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いまむらいづみさんに開演直前インタビュー

楽屋訪問58

  劇団前進座「夢千代日記」鳴門例会(2013年3月15日)で“杉岡スミ”役をされるいまむらいづみさんを開演前の楽屋に訪ね鳴門市民劇場がインタビューしました。

いまむらいづみ
鳴門市民劇場(以下鳴門と略)
宇和島から来られたんですね。宇和島の印象はどうだったのでしょうか。
いまむら(敬称略)
前進座はずーっと藤浪小道具さんに頼んでました。藤浪小道具さんの職員さんが、お体を痛めて宇和島の実家の方に帰られたんです。それでその方が前進座を呼んで下さるんです。毎年、毎年、友達と一緒に実行委員会を作ってやってくださるの。四国で例会がある時には必ず一緒にね。
鳴門
そうなんですか。今回が初めてと思ったんですが、毎回なのですか。
いまむら
善家さんっておっしゃる方ですがね。裏方さんでしたから、裏方さんのご苦労を身にしみて解ってる。交流会に、役者全部、演出部全部、それから照明さんから小道具さんまで一緒に呼んでくれるんですよ。
鳴門
その方一人ですか。
いまむら
中心は一人なんですけど。グループ、仲間が一緒ですね。段々観ているうちに芝居好きになったんですね。この間のこれは良かったとか、いろいろお芝居の話を聞かせてもらいますよ。そういうところが宇和島なんですよ。宇和島へ行くとなんとなく善家さんと言う頭があって、小道具さんと言う頭があるんですよ(笑)
鳴門
どれくらいの方なんですか。
いまむら
60歳に近いと思いますね。若い時からずーっとやっていた男の方なんですよ。俳優にしても良いぐらいの良い男ですよ(笑)。それで宇和島へ行っているんですけど、宇和島は良いところですね。ともかく四国はどこへ行っても、山はなだらかでのんびりという感じですね。のどかですね。春のせいもあるのかもしれないけど。
鳴門
今朝は早く出発されたのですか。
いまむら
8時20分です、全員が。私たちは楽させてもらっていますが、若い人たちは、昨日も夜遅くまでして、今朝8時20分ですから。でも若い時は、私たちもやってきたから。
鳴門
どれくらいかかるんですか。
いまむら
4時間ですね。間でお昼食事もしてね。四国は暖かくていいですよ。四国の前は秋田だったんですよ。吹雪で(笑)。それがこちらは20度とか20数度とか。
鳴門
反応はどうでしたか。
いまむら
良かったですね。宇和島も、秋田もね。このお芝居は、私が中国残留孤児のお母さん役をやるのですが、残留孤児も出てきて、社会的な問題をちょこっと入れて、後の方は広島出身の夢千代さんの原爆の話になる。そういう辛いのがあって、間に笑いを豊富に漂わせている。大衆的なお芝居になっていますね。ですから演劇鑑賞会でなくとも、一般のお客さんでも結構楽しんでいただいているようです。
鳴門
演劇鑑賞会の会員と一般のお客とは、違うところがありますか。
いまむら
昔はありましたね。私が若い頃は、交流会にでるのがいやだったんですよ。ブレヒトがどうのこうのってね(笑)。追求されるんですよ(笑)。前進座はブレヒトなんかやりませんから。解んないでしょ。やだな、こういう会にでるのって(笑)思っていましたけどね。だけど、1982年に、石井ふく子さんの演出で長山藍子さんと「初蕾」という芝居に出たんですよ(演鑑で)。浜松へ行った時にね、普通の商業演劇でやっているのと同じように、うわーと笑って、泣いたりね。ありゃと思いましたね。それで、事務局長さんに、「あなた、婦人団体動員したの?」って、真面目に聞いたんですよ (笑)。「いいえ、全部会員さんですよ」と言うのです。演劇鑑賞会が、一時期からがらっと変わりましたね。しかも公演回数も、ものすごく増えました。静岡県下なんか1ヶ月半ぐらい居ましたからね。静岡で何日かやって、すぐ電車に乗って浜松で又やるんですね。そして、すぐ浜北へ移って又やるって感じでした。それぞれ独立していき、いっぱい増えました。全国、どちらも隆盛でした。今はどちらも大変ですけど……。そんな時代を通ってきたもんですから、演劇鑑賞会の変化に私はびっくりしました。
鳴門
この芝居の中では、三味線とか踊りとか、色々な芸がありますが。
いまむら
今度の舞台にはありますね。それは前進座の養成所で、三味線、長唄、日本舞踊の稽古があります。養成所を出て、何かチャンスがあれば、今回のような舞台は、その下地が見事に花を咲かせています。
鳴門
いづみさん自身が三味線、踊りが得意なんですよね。
いまむら
得意じゃないんですけど、一応は。前進座は集団生活をしていたので・・・。
  前進座が創立してしばらくたったら、皆子供たちが生まれ、この子たちには僕たちみたいな苦労をさせたくないと思ったのですね。長十郎さんでも翫右衛門さんでもね。前進座が出来る前は、なかなか役をやらせてもらえなかった。馬の脚だとかそんなものしかやらせてもらえなかった。そんな役でも、翫右衛門さんなんかは、すごく達者な人でしたからね、ちょっと出て笑わせる役なんかうってつけで、彼が演じるとお客がどーっと笑うんですね。そうすると、やっぱり三井(翫右衛門の本名)で良かったと言うことになって、少しずつ役がつくんですよ。
  ほんと役を貰うのは大変だったんですから。だから俺たちの苦労は二度とさせたくないということですね。第二世代の私たちの子供の頃には、劇団が組織化して教育部が置かれ、前進座のみんなが働いてくれた中から教育部費として月謝代を出してくれました。私たちは、小さい時から学校から帰って来ると、今日は踊り、長唄、明日は何々と大変でしたよ。しまいには英語、絵画、ロシア語と増えてしまってね。絵はメークアップに役に立つと言ってね。先代国太郎さんのお父さんの松山省三さんが教えて下さいました。
鳴門
「真夏の夜の夢」もやってましたよね。
いまむら
そうよ。私はパックをやってました。鼻をつけるんですよ。チューインガムを元にポマードとか色々なものを入れて作るんです。今はノースパティというものを売っているんですが、当時はなかったから。これは進駐軍のものでなければ駄目なんですね。日本のチューインガムじゃ駄目なんですよ。材料が違うんでしょうね。その時のメークは絵を習っていて良かったなァと思いました。
  教育部費ということで随分助かったのですが、前進座も苦しい時期になって、それで今は中断してしまっています。今の私たちは、残念ながら、自分たちが生活するだけで精一杯です。
鳴門
教育部費があったのは何年ぐらい前ですか。
いまむら
昭和22年から26年位じゃないですかね。もうちょっとあったかなー。有難かったのは、お師匠さんは、築地から前進座のある吉祥寺まで通って下さって、劇団がそいう腕の確かな人を選んでいたんですね。だから「出雲の阿国」をやった時に、吾妻徳穂さんがこられて、「私、ポスターが良かったから観に来たのよ」とおっしゃられて。そのポスターは手がバーとして(開いて)いてね、髪の毛が風に吹かれ躍動的なものでした。そして「どこで基礎をやったの」と、観た後で聞かれたんです。「藤間寿右衛門先生です」と応えました。やっぱり間違ったことは教えてないなと、すぐ専門家にはわかるでしょ。うまいへたは別にしてもね。
  バレーのお稽古もあったんですよ。というのは洋物やってましたでしょ。私がパックのときは子役の分際でしたけど、教育の中で伊藤道朗先生(千田是也先生のお兄さん)が洋舞の方やってらしゃったのですが、そのお弟子さんが吉祥寺まで来てくださって、稽古場にバーも作りました。シェークスピアのものをやる時はタイツをはいて、足をさらけ出すわけですからね。今までは腰を落として膝を折って、日舞ばかりやっていたでしょう。皆んな膝が折れているのでこれはまずいって言うんで、大人も子供もバレーやろうということなったんです。
  それで道朗先生にお願いして、お弟子さんがいらしてワンツースリー とやったんですよ。私が年長で、先生がいらっしゃらない時は代稽古をやらされていたんです。ちょうど、それを土方与志先生がごらんになって、「あれ、パックに使おう」っておっしゃったんです。
  土方先生がそうおっしゃらなければ、私は学校へ行っていましたよ。高校は5日しか行ってないのですけどね。「真夏の夜の夢」のお稽古が始まったのが、私が高校へ入学して5日目だったんです。
  その次は、ジュリエットをやらせてもらったんです。それからは、学校へはずーと行けなくなりました。だからバレーも日舞も(笑い)。声楽の方は関先生(当時、中央合唱団の先生)に教わりました。これまでの発声法とぜんぜん違いますから……。
  歌舞伎のほうは義太夫が基礎ですから。舞台声って言うんですけどね。舞台声が出るまでに10年はかかるって言いますね。このように、第二世代の私は、小さいときからの教育部費のおかげで習い事に携わってこられたということです。だから阿国やった時に助かったなあと思いましたね。小さい時やっていたということの有難さが初めて分かったんです。
鳴門
前進座は鳴門ができてから一番多く来てもらっています。9回ですね。
いまむら
あーそうなんですか、私は何できていますか。
鳴門
銃口ですね
いまむら
そうか、銃口で、北森君のお母さんね。(笑い)
鳴門
ものすごく興味あるのは、どういう作品を選んでどうやって作っていくのかですね。
いまむら
やはり、組織がありましてね、文芸演出部という文芸部と演出部が一緒になっているものですね。文芸部は本、作家ですね。座付き作家という劇団専属の作家が、昔は平田兼三さんという方がいらしてね。その方は歌舞伎のものも書いていたんですが、劇団に入って座付き作家になりました。近年では、津上さん、田島さんが居られます。外部の方に依託する場合もあります。レパートリーは、先ずは文芸演出部で案を出し、幹事会で決定します。座員なら誰でも出せます。たとえば、営業をやっている人が読書の会に出て、三浦綾子さんの「母」を読んだって(小林多喜二のお母さんですね)、とても感動したので、やろうって提案されて、私300回もやったんですよ。劇団の中で誰かが提案すれば、それが良しとなれば、スタッフ、キャストを決めて、1つの作品に仕上げて行きます。
鳴門
いまむらさんから何か提案されたことはありますか。
いまむら
ないです。残念ですが・・・(笑い)。この夢千代日記も俳優の志村さんがやりたいと言って、ご自分で早坂さんのを元にして書いたんですよ。
鳴門
お忙しいとは思いますが、芝居以外に趣味などございますか。
いまむら
ないですね。芝居、芝居で芝居ばっかりですね。年がら年中こうやって歩いてますでしょう。ですから趣味は駄目なんですね。
鳴門
休日はないのでしょうか。
いまむら
休日はもちろんありますよ。趣味というよりは映画が好きですね。映画鑑賞が好きです。
鳴門
映画と芝居では演技の仕方が違うんでしょうか。
いまむら
違うんですよ。私も映画に出たんですけどね。「沖縄」って映画に出たときに、カメラは寄るんだ、ということを思い知らされました。沖縄の米軍に雇われた労働者が、こういう扱いは御免だという場面があってストを起こしました。この時、おばさんが一人いて(それが私の役でした)、パスとられたりして、意見を言ったりしている。この時の指導者が最後には電気椅子にかけられるんですが、その判決をみんなで聞くんですね。
  レールの上を動くカメラが労働者たちの顔、顔、顔を撮っていくんですね。この場面は最後だし、組合の指導者は労働者に信頼されるいい人だったし、とっても大事なシーンですね。私は一生懸命芝居したけど、後で映像を見たら愕然、私だけくちゃくちゃの顔をしてるんですよ。他のエキストラはポケーっという感じの顔だったんですね。他のエキストラの人々の方が実にリアルだったんです。それがいやでいやで。それで試写してみたところが映像に傷が入っていたため取り直したんですね。うわーよかったと。
  舞台も映画も役作りの基本は同じですが、表現の仕方が違うと思います。
  自身の素材を生かす。下手に芝居をしない方が良いという場合がある。映画は監督次第ですね。だから、キャスティングが勝負になるでしょうね。
鳴門
私たちのような演劇鑑賞会へのメッセージをお願いします。
いまむら
前進座もそうですが、若い人が食いついてくるような、興味を持てる芝居のあり方を、どうしたらいいでしょうかと思いますね。
  前進座のお客さんもそうなんですが、お客さんそのものが心配してくれて、若い人が来ないと前進座だめなんじゃないのといわれちゃうんです。そこがこれから発展していくかどうかの鍵じゃないかという気がするんです。どうしたらいいんでしょうね、本当に。今の若い人たちは趣味、好きなことなど自分でやることがいっぱいありすぎるからね。生活のこともあって、私も子育てのころはそれどころじゃなかったですからね。子育て真っ盛りの人は誘えないし、生活もなかなか苦しいんでしょう。大変でしょ、今は。会費はいくらですか。
鳴門
毎月2500円です。年6回例会があるので安くはないですね。
いまむら
前進座も若い人が育っていますから、また前進座を呼んでください、若い人たちを育ててください。やっぱり鑑賞会の皆さんが取り上げてくださらなければ劇団はやっていけません。私たちはものすごく大切に思っています。ですから、私たちは、いい芝居を創ります。
鳴門
そうですか、ありがたいです。『さんしょう太夫』もいいと思いました。
いまむら
『さんしょう太夫』もいい芝居で、昨年、あれは東京で千回を迎えましたけど、全国でお呼びがあって、A・Bの2組つくり、北から南まで交代でずーっと公演したので千回になったのですよ。
いまむらいづみさんとインタビューア

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nrt-geki@mc.pikara.ne.jp
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