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佐々木愛さんに

開演直前インタビュー

楽屋訪問96


 劇団文化座公演「銀の滴 降る降る まわりに -首里1945-」鳴門例会(2019年12月4日)で“与那城イト”役をされる佐々木愛さんを開演前の楽屋に訪ね鳴門市民劇場がインタビューしました。

佐々木愛

鳴門市民劇場(以下鳴門と略) この劇の観どころについて教えてください

佐々木愛(敬称略 以下佐々木と略) 何も考えないで自然に観ていただくのがよいと思うのです。お芝居の中には主人公の人生を追っていくという作品がありますが、今回の芝居は群集劇ですね。ですから、沖縄の青年とアイヌの青年が中心人物ではありますが、他の一人一人の兵隊も全部きちんと書かれていますので。
 お芝居って、観る方がその中の誰に心を寄せてご覧になっても自由なんです。自分は何かあの人に惹かれるなっていう人を見つけて観ていただけるといいと思うんです。
 映画やテレビの場合はカメラアングルがあって、監督さんの意図でカメラワークが決まっています。でも、お芝居は舞台の中で沢山の人間が一緒にやっていますから、どこを中心に観るかは観ている方の主観が定めることなんですよね。だから、その辺は自由にご自分に共鳴できる人物に寄り添って観ていただくのが一番良いと思います。観どころは、皆さんが見つけて下さい。

鳴門 与那城イトを演じるうえで、気をつけられたこと、工夫されたことがあれば教えてください。

佐々木 私の役、イトの場合は首里の近く運玉森の生まれなんです。この作品の中でウチナンチュー(沖縄人)が5人出てくるんですけど、何処で沖縄の方がご覧になるかわからないし、できるだけ沖縄の方の特徴というか言葉とか仕草とかをつかんで演りたいなと思って勉強してきました。
 昨日徳島で、沖縄に住んでいる方が観て下さって、「おばあのウチナーグチ、私の周りのおばあたちと同じです」と言って下さってすごく嬉しかったです。
 多分、皆さんには何をしゃべっているのか分からない。だから戦争中に禁止されたり、スパイの疑いをかけられたりする。それで方言を使ってはいけないということになるわけね。歴史的にもそういうことがあるので、そこには気をつけて演っています。

鳴門 このタイトルにはどのような意味が込められているのですか教えてください。

佐々木 何か不思議な名前のお芝居だなと思うでしょうけど、観ていただくとわかっていただけると思います。
 アイヌはそれまで独自の文字を持たなかったんですよね。歌や詩も口伝です。ユーカラってご存知でしょ。言語学者の金田一京助さんが北海道に行った時、アイヌの聡明な少女、知里幸惠さんに出会ったんです。そして、知里幸惠さんを東京本郷の自宅に招いて、アイヌの口伝の物語を文字化したんですね。それを金田一京助さんが監修してアイヌ神謡集という本を出したんです。ただ、知里幸惠さんは金田一京助さんのお宅で、本の刷りができて最後の校正をし終わった時に19歳の若さで亡くなってしまったのです。
 「銀の滴降る降るまわりに」と非常にきれいな言葉なので「アイヌ神謡集」を知っている方だと、これはアイヌのお話しだなと思い浮かべて下さる。そして「首里1945」というので、このお芝居の舞台は沖縄だとわかるわけです。脚本をお書きになった杉浦久幸さんが「銀の滴降る降るまわりに」という言葉を使いたいねって言われて、そして私が「首里1945」をつけ加えて、この題名になったんです。

鳴門 佐々木さんのパワーの源を教えてください。

佐々木 何でしょうね、俳優って、これでいいっていうことがないんですよ。いつも課題が目の前にあって、それを乗り越えなければいけない。だから、いつも宿題だらけなんです。私は今年76歳になりますけど、普通の人であれば学校が終わったら宿題はなくなるかもしれませんけど、私たちの場合は未だに宿題だらけ、今度の作品で言えば方言を入れなければいけないとか、時には三味線を覚えなければいけないとか。作品に合わせていろいろ身につけたり、考えたりしなければいけないことがあります。いつもアップアップして受験生のごとくやっています。もし他の方よりパワーがあるとすれば、その緊張感かもしれないです。
 もう一つは若い人と仕事をしていますから、それもあるかもしれませんね。劇団の中でも一番年長ですから大事にはしてくれますけど。稽古のスケジュールとかそういうのは若い人と同じことをこなさなければいけませんからね。皆さんだって絶対に潜在的なパワーは持っていらっしゃるはずですから、私は70だからとか80だからとか自分で決めつけないでいろいろされたらいいと思いますよ。でも一番は芝居が好きだからかな。
 健康のためにしていることは特にないですけど、お芝居をやるにはいつも体のコンディションを整えておかなければいけないので、3か月に1度は病院に行って全部チェックしてますし、東京公演、旅公演が終わった後とか、節目節目には温泉に行ってデトックスをして体調を整えています。

鳴門 この世界に入られたきっかけを教えてください。

佐々木 きっかけは高校の先生に勧められたんです。うちは両親が芝居をやっていましたので、お芝居をやることは大変なことだと思って簡単に首を突っ込めるものではないなと思っていたんです。子供の時、映画の監督で巨匠と呼ばれた内田吐夢先生から、子役でお声がかかったんですが、二度もお断りしてるんですよ。演ずるということがそんなに簡単に自分にできるとは思わなくて。
 高校1年の終わりに進路のことで先生と長い面接をしたんですけど、その時に、「将来何になるつもり?」って言われて、「お医者さんになろうか、何になろうか悩んでいる」と言ったら、「君は両親が芝居をやっているんだからそっちの世界に行くのがいいんじゃない」と言われて、それですぐに文化座の研究所の試験があったので受けました。その先生が言って下さったことが結果的には良かった。というのは、俳優というのは基礎のいる仕事だから早く始めた方がいいと。だから、高校2年の春に文化座の研究所に入って、昼は高校、夜は研究生という生活を2年間やったんです。3年生のときに昨日やった徳島なんかは、母の主演した「荷車の歌」で旅にきています。それをご覧になったという会員さんに何人もお会いしましたよ。

鳴門 演劇鑑賞会についてのお考えを聞かせてください。

佐々木 鑑賞会に呼ばれてお話をするときに、最初の高校3年生のときの私の初旅が、私の人生を決めた……というふうにお話しているんですね。
 私は若い年で始めたので、テレビとか映画に声をかけられて外の仕事も随分したんです。でも、最初に高校生で回ったときの全国で迎えて下さる皆さんの一生懸命さっていうのかな、それと、お芝居を観た後の熱い雰囲気というのかな、それが私たちは待たれている仕事なんだな、待っていただいている仕事なんだなということを感じました。
 俳優としていろんな道があるけれども、こういう方たちと向き合って仕事をしていきたいなと思ったのが、思い返すと最初の旅の強烈な印象でしたからね。
 今、日本が危ういような状況、大人が平気でずる賢いことをするようなところを、若い人たちに見せたくないなと思うような時がありますよね。私は全国お芝居で旅して、人間の良心のようなものを共鳴し合える人達と繋がってやっていくということが、すごく今大事なことなんじゃないのかなと思っています。だから、与えられたスケジュールに対して、何とかこのスケジュールを乗りきらなければという責任感のようなものも、先ほどのパワーに繋がっているのかも知れませんけど。
 私は去年の暮に脚を痛めてしまって、まだ完ぺきに治ってはいないんですよ。でも、お芝居を一年中やりながら、ここまで治ってきたので、来年は少し体も空くので、もうちょっと治して観賞会の方が元気になるのを見届けたいと思っています。
 こちらのように7年間クリアを続けられたと聞くと、本当に励みになります。嬉しいですよ。

インタビューアー

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nrt-geki@mc.pikara.ne.jp
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