ホーム > これまでの例会 > 北へんろ > 感想集

北へんろ

劇団俳優座公演

鳴門市民劇場1月例会 2021年1月13日(水) 感想集


鳴門例会カーテンコール

最後のカーテンコールで「清和館」の女将、須藤いわね役を演じた役者さんが感極まって涙を流して、声をつまらせていたことに大変感動した。
 厳しいコロナ禍の中、舞台を鳴門まで届けてくれた劇団の方々と劇団を迎えるために何回も会合を重ね、多くの準備をしてきた私たち会員が一体となった瞬間だったと思う。
 少女が歌う、民謡「南部牛追い唄」「新相馬節」の“生うた”が切なく心に響いた。

不思議な作品だった。時空を越えて、大切な人を亡くした者と亡くなった者が、無念さや悲しみ、「思い残し」などを胸に秘めて交流する。
 事前の予備知識もないままに観たが、じっくりと集中して観た。会場も水を打ったように静かに見入っている人が多かった。生と死について今どう考えたらいいのか、課題を与えられたような不思議な作品だった。
 「ジュン」の民謡のうまいこと、うまいこと。聞きほれた。「民謡」というものの力を改めて感じ、CDでも買って聴いてみようかと思ったほどだ。

人生には社会、災害、家族関係等により必ず悲しい別離があります。私個人としても、昨年妹を亡くし、知人に病による余命心配な方もいます。亡くして、手が届かなくなると色々な反省や悔いが残り悩みます。何が起こっても乗り越えて行ける力と日々仕合せを感じられる生き方をしたいと思いました。

深く考えさせられるいい芝居でした。民謡が好きなので、東北の民謡の素晴らしさにも改めて感動し、文化の奥ゆきを感じました。

なんとも不思議な物語であった。「清和館」の女主人はこの世の人ではなく、またその夫も。現実の人は誰と誰なのかと色々考えながらも、物語は進んでいった。劇中、少女が歌う民謡は時に悲しく、時に力強く、私の心に突き刺さった。母と子の再会という目的を終えて、崩壊した「清和館」。「清和館」は息子を思う母そのものであった。「北へんろ」は、ひと目だけでも、もう一度息子に会いたいと願う母親の気持ちと、震災で無念な死をとげた人々の悲しみや痛み、残された者の心の葛藤など様々な感情が入り混じった、とても考えさせられる悲しくも勇気づけられる舞台だったと思う。

既に舞台の手前にお墓が存在していた。始まる前から象徴的に、お墓とも分からない物体が・・・清和館の女将の強い生きざまがこの話をつらぬいていた。人の死に何度もぶつかってきて、生き生きと思うように生きてきたある日、そのお墓の中から息子が出てきて、母さん、僕、死にきれないよ。頼むから呼びかけてくれるな。と、意外な注文を付けた。そうか、未練が長いと死者は困るのかと教えられたりしたのは私だった。
 しかし、断固戦争はダメ、絶対にしてはいけない!!

あ~、そうなのか、それで旦那さんが異様に若いのね。と不思議な関係性の謎が解けたのが、ほぼ全員が死人(しびと)だったからと分かってから・・・
 一つの舞台で、戦争に各震災でなくなった方の無念さ、残されたものの諦めきれなさ、心をどこに持っていったらいいのか分からない。そんな気がしたが、人生、いつ何が起こるのかなんて分からない!その時になって後悔しなくてもいいように、やりたいことは全てしよう。やらない後悔よりも、やってする後悔のほうが納得いくように思っている。
 しかし、天災はまだしも、戦争は人災・・・二度と起こしてはいけない。人が助け合い、支え合える世界であったほしいと思う。女将のような念を抱く人をなくさないといけないと思った。

なんとも不思議で人々の思いが時代を越えて導かれていく。そこで、歌う少女の民謡は人々に感動を与え透明でまさに心に染みる歌声でした。

宿泊者たちと来訪者たちの交流が楽しかった。地震で崩れていく場面には驚いた。民謡を歌った人の歌が素晴らしかった。

多くの人たちの災いに立ち向かう心情が表現されていて復興に向けての願いのこもった演劇だったと思う。

朝食を食べる時、箱膳が出た。今どき、テレビドラマでもお目にかからない。いつの時代の話か?と思ったが、話がすすむにつれて理解でき、芝居にひきずり込まれた。思わずゾクッとする場面もあった。セリフもよく聞こえて民謡の美しい声も心に響いた。死者を永遠に待ち続ける死者達の姿、成仏できない魂が本当にさまよっているのだろうか。「時間は自分のものではない」なるほど、自分が年を重ねる毎に考えさせられる。

阪神大震災が1/17で26年目を迎え、東日本大震災が3/11で10年目を迎える。また、日本各地での震災があり、そして近いうちに南海トラフの地震が予想されています。一人一人の体験でドラマがあります。私も阪神大震災で家が半壊になりました(宝塚で)。今でも、あの恐怖は覚えています。そして、友人のお母さんと息子さんが亡くなり、娘の友人も西宮で家の梁の下敷きになって亡くなり、悲しい思い出があります。娘も毎年1/17はその友人宅へ行って、お父さんとお母さんと話しています。私も友人の息子さんへお線香とかお花をお供えしています。友人は毎年ビルが倒壊した西宮の現場へ行かれています。友人の息子さんは、なかなか遺体が出てこなかったので出てきたときには美しい体でしたが、体には触れず、爪をさすっていたのが印象に残っています。半月たってのことでした。26年目に入った今でも心の傷は残っているようです。私たちにできるのは、少しの時間でも話をしたり、気分転換できるようにすることしか出来ませんが・・・。
 今回の舞台も同じ震災でもう一つ津波があって、被害も大きくなりました。今回の観劇のテーマも同じで震災の大変さ、怖さを改めて思い出しました。また、後半相馬の民謡が心に響きました。皆、前を向いていくしかないですね。

災害の悲しみ、失った人への思いから離れられず、現実世界で真剣に迷う人達と、ずっと昔にこの世を去り、息子への執着心から幻の旅館を営む夫婦。
 まさに、この世とあの世が出会い、魂が関わり合い、融合し合う、まか不思議な物語であった。人の奥深い心、自然災害や戦争など、大きな世のうねりの中でか弱い大切な人の命。身近な人や家族を追い求める魂に共感した。現実世界より人の心や魂の世界がずっと深いようにも。

鳴門例会カーテンコール

俳優座の「北へんろ」を観劇しているときに不思議なお芝居と思った。死後の世界と現世とが入り混じっている。発想が凄い、それをお芝居にしたことも驚きでした。
 感動した場面は、母が出征した長男の帰りを待ち焦がれている『清和館』に清和(長男)が帰ってくる所。セピア色(随分昔の写真の色)を連想させる照明で2人をシルエットの如く見せる照明の技術。台詞も「待つことは相手を縛ること」「もうお母さんは自分自身の道を歩いて欲しい。」と母への愛を示した。死後の世界ではあるが母・子の愛情の深さを感じる1シーンでもあった。
 ネットの解説文を読めばTVのクルーが東日本大震災の直後、中学生位の学生さんに「今、一番欲しいものは」と尋ねたところ「亡くなった人の命」と答えた。この言葉も根底に流れていると書かれている。

清和館を舞台に、いろいろな人物が集まり、物語が進んでいくのですが、清和館の女主人いわねと夫の清介の見た目がかなり年の差があるなぁと思った後、つぎつぎに来る宿泊客も、また同じように清和館の存在を問い詰め、自分達の事を解き明かしていく、少しミステリーも入った作品で最後まで見入ってしまいました。ジュン役の佐藤理加さんの歌声がとても素敵でした!

東日本大震災をベースにしながら、地域に生きる人々の気持ちに寄り添った内容が良かった。阪神淡路大震災(元教師)やアジア、太平洋戦争での兵士の死(息子)などにも関連させ、歴史、継承の大切さを訴えていたと思う。民謡の歌声は素晴らしかったです。

劇中に使用された民謡に心惹かれた。

人それぞれに過去があり、人生がある。招魂されたかのようにたどり着いた清和館。戦士した息子、清和が帰ってくる。「もう、楽になりなよ」と母に向かって息子は言う。縛り合うことなく、生きてくれと「へんろ」の早見透、かなえとジュン、大きな震災と阪神淡路大震災の繋がり、原発問題、いろんな社会問題をかけての舞台。
 一見して中身が理解できなかったけれど、台本を読むと、大きな大切な問題を取り込んだ舞台なんだと納得する。ジュンの歌声が素晴らしかった。ラストの場面がとても印象的だった。

辛く悲しい過去と向き合っていく人たちの姿が描かれていたが、幽霊になってまで執拗に未練がましく生きる姿に共感できなかった。私は精一杯やってみて自分の力の及ばないところは仕方がない。運命だと思うことにしている。死ぬときは、ポックリ逝って、アッサリ消え去りたいものだ。

東日本大震災は遠く離れた四国の地でも、今も忘れられない災害です。私が住んでいる沖洲地区にも、高い建物に避難するように放送が流れ、沖洲川が逆流したそうです。テレビに映し出される映像にどれほど驚き、自然の力の大きさに恐怖を覚えたことでしょうか。今回の演劇を見て、今も突然の死を受け入れられずにさまよっているだろう魂が多くいることを想像せずにはいられませんでした。清和館が実は幽霊旅館であることに気づいた時には舞台全体にただよっていた、もの悲しい雰囲気にも納得がいきました。少女が歌う民謡は素晴らしく、聞きながら涙が出ました。

本作品と同じ作者、堀江安夫氏が書いた5月例会「いぐねの庭」の感想文の冒頭で、私は「震災を題材にした話には、本当に、弱い。」と書いた。「結構な時間、涙を流しながら観ていた」ということも書いた。本作品は、同じく東日本大震災をそして同様に人間が受けた災禍である戦争や阪神大震災をも盛り込んだものだったのに、どういうわけか悲しみの感情をこらえきれなくなる場面は無かった。それがなぜなのか…ずっと考えていて気づいたことがある。それは、本作品では、登場人物のほとんどが死者であるということ。当たり前だが、死んだ経験がない。死に至るまでの苦悩やもしかしてそのとき味わう苦しみ痛みは、何となく想像できるけども、「死んでから」どうなるのか、どういう気持ちになるのか?は…自分の想像力を超える。でも逆に、「生き残る」者の哀しみや後悔などは、多少は味わっているし、見聞きもするので、共感・感情移入が可能だ。そちらしか分からないせいもあるかもしれないけども「残る」方が辛いというのも持論。だから、残る者は、せめて、逝った者が安らかであるようにと、祈る。そう祈ることで残された者には救いが得られる。
 本作品に登場する“魂たち”は、最初はそうではなかった(安らかではなかった)。思い残しがあった。でも、さまざまなことをそれぞれに経て、最後には得心して本当に逝くことができた。そのことが「残る側」の想いしか想像できない私にも救いになって、重いテーマに見えながら悲しみの感情が高まるというより何かが昇華したような気分で見終えられた理由ではないかと思う。
 「人は二度死ぬ」といわれるように、一度目の「肉体の死」ののち「人に忘れ去られることでの死」があるなら、二度目の死はやはり一層悲しいことだ。だから、逝った人のことを忘れない、記憶にとどめる、語り継ぐということを大切にしたいというのも今回改めて思ったことだった。

人は心残りがあると魂だけが生き続けるという心の話だったと思っています!私も死んだ父が台所に居るときに「死んだ人は透けている」と聞いたことを思い出し、本当かどうか背中を触ってみたら固かったのを覚えています。今考えても不思議な夢です!戦死した息子を待ち続け、帰る家を残したいという親の心がすごく心に残っています。そこで考えたのが、戦死した祖父が出征した家が今は無く、驚いているだろうなと。迷わず我が家の位牌にたどり着いてくれることを祈るばかりです。

正直、最初のうちは理解がちょっと難しく、ん~何なんだろうと思ってしまい、休憩のときにあらすじをもう一度読み、そして後半を観て理解することができました。それぞれの悲しい現実をぐっと我慢したり、大声でさらけ出したり、また、自分で自分を納得させたり、人間の心のうちをよく表していたと思います。
 最後は地震ではなく、虚構の家が何かの力で崩れ去ったということでしょうか?

今回の劇の第一印象は、いきなり“ フリーズ ”と言った“ フレーズ ”がピッタリとする、私にとっては頭の中の混乱と共に舞台が始まりました。舞台に感情移入しようにも、劇中でのキャステングや時代設定、その他諸々の「北へんろ」を理解する鍵になるものに対して想像を全く張り巡らせることが出来なかったからです。ですが、劇が進行するうちに、そんな凍り付いた私の頭の中も徐々に溶け出してきて、劇中の色んな立場や背負っている過去等々、そして各々の役柄での相関図が私の脳裏に明瞭に作成され始めました。劇も中盤になると、その関係性や各々が背負っている苦しみや嘆きが、我が事のように思われてきて、最近とみに緩くなった私の涙腺からいつも以上の涙が溢れ出てくるではないですか…。「涙無くしては観られない」とは、正しくこのことかもしれませんね。
 それはさておき、各役柄の年齢や没した年代等を鑑みると、最初に違和感を抱いた旅館の主人と女将さんから受ける年の違い(女将さんがご主人の母親に見える)が理解出来ました。ご主人は、先の津波の犠牲となって、女将さんよりも先に亡くなっており、その亡くなった歳で止まっている為だと想像しました。そして、旅館(清和館)の建付けがかなり古く感じた理由もよくわかりました。建てられたのが昭和11年とか…、土壁が剥き出しで、その上に釜土は、昭和の遺物です。ちなみに、私が幼少の頃は、我家も土壁で土間の上に釜土でしたので、今回の劇中の背景には何がしらの懐かしさの様な哀愁を感じ取ったのは私だけでしょうか?
 一方、他の登場人物で、今回のキーマンは何と言っても神戸から娘さんの供養に訪れたお遍路さんの男性ですね。彼を軸として、その他の登場人物の各々の人生模様が炙り出されてきて、そしてその人生の重荷から解き放されてゆき、各々の登場人物に絡みついていたしがらみや悲しみから解放されて、最後には各人ともにそんな呪縛から自由になって本来居るべきところへ旅立って行くことができ、それぞれの魂に安らぎが訪れたのにはとても感動しました。その安らぎを手にする為にも、この「清和館」が、それを欲する人にしか見えず、且つ、そんな人でなければ訪れることが出来ない「魂の館」だったのかもしれませんね。清和館が佇んでいた所は、東日本大地震での大津波で跡形もなく流されてしまって、その跡には復興工事が進んでいたのでしょう。ですから、普通の人々には津波に流されて何も無い荒れ果てた跡地としてしか目に映っていなかったのに違いありません。ですが、魂の開放を求める人には、その建物の存在が目に見え、その宿への入館を許されたのだと思います。
 頭の混乱と共に始まった「北へんろ」ですが、その関係性が最後には見事に解き放たれて、私の魂も開放された気分になり、スッキリとした心持ちで劇を観終わることが出来ました。

2011年3月の東日本大震災から3年後。岩手県の海辺の集落にある旅宿「清和館」が舞台。女将の須藤いわねとその夫清介、宿泊者の屋敷陽造と牟田裕子、宿を出入りする少女ジュンと遍路姿で宿を訪れた早見透、そして、海辺で倒れていたところをジュンが見つけた湧田かなえ。それぞれの登場人物が個々の事情を抱え、引き寄せられるように「清和館」に集まり物語は進んでいきます。舞台を観ていて最初の違和感は、いわねと清介の見た目から、夫婦にしては年齢が違いすぎる感じでした。そして、いわねの意味深な台詞から、「清和館」が現世と霊界の狭間で存在し、食事したりお酒を飲んだり、泣いたり笑ったりと普通に暮らしている登場人物の多くが、実は彷徨う魂の存在であると気づかされました。後半クライマックスで、太平洋戦争で戦死した息子清和がいわねの前に現れて、「母が子を思い、待ち続けることが子にとっても重い負担になった」と言い放ち、いわねが泣き崩れる場面は、胸に刺さるものがありました。そんな悲哀に満ちた物語の中で、ジュンの透きとおった歌声はまさに希望の光を感じさせ、過去に決別し前向きに生きていく大切さを教えてくれた気がしました。

今生に思いを残した幽世(かくりょ)の住人たちと、心に傷をもつ現世の者たちとの交流を旅館「清和館」を舞台に描く。 残された少女ジュン役の佐藤理加さんが歌う民謡が心に滲みる。終幕後の舞台の役者さんを、再び泣かせた。鳴門市民劇場の会員さんの力・演出に感動しました。生の舞台を創りあげているのは、役者とスタッフと、それに会場で観る人たちなのだと改めて思います。3月例会も楽しみです。

俳優座「北へんろ」の劇中で歌われる民謡「南部牛追い唄」「新相馬節」が印象的であった。良く通る、またよく澄んでいるすばらしい音量の声でした。ジュン役の女優さんと言うよりは民謡歌手のようでした。 最後のフィナーレでのスタンディングオベーションを前にしていわね役の片山様のご挨拶の時に今までの御苦労を思い出したのか、声を詰まらせ陽造役の荘司様にご挨拶願ったことにも感激しました。私も目頭を熱くしていました。大変良いお芝居でした。

このお芝居に出てくる、「お遍路」と「阪神淡路大震災」は、四国鳴門に住む私には馴染み深い言葉で、それがこのお芝居にどう結び付くか…代表者会で作品紹介を担当した一年半前から私は心待ちしていた。
 実際に観ると、要所要所に聞こえる民謡の声が心に染み、また、二幕ではどんどん一幕で明かされなかった事実がわかり、ドキドキさせられた。また、地震の話で、「床から突き上げる揺れ」という言葉に阪神淡路大震災の時を思い出した。 裕子さんの彼氏(?)さんのぶっ飛び衣装にはびっくりし、放り投げた赤いマフラーをいつ巻くのか、何故か私は気になって気になって。 そして、いわねさんの息子さん清和さんが登場すると、舞台がタイムスリップしたかのようになった。彼の言葉に引き込まれ、去年コロナ関連で亡くなった人を思いだし、悲しんでばかりでなく、前を向いて生きなければいけない、と思った。
 このお芝居はこんな時だからこそ、多くの方に観て貰いたい作品だと思った。

奇妙、奇天烈、奇想天外、奇奇怪怪、・・・観劇の途中で私の頭の中はパニック!これはいったい何?何が起こっているの???少しずつ状況を理解しつつも、この世にはいないはずの者たちが、東日本大震災で生き残った遺児ジュンをかかえ、この世で一つ屋根の下で生活をする摩訶不思議な空間、「清和館」。そこに
  たまたまたどり着いた遍路の透と、行き倒れてジュンに助けられた女性、涌田かなえ。違和感を覚えながらも女将のいわねやその夫の清介、また宿泊者たちの気取らない人柄に触れ、少しずつ心の重荷を下ろしていく二人。
  変化はまず宿泊者だった裕子に、そして次には陽造にも・・・最後には宿屋の夫婦が待ち続けていた、南方で戦死した一人息子の「清和」が現れ、女将のこの世での未練も断ち切れることとなった。そして、やっと穏やかな成仏の時を迎える・・・
  ん~ん、それで終わりかと思いきや、透もその命を閉じるときが来た。宿にたどり着いた時からその体は癌にむしばまれ、もう幾ばくも残っていなかったのだ。最後を看取る涌田かなえ。透との最後の話の中で、彼女はもう一度、生きていく力を与えられる・・・。
  論理的にはあり得ない話だったが、この世には世にも不思議な話がたくさんあると聞く。この世に未練を残した死人はたくさんいるに違いない。そしてその死をいつまでも受け入れられない残された家族の思いも深い。自然災害や交通事故等で、さっきまで元気だった人が命を落とすなんて、納得できるはずがない。やりきれない。死体さえ見つからなければ、なおさらであろう。戦争、大地震、風水害等、あった事実そのものも忘れてはならないし、同時に亡くなった方々への供養の心も忘れてはならないと思う。少しでも人の心に寄り添えるように、優しい気持ちで生きなければ、と改めて思った。

あらすじを読んだ時、重そうな感じの劇だなと思いました。
 しかし始まってみると、そう重くなく最後まで集中をはずすことなく見られました。息子を待つおじいさんとおばあさんには、30才の年の差があり、おじいさんが若いというのは作品紹介で聞いていたので「あれがおばあさんの夫」とすぐわかりました。
 話が進んで行くにつれて、セリフの端々からいろんな矛盾があぶりだされてきます。虚の世界にある宿、亡霊になっている人、それぞれの思いが伝わってきました。
 今回は、第二次世界大戦、東日本大震災、原発とテーマがたくさん盛り込まれていましたが、自然に受け入れられました。 女の子の歌う民謡と最後のあいさつの時のおばあさんの感涙が印象的でした。

鳴門例会カーテンコール

E-mailでのお問い合わせは、         鳴門市民劇場ホームページ
nrt-geki@mc.pikara.ne.jp
まで。