのが少しばかり居心地が悪い。
 あいかわらずの貧乏でも、そんなことはどうでもいい、自分にしか演じられない“軽演劇”をひたすら目指すのだ。自分であるために、本当に必要なもの、大事なものは何か、ともねぇ。 若い時にはいろいろなものが欲しいし、目にも入ってくるが、年を重ねるにつれて余計なものはそぎ落とされ、すべてはあるところに集約されていく。誰もが通ってきた道かもしれない。
 コントでの“お色気”(その場面では)ナースは必要なのか、と収まりが悪くて居心地がもうひとつだったが、このナースが黒子になって操った“骸骨踊り”で、“お色気”は挿入の前振りと解り、何だかホッと。 まさに、軽演劇の真骨頂でしたね。
 アメリカでの“(劇中劇の)ヴォードビルショーの大ブレイク”は、もちろん戦後の日本にも入ってきて、その展開/変遷を真下で経験したのは私たちの世代。漫才では“エンタツ・アチャコ(掛け合い漫才の始祖?)”に始まり、“いと・こい(上方漫才の宝?)”、やす・きよ(現代漫才のリーダー?)“達へと変遷/展開していった”巨星たちが“が今の漫才&コントの盛況を生み育んでいる。
 一方、我ら“昔はよかった”世代にとっては、近年の先端技術活用、外見/見た目を賛美、スピード/大声(ガナリ)、オーバーアクション/変顔などの風潮は、大衆演芸を愛好し、慣れ親しんできた大衆(年配)の芝居/実演ばなれを招き、結果的にこれらの衰退へと繋がっているのではとも・・。
 大衆(若者)は新しい物好きです。芝居小屋の演劇/映画館での映画鑑賞よりも手軽でスピーディーなTVやPCの登場が、これまでの魅力に取って代わり、より刺激あるものを追い求めるがゆえにサイクル(寿命)が短く→より刺激を求める・・。社会情勢を伝えるTVニュースやSNS.も、当世の風俗や人情等を題材とする芝居/演芸にとっては、手強いライバルとなっている。
 「昔は良かったなぁ」と思うようになると、人生そろそろ終着駅に近づいてきたと覚悟した方がいい、とも言われているが・・、 1950年代(~幼稚園/小学校低学年~)に、映画/芝居好きの母親に連れられて行った映画や芝居(常設小屋“布袋座”)などの想いが甦ってきた。その頃の娯楽は家で聴くラジオドラマ(“猿飛佐助”、花菱アチャコと浪花千栄子の“お父さんはお人よし”)、ヤミーチ(闇市)で流れていた“生きな黑兵衛(粋な黑塀)神輿の末に(見越しの松に)あだ名すがた(仇な姿)の洗い髪・・” と「粋な黒塀」「見越の松」といった仇っぽい名詞句を何も知らないままに盛んに歌ったり、街頭TVでの“力道山プロレス”で力道山が繰り出す空手チョップに熱狂したり、“世紀のご成婚”で家庭にも普及しだしたTVで息苦しいほどに腹を抱えて笑って観ていた“三バカ大将”や“ちびっ子ギャング”の笑い(とてもとても古いセンスで、今では通じないギャグだったのだろうが・・)
 たまに外に出て(お金を払って観る)勧善懲悪モノ(怪談絡み)の時代劇映画や歌謡、誰にでもわかる軽演劇(ヴォードヴィル?)がその頃の庶民の娯楽(映画や芝居)で、杉ノ馬場から路面電車に乗って中間町にあった常設芝居小屋の“布袋座”へ、映画館での“ひばりの捕り物秘帖”、“錦之助の一心太助”等々。幼少の頃は、芝居小屋や映画館(3本立て)行くことが外で楽しむ娯楽の時代だった。正真正銘の歌舞伎などは、大いに敷居が高くて(今でもそうだが)、二の足を踏むが、芝居小屋や映画館なら、チョットの贅沢で立ち寄れる気軽さや便利さがあったのでしょう。
 演劇/娯楽は、ある一つの時代の社会の断面を、演劇/娯楽の視点で切り取り、それを表現する。考えてみれば、演劇/役者というのは、もともと時代の代弁者的な要素を秘めている。これら役者/芸人がもっともよく体現していたと言えるのかも知れないのでは・・。
 「芝居小屋が生きた演劇であり得たのは、昭和初期の庶民が存続した時期に限られていた。日本は国際的発展を遂げていく中で、これら軽演劇を犠牲にせざるを得なかったのでは」
 それでも/だからこそ、「昔は良かったなぁ」と心の中でつぶやく。
 そんな機会を与え楽しませてくれた、サンシャイン・ボーイズは演劇の目指す一つのテーマ/娯楽のだとの認識を新たにさせてくれた。 これば大衆演劇の原点だと・・。
 「人には“残日計”に刻まれた時間を知る術はなく、約束された明日もない。目の前の景色は一生に一度、繰り返しと映る景色でさえも一期一会でゆるがせにできるものはない。自身の胸に問う時間はまだ十分にある。」と誰かが言ってましたねぇ。

「サンシャイン・ボーイズ」のポスターを目にした時から公演が楽しみで わくわくしていました。序盤 加藤さんの出番が長いなあと思っていましたが,それが終盤への伏線になっているのだと気付きました。
 加藤さんも佐藤さんも存在感があってお二人の一挙一動に目が離せませんでした。反発しながらも惹きつけられている二人の関係が俳優としてだけでなく二人の人間としての関係でもあるのが心に響いてきました。
 さすが喜劇 劇中何度も笑いましたがオチの決め所でも存分に笑わせてくれました。
 脚本はもとよりお二人の素晴らしい演技力に喝采を贈ります。

鳴門例会カーテンコール

E-mailでのお問い合わせは、        鳴門市民劇場ホームページ
nrt-geki@mc.pikara.ne.jp
まで。