劇団民藝公演「静かな落日」鳴門例会(2012年3月24日)で“広津和郎”役をされる伊藤孝雄さんを開演前の楽屋に訪ね鳴門市民劇場がインタビューしました。
- 鳴門市民劇場(以下鳴門と略)
- 伊藤孝雄さんが一番好きなお芝居であるとお聞きしましたが、そう言わしめるこのお芝居の魅力とは何でしょうか?
- 伊藤(敬称略)
- どんな役でも、自分より素晴らしい方ばかりを演じさせてもらっていますが、こんに素晴らしい方はいないんじゃないかと思いますので、役者冥利につきますね。全員無罪を勝ち取るまでに、10年をかけて頑張ったのに、被告の前ではガッツポーズや万歳もせずに、一言『ようござんしたね』って言っただけ。そんな洒落たところがかっこいいですよね。
- 身も心もズタズタになる程の年月だったであろうに、そのことは何も言わず、ただただ、人の命の大切さを追い求めた方ですよね。僕もそんなふうな人になりたいと思いますね。また縁を感じる理由の一つが、僕が住んでいた中野の自宅の前が最高裁の官舎で、今思えば僕は、当時の最高裁長官である田中耕太郎を見ているんですよ。最高裁の判決は、無罪が7で有罪が5なんですよ。もし一人が有罪に票を入れていれば、最高裁長官の決に委ねられ、結果が変わってしまったかもしれない、その一票を掴むための広津の努力は並みならぬものだった筈です。広津は、調書の矛盾をひとつひとつ見い出していくんですよ。例えば、法廷記録には最初の謀議から15キロ離れた次の謀議の場所へ30分で移動したとあるんです。そんな事は到底無理ですよね、しかも足の悪い人が。松川事件は政治運動っぽくなりデモが行われたりしましたよね。でも、広津はそういうのは好きではなかったようですね。むしろ心証を害するのではないかとも考えていたんではないでしょうか。
- 鳴門
- 舞台には、無罪を勝ち取っていく過程は描かれているんでしょうか?
- 伊藤
- 刑事が自白を強要する場面は描かれていますが、具体的にはありません。よく法廷劇の様な、丁々発止やる場面を期待される方が多いんです。『十二人の怒れる男たち』のようにね(笑)。でもこれは、三代にわたり作家になってしまった、柳浪、和郎、桃子の私生活の話ですからね。むしろ親子関係、友人関係を中心としたお話です。親が嫁に行かない娘を心配したり、だらしない父親を見直す娘の心の動きなど、行間にほのぼのとしたものが漂う様なお芝居です。言ってみれば小津安二郎の映画の世界ですね。なんでもない日常会話なんだけど、黙ってみているとぐっと引き込まれてしまう、そんな芝居です。
- 鳴門
- 実際の人物を演じる上で、気を付けたことはありますか?
- 伊藤
- 僕が、嘘をつかないということですね。僕がそのセリフを言いたくなるような状況をいつも造れればいいと思って演じています。ここはテーマに関わるから高い声で力強く言おうなどと作戦を立てないで、そこでその気持ちになったら普通にしゃべればいいんです。それが、嘘じゃないセリフになるんです。観せようとか思ってもできるものではないですし、舞台はお客さんと役者の両方で作るものですからね。
- 鳴門
- 演じ手と受け手が一つになってこそ、いい作品が生まれるのが舞台なんですね。ところで、広津さん自身は、自分は弱い人間だとおっしゃっていますが、伊藤さんご自身との共通点は?
- 伊藤
- 僕もとんでもなく弱いですよ。こんな弱い人間はいないですよ(笑)。
- 鳴門
- 伊藤さんの好きなセリフ。好きな場面はありますか?
- 伊藤
- 広津は新聞や雑誌に『公正な裁判を望む』と書いたことがあったんですね。そして、だんだん事件の真相が分かってくると、以前に載せた記事に対してこう言うんです。『公正な裁判をという以上、前に不正があったと匂わせたことになる。じゃ、どこにどういう不正があったのか、それを何も書いていない。書こうにも書けないのさ。ろくに調べもしないで、ほとんど直感だけでものを言ってんだから。そんな文章に先方を揺さぶる力はないんだよ。それこそ雑音に耳を貸すなって言われて終わりさ』って。広津も印象でものを言っていた時代があったんです。それが何にもならなかったって気が付く場面ですね。芝居の核心に触れる場面です。そこが好きですね。
- 鳴門
- 中央公論で掲載されていましたよね。
- 伊藤
- ええ、あの時代にこんな連載をさせるというのは、かなり勇気が必要だったと思います。
- 鳴門
- 広津は『真実は壁を通して』と出会い、松川事件と深く関わることになりました。このような転機となるような人や本との出会いはありますか?
- 伊藤
- 大学で芝居をやっていたことが、今の自分につながっていると思います。
- 鳴門
- もし、俳優にならなければどのような仕事に就いていたと思いますか?
- 伊藤
- ひょっとして、弁護士かな。だって、一応法学部の学生だったんですから。でも僕には弁護士は無理でした。小心な僕には絶対無理です。弁護士になっている友人はどんなことにもブレない自分の哲学と強い精神力をもっているのに驚きます。暴力団まがいの相手とのやりとりにも臆することなくわたりあっている姿を見ていますから。僕にはとてもとても・・・。
- 鳴門
- いつまでもお若くて素敵な伊藤孝雄さんの健康法をお教えください。
- 伊藤
- 何にもないです。ただ、熟睡することです。広津さんの言葉に『寝るのが下手で、昼間も夜中も半分眠っているようなもの』ってありますけど、もし、もっともっと寝られるなら寝ていたいって思いますね(笑)。
- 鳴門
- 何時間くらい寝られるんですか?
- 伊藤
- 8時間は寝たいですね。絶対8時間は寝たいですね。昨日は氷雨が降っていましてね、そういう日はいい眠りができないですね。
- 鳴門
- 眠るときの工夫などされているんですか?
- 伊藤
- アイスノンを頭に巻いて、足元には湯たんぽを入れて、言葉通り頭寒足熱で寝るのがいいですね。最近は、電源入れるとゼリー状のものが温かくなるなんていう便利なものが出ていまして、それを持参しています。
- 鳴門
- ところで、伊藤さんは、鳴門にはもう何度もお越しになられていますよね。
- 伊藤
- ええ、鳴門というのは不思議なところですね。前に『明石原人』で来た時は、鳥居龍蔵先生の悪口を言う台詞がありまして、ご本人には聞こえてはいないだろうかって心配したものです(笑)。他には、散歩していたら『伊藤さん、カンチョウしませんか?』っていきなり言われてびっくりしたりとか(笑)。
- 鳴門
- ああ、観潮ですね。それはびっくりしますよね。ところで、旅に出られたら、よく散歩されるんですね。
- 伊藤
- 今は、芝居に集中しないといけないから出歩きませんけど、昔は、街を散歩するのも楽しみの一つでしたね。今日宿泊するホテルの近くに、魔女をモチーフに人形などを専門に造っているお店があったんですね。いろんな種類の魔女がいておもしろいお店でしたよ。魔女は入院している人にプレゼントすると、病気を持って飛んで行ってくれるという言い伝えがあるんです。なので、そこで何個かオーダーメイドで造ってもらったこともあるんですよ。
- 鳴門
- そんな、ご縁があったんですね。鳴門に住んでいますが、そんなお店があったなんて知らなかったです。今はもう……?
- 伊藤
- 『明石原人』で来た時は、もうお店は閉めていましたね。残念です。
- 鳴門
- そろそろ、お時間が来てしまいましたので、最後に私たちのような演劇鑑賞会の活動について、考えられていることがあればお聞かせください。
- 伊藤
- 鑑賞会あっての劇団で、劇団あっての鑑賞会です。うちの丹野郁弓っていう演出家がよく言っている言葉に、『お芝居はひとりで観ると単なる趣味に過ぎないが、みんなで観ると文化になる』というのがあるんです。いい言葉だなって思って、使わせてもらっているんです。また、『早春スケッチブック』というお芝居では、脳腫瘍で間もなく死んでゆく男が息子にこんな事を言うんです。『生きるってことはな、自分の中の死んでゆくものを食い止めると言うことよ。気を許せば魂は死んでゆく。脳髄も衰えて、他人の不幸に涙を流すなんて能力もなくなってしまう。それをあの手この手を使って食い止める、それが生きるってことだ。』って。みんな昔から青春時代のような純粋な魂があったのに、利己的になってゆくんですね。鑑賞会でお芝居を観ることは、自分の中で死んでゆくものを食い止める為には、とってもいいことだと思いますので、是非たくさんの方に観ていただきたいと思います。
- 鳴門
- 今日は、ありがとうございました。
E-mailでのお問い合わせは 鳴門市民劇場ホームページ nrt-geki@mc.pikara.ne.jp まで。