■「ひとごろし」は運サの中で作品紹介もしたので、不本意ながら予め山本周五郎の原作を読み、双子六兵衛が仁藤昂軒をどのように追い詰めていくのか、そして結末も知っていた。
ただ、劇は観ていなかったので、どのように描かれているのかは全く知らなかった。聞くところによると、4人で30人以上を演じ、人だけでなく、カエルやセミ、石ころ、風の音まで演じるという。それを聞いて少し不安になってきた。人にはこの劇は「前進座であの山本周五郎原作なので、絶対に面白い」と言ってきたが、演出でつまらない劇になっていないかと。
劇は4人が横並びに座り、時代背景を説明する口上から始まったので、朗読で進んでいくのかと一抹の不安がよぎったが、物語が進むにつれ、動きも出てきて、随所に笑いもあり、コロス演じる効果音も楽しく、物語に引き込まれていった。終わってみれば、この演出しかないと思うくらいの満足感だった。
弱いものが知恵を絞って強いものを倒す勧善懲悪の時代劇。途中、仁藤昂軒が精神的に追い込まれていき、悪役なのにむしろ哀れに思えてきた。そして、周五郎らしい誰も傷つかない結末は、コロナ禍、ウクライナ紛争のこの時期こそ見るべき劇だと思った。
■「ひとごろし」とてもおもしろかったです。
4人の役者さんと小道具だけなのに、観客がそれぞれのシーンの舞台背景を想像しながら作り出される演劇ですね。
どんどん引き込まれて、1時間30分があっという間でした。
小道具もそれぞれ成る程と納得、味があり良かったです。
■今回は全く別の種類の感想が三つです。
ひとつ目:ニンゲンの想像力って、短い時間の間でも増していくもんだな~と改めて思いました。最初、「本が読まれる」だけで進んで行く…ようなスタイルに少し物足りないような気持ちが否めませんでしたが、そのうち、役者さんがススっと出てきて演じる時はもちろん、そうではなく4人がまた横並びで座って朗読がなされる時間帯においても、場面がどんどん目の前に広がっていくように自分が変わっていきました。六兵衛が旅する道中、旅籠屋の中…映像が見えてきてとても楽しくなった!道具を駆使した“音”の効果や、当然、演技や朗読のうまさによるものには違いないですが、これぞ究極、ナマの舞台の醍醐味かなと。
ふたつ目:なんだか、だんだん、仁藤昂軒が可哀そうに思えてきた自分がいて、びっくり可笑しくなりました。六兵衛が返り討ちに合うのはもちろん受け入れがたい展開でしたが、仁藤昂軒があそこまで追い詰められてヘロヘロになる姿には同情する気持ちに…。そのうえ「切腹」までされては、それはそれでとても後味が悪い話だなあと。でもそこをあのように丸く収めるのが山本周五郎のうまさと味で、悪人っぽい役回りの登場人物にもどこか愛情がそそがれて描かれ、最終的には単純な勧善懲悪にはならず、どの人間も愛すべき人間になる…。最後の方、それまでを悔いる仁藤昂軒が吐いた台詞にも印象深いものがたくさんありました。私は常々、本当の強さっていうのは自分が弱いところを見せられることだと思っていて、ちょっとそれに近いメッセージがある作品だったかなということも感じました。
みっつ目:この時代の『仇討ち』『果し合い』などは、なんと紳士的だったのでしょう~、と、いわゆる現代の“戦争”(まさに今起こっていることも含めて)と照らし合わせて感じました。もちろん人を斬る、殺す、その行為自体、許されるものではないにしても、少なくともこの劇の2人においては「騙し打ち」などは想定外で、正々堂々(?)互いに剣を抜いてからすべてが始まるのです。仁藤昂軒の腕なら、鬱陶しくジャマな六兵衛をチャチャっと片づけることは簡単にできたはずだし、同じ宿に泊まっているんだから六兵衛は仁藤昂軒の寝首を掻くこともできたはず。でもそうはせずに、あくまでも「勝負しろ(刀をぬけ)」と、そこからことが始まる…。それに対して、無抵抗なもの、弱いものに対しても平然と刃を向ける今の戦争はなんとありえないような破廉恥な行為なのか。人間のすることではないと、改めて叫びたい気持ちで一杯です。
■公演ちらしには「舞台はコロスと演技(アクション)による笑劇(ファルス)、として創りました」とあります。時代劇である「ひとごろし」の紹介としては大いに違和感が。これはどういうことだろうと観る前から楽しみでした。
上意討ちの討手に志願したのが自他ともに認める臆病者である双子六兵衛であり、臆病なだけでなく剣の腕もからきしだめな彼が追うのは凄腕の仁藤昴軒。笑劇ですし深刻な結末にはならないのはわかっていても「上意討ちを果たせたのか、実は果たせなかったのか」はもうひとつの楽しみでもあったのですが、あまりにも気になり過ぎて観劇前に原作読んじゃいました…。
原作は青空文庫(https://www.aozora.gr.jp/cards/001869/files/57727_70186.html)で無料で読むことができます。舞台が原作の雰囲気に忠実に創られていたことがわかりましたが、このお話の良さ、おもしろさは小説よりも演劇の方が感じ取れると思いました。
なぜ「ひとごろし」なのかはすぐにわかるのですが、自ら討手に志願した割には昴軒を討ち取れるとは全く思っておらず、かと言って何か良い考えがあった訳でもない六兵衛がたまたま思いついた奇天烈なアイデアでした。「俺は臆病だが、世の中には臆病な人間の方が多いだろう、臆病なのは事実だから今さら人の評判を気にしない」と思い至り、昴軒から「勝負しろ!卑怯者」と言われようと「卑怯と臆病はまるで違う、勝負する、ただし自分のやり方で」と言い返す六兵衛、どこからか力が湧いてきたように見えました。結局途中で知り合った「おようさん」に助けられるのですが、最後には「強い者に勝つのが武芸者ではない」と昴軒に言わせます。奇天烈ですがいい結末でした。
さて、冒頭の「コロスとアクションによるファルス」の件です。舞台装置、小道具もなし、武士が主人公ですが刀も使われませんでした。用意されていたのはいくつかの音を出す道具と茶屋の旗とチョンマゲ(笑)。犬におびえる六兵衛の登場シーンから最後まで4人の役者さんが大活躍です。事前に4人で30以上の役を演じると聞いていて、もっとドタバタした感じかと思っていましたが、ユーモアのあるセリフにも所作にも無駄がありません。まさしくプロフェッショナルによる舞台でした。
■今回はコロナに入ってから初めてしっかり見ることのできた演劇になります。
このような状況ではありますが、今回のように楽しくも考えさせられる演劇を見ることが、嬉しい気持ちでした。
今後もこのようなお芝居を見ることができるのを楽しみにしています。
■舞台がシンプルで逆に演者の圧(熱)が感じられる舞台でした。
■役者4人が色々な役割を演じ、目の前には何も無いのに様々な情景が描き出され、思わず見入ってしまった。剣の達人が相手でも知恵を働かせれば勝つことが出来るし、相手を思いやって解決策を考えれば円く納めることが出来ることを教えてくれた。
■山本周五郎の数々の作品をみてみると、とても人情味にあふれたものが多い。現代に生きる私達にも共感できるのは、生きていくうえで起きる様々な困難にたちむかう時、ヒントがもらえるからだと思う。周囲の人をまきこんで上意討ちを果たすというとてもユニークな喜劇だった。舞台上には4人の演者がいて、シンプルなセットであったが、馬や犬、蝉やかえる、風、雨等々、テンポよく演じられていてすばらしかった。追いつめられた昴軒が肩を落として弱々しくなっていく様は、上意討ちの相手とはいえ、ちょっとかわいそうに思った。最後のシーンは、また喜劇らしくリアル感のあまりない「まげ」が登場し、「生首は腐ってしまうから」「生首は腐ってしまうから」と笑いをとり「もとどり」を切って、それを持ち帰り、皆がハッピーエンドで終わるという心があたたかくなる舞台だった。
■動作や最少の小道具だけで表現できているのに感心しました。
さすがプロ!!
■鳴門市民劇場の会員となってから、これまで種々多様なタイプの観劇を鑑賞するたびに私はそれぞれの舞台から新たな発見や見方を得てきました。そして、此度の観劇「ひとごろし」を観るにつれて、今回もやはり新しい発見との出会いを楽しむことが出来ました。
先ずは、私のお決まりの作法として、客席に着座するや否や舞台セットや背景の様相をチェックします。その後、今回の「ひとごろし」の幕が明けると同時に舞台上に現れた舞台セットや演劇の役者さんを目の当たりにして、今まで観たことが無い程に簡素で且つ最大限まで無駄を省いたと思わざるを得ない美意識を受け取った感じを抱きました。そのことによって、残ったものをより一層際立たせていると私は感じました。そこには、私の好きな老子の格言にある「無用の用」を彷彿とさせる趣があるように感じ取ることが出来たように思います。
そして、そんな感情とは裏腹に、スクリーンに目を移すと、そこには目が覚めるようなパステルグリーンから昇りゆくグラデーションで描かれた美しい背景の色彩が演出されていたという新しい発見がありました。その上で、その背景に四名の役者の各々の着物の色調が映えて、とても優美な感覚にとらわれました。さらには、情景の変化とともに、背景のグラデーションが変化し、演技の内容と上手く同調した趣を醸し出していたように感じ取ることが出来ました。つまりは、こんな極限まで無駄を削ぎ落した演出は、今まで観てきた観劇の中でも特に異色を放っているとの思いに至りました。
その後に再び視線を役者へと移すと、そこには”僅か”というのが適切かどうかは分かりませんが、四名の役者が正座しているだけで、これも今まで観たことが無い新たな発見の一つでした。この時に私の脳裏に浮かんできたのが、ロックバンドのメンバー構成です。例えば、ロックバンドでの最小編成は三名(ギター、ベース、ドラムス)といった布陣と言われており、いわゆる「スリーピース」と呼ばれるバンド形態です。その上で、今回の「ひとごろし」での四人組(カルテット orクァルテット)は、演劇での最小編成かも知れないと思いました。一方、四人の語り口から、講談師あるいは活劇の弁士のようなイメージを私は抱きました。さらに、その四名の話術から、舞台設定も殆ど無く、効果音も必要最小限をも満たさない様なミニマムユニット様式で、それでも情景を上手く盛り上げ、観衆に目の前で語られている劇の情景を、あたかも目の前に実在するが如く浮かび上がらせられたようで、非常に面白いなと思いました。これは別の見方をすれば、私の想像力が如何程のものかを試されていたのかも知れません。
さて、視点を登場人物へと移すと、双子六兵衛は折り紙付きの臆病者であるのにもかかわらず、全くそれを気にも留めず、むしろ逆手に取って臆病であるが故に編み出した”奇策”とも言うべきか、はたまた”知恵”(今回の観劇では「とんち」と私は思いました)を絞り出し、「ひとごろし」と只々連呼することによって手を下さずして相手を精神的に追い込む戦術で立ち向かう様は、非常に駆け引きに長けた中々の知恵達者との印象を受けました。正しく「柔よく剛を制する」とは、このことを言うのでしょう。そして、相手の首を取ることなく、髷を取ることでその代替とし、このことで追手の双子六兵衛、仇の仁藤昂軒、そして藩元が共に益を得る、いわば近江商人の経営哲学ひとつである「三方よし」の精神を貫いているようで、六兵衛の”臆病者”よろしく観ている者の私としては大変満足のいく結末でした。それにしても、誰をも傷つけずに事を収めるのは決して容易い事では無いのにもかかわらず、それを成し遂げた双子六兵衛という人物は、本当は仁藤昂軒よりも何倍もの”しなやかな精神力”を持っていたのかも知れないと、私の想像力を掻き立てられる思いでした。
一方で、終盤になって仁藤昂軒の武士としての哲学(あるいは価値観)が根底から大きく覆されて180度転換し、今まで功成り遂げて立身出世のみが正しい生き方と思ってきたのが、そういった価値観以外の考え方あるいは生き方があるという境地へと悟りを開いたのは、昭和から平成を経て令和へと流れ動いている世の中あるいは世界での価値観の変化を鏡のように映し出した様で、今この現代を生きる私自身にとって改めて考えさせられる言葉でした。つまり、一部の古い慣習や考えにとらわれた国々以外の現世の多くの国々では、近年富みに多様性の重要性に目を向けているからです。かつての他人よりも少しでも上に立つことが究極の目的かの如く競争に明け暮れる価値観を見直し、”利他共生”の世界を構築しようとする最近の流れの意味を、仁藤昂軒が最後に発した言葉(セリフ)から読み取ることが出来たのは、私にとって思わぬ収穫でした。これは言い換えれば、仁藤昂軒が目指して生きてきた姿は「競争を勝ち抜くのが”男のロマン”」といったいまだに日本で根強く残っている固定的な価値観に縛られていることに他なりません。ですから、今現在の日本でも、特に男性にとって足枷となっている価値観の変革や多様な生き方への意識改革の必要性があるのではと改めて強く思いました。
ところで、私が何故この様な考えに至ったかと言えば、世の中を動かしているのは、一握りのエリートや権力者あるいは偉い人では無く、臆病者の六兵衛の様な名も無い市井の人々によると、私は常日頃から思っているからです。その市井の人々一人一人は、六兵衛の様な臆病者かも知れませんが、そういった臆病者も集結すれば、大きな岩をも動かす力になるという非常に示唆に富んだ物語(観劇)であったと、観終わって更に思いを強くしました。そして、山本周五郎の権威や名誉にこびへつらわないといった信念が、今回の物語の根幹をなしていると改めて感じ取ることが出来ました。
最後に今回の感想の総括として、冒頭でも述べましたが、これまでも演劇を観るにつれて毎回新しい発見があるのですが、今回の「ひとごろし」でも数々の新しい発見に出会えて、私の好奇心を刺激し、満たしてくれた事には感謝の念しかありません。ですから、「前進座」の皆様には、心から感謝申し上げたいと思います。
”新しい発見を私に授けて下さって、どうもありがとうございました!”。
■とても楽しかったです。4人でも表現豊かに楽しく演じられるんだなと思わせてくれて色んな戦い方があるんだな!とも気づかされました。私もあんな風にできたら、前の職場を辞めずにすんだかな?と、自分が抱えていた問題と重ねて観たりしました。
■「ひとごろし」観に行って本当に良かったです。
朗読劇的なお芝居は初めてだったのですが、世界観にひきこまれ、あっという間の1時間半でした。
■前進座公演楽しみにしておりました。 「ひとごろし」というインパクトのある題をとても面白く理解しました。さすが4名の演技力はすばらしく息が合っていて退屈しませんでした。
■映画(DVD)でも見た「ひとごろし」でしたが、舞台ならではの面白さがありました。4人が役や語り手だけでなく、馬や犬、風、雨などを演じるという工夫がよかったです。「ひとごろし」という叫び声が物語の核でした。
■通常の芝居とはひと味ちがった演出で、一人何役もこなす力量もすばらしかった。弱い者が知恵で強い者に立ち向かい、ついに勝つ。しかも、温情をもって許す。さらに、その弱い男に好意をもった娘と結ばれる。めでたしめでたしの幕切れがさわやかだった。
ところで、あの強い男の力でもって圧倒しようとする姿が、今のプーチンに見えてしかたなかった。そして、最後でもとどりを切られる姿はプライド(虚栄)をバッサリと切られる=権威が地に落ちるプーチンを連想した。武力に勝利はないことを見せてもらったいい舞台だった。
■いつものお芝居と違うので少しびっくりしました。4人で色々と演じて楽しかったですが、途中、筋が分かってちょっと退屈しました。
■抱腹絶倒の場面を期待していたのですが・・・。
■4人の出演者が役や語りそして効果音も一つだけの舞台で演じていたのは、すごいなと思いました。演技の熟練度が高く、舞台装置が全くないのに迫力がある「笑劇」でした。
■「臆病者の上意討ち」という設定の面白さ。
助太刀が17歳の旅籠の女将。
何より、193㎝の剛胆な偉丈夫役:渡会元之さんのクライマックスの熱演には、圧倒されました。
4人の役者が様々な役をこなす演出も最高でした。
周五郎さんも、草葉の陰で喜んでいるのでは。
■最初は少しぼんやりと見ていましたが、小道具での音の作り方が面白かったですね。
「ひとごろし~、ひとごろし~~」と叫び続け、相手の睡眠を削り、食事時間を削り、心の安らぐ時間を持たせないなど、武士であれば姑息な手だと思うのだけれど、こうきたか!!と笑っちゃいました。
仇討ちが正義のような世界の武士の世の中に、臆病者と呼ばれる優しい心の持ち主の生き方。その時代、時代の価値観があると思うのですが、主人公のように、どんな相手だとしても殺さず活かしていけるような心の持ち方が出来るといいなと思いました。そしたら、戦争もなくなるでしょうか。
■前進座はワークショップで見てから小道具の使い方、表現がおもしろくて今回も楽しく見ることができました。 カエルの鳴き声?(ブンブン回す道具)が好きで、ずっと笑っていました!
■単なる喜劇ではなく、周五郎らしいこっけいものの代表的作品であり観ていて楽しかった。
名人に勝つために考えた「ひとごろし」今のこの戦争にも通じる、戦わずに共に生きる素晴らしさを教えてくれているのではと思う。
■「ひとごろし」という題名の重さとは違った話の展開がおもしろかった。4人の芸達者な役者さんのコミカルで笑いを誘うしぐさや演技が上手ですばらしかった。4人が役となり語り手ともなり、犬や蝉、雨や風などを音具で表現する、このような形態の劇を観たのも初めてだった。
■言葉がゆっくり、はっきりしていたので、聞きやすく、とても楽しむことができました。話の内容もむづかしくなく、軽い気持ちで笑うことができ、とても良かったと思います。
仇討ちといえば、「刀」で行うのが普通ですが、「ひとごろし」という言葉が刀の代わりをするなんて、何ておもしろいのでしょう。
■「負けるが勝ち」ということわざを思い出しながら、人間の面白さを描いた舞台を楽しんだ。弱肉強食の動物の世界では、本能的にこのような事が起こっているだろうなと思った。
前進座の芸達者ぶり、山本周五郎の面白さを堪能した。
■クリア12名というよろこびの中での例会「ひとごろし」は4人で演じる思いもよらぬ劇でありました。劇を盛り上げる効果音も適切に使われていたし、演技は座位の前に出て演じられていたし、時間の流れがよく解った。最後の首取りの場面であるが武士にとっても不名誉になる髷切りに替わっていたことにおどろき(感銘)を憶えた。死ではなく生の結末となって幕となった。これは山本周五郎の『いっ品』であると思った。
■圧倒的に力の差のある武士同士が果たし合うことになる。弱者は強者の姿を見ただけで脅えてしまう。その弱者の放った「ひとごろし」の一言で形勢逆転し、話し合いの結果、お互いにwin-winの結果となり、めでたし、めでたし。
しかし、今の世の中、一言どころか非難が集中しても何とも思わない輩が多すぎる。特に国の中枢に。
■物事の捉え方を考えさせられたおもしろいお芝居でした。やっぱり、前進座は大好きです。
■徳島新聞の芸能・ラジオ欄に2回にわたって「演劇のチカラ」という記事が掲載された。演劇を体験することを通して、引きこもりの人が一歩踏み出すきっかけをつくろうと劇団の方と努力しているということだった。
今まで、劇を視るサイドに居た私だったが、今回の舞台を見て、ふと思った。
「演劇のチカラ」って何だろう?
確かに、役者さんの演じる舞台を見ながら、共感したり、感心したり、時には涙を流したりして観劇を楽しんでいる。原作のストーリィが面白さの鍵を握っていたように思う。
が、今回の作品は少し異なっているように思う。
四人の役者さんの語り手になり、また登場人物となる芸の深さ、これには感動の一言に尽きる。楽器や諸々の小道具を駆使しての効果音がすごい役割をしていることに、唯々感銘した。風鈴の音色で涼感を表現し、太鼓の音色で場面が変わり、時が流れる。本当にすばらしい。
喜劇だが、腹の底から大笑いする類じゃない。にこやかに、少しだけ顔の筋肉がゆるみ、にが笑いしながら舞台を見る。舞台からの発信を受け止めながら、芸の深さをじゅうぶん味わった。
自分で演じること、観劇することで、周囲の人々とコミュニティすること、そこで一歩踏み出せる力が出来る、演劇のチカラを少しもらって、前向きになれそうな気がした。
■今回、公演は喜劇・笑劇だと聞いて、例会ニュースも読まずに臨んだが、・・幕開け、舞台装置もなく、ただ雛壇に並んだ4人を見て、エーどうなるのだと驚いた。
観ていく中で、朗々とした口上、一人で2役も3役もこなし、立ち回り、犬や鳥の鳴き声、雨風の擬音、太鼓やつづみまで演じる役者さんたちの絶妙な技に、引き付けられた。
話の筋は、藩内一番の臆病者の六兵衛が、剣豪で藩のお尋ね者討ち取りの旅に出る。刃を交えず、周りの助けや協力者の女性を得て、“仇討ち”の大役を果たし、嫁まで連れて国へ帰る「めでたしめでたし」の話ながら、「仇討ち」という藩制度の不条理や、庶民の知恵、優しさ、勇気などいっぱい感じさせてくれ、その仕草に笑いの絶えない、生粋の狂言舞台であった。
昔、市民劇場で「仇討ち」の舞台あったなと調べてみた。10年前に「あなまどい」があった。父の仇を追って苦難の旅。念願果たして帰国すると、国元では家督をめぐって身内の妨害工作。むなしい仇討ちより、34年間待ち続けてくれた老嫁と再び幸せの旅に出る。これも夫婦愛が評判だった。演じ方により全く違った舞台ではあるが、いろんな精一杯の人生を何度も経験、感じられることに改めて感謝。
■「ひとごろし」~という題名は物騒なひびきですが、いざ舞台を観ると4人の役者さんが楽器をひびかせたり、いろんな生きものの音を奏でたり、笑いの中に力がわいてくる様なおもしろいお芝居でした。
■越前福井藩中で臆病者と噂されて自身もそう思っている双子六兵衛が、殿の小姓頭を斬り殺した剣術の達人の仁藤昴軒の討手を志願し、宿や茶店など行く先々で「ひとごろし~」と叫んで周囲の人々に仁藤昴軒を恐れさせ、剣術では到底かなわない相手を精神的に追い詰めていく様は面白おかしくもあるものの、最後の方では仁藤昴軒がちょっと可哀想にも思えてきました。
また、「コロス」(演劇用語で、特定の役を演じるのではなく複数の役や効果音を演じ分けること・・・らしい)が特徴のこのお芝居、4人の出演者たちが多くの登場人物、蝉の鳴き声・馬の音など効果音まで演じ分ける様子もとても楽しかったです。特に、蝉の鳴き声を出す小道具を4人中3人が無表情にくるくる回している様は一番ツボにはまってしまいました。
■先日、藍住文化ホールで前進座の「ひとごろし」を観た。その翌々日、夢を見た。
ずいぶんまとも?でもやっぱり変なものだった。なんで関西弁なんやろか。
【六兵衛】ボ、ボ、ボ、ボクが昴軒を殺りますヮ。越前福井藩で最低の「アカンタレ」のレッテルはがしたいので。かわいい妹にも「こんな兄貴じゃわたしゃ嫁にもいかれへん、もぉっ」強烈に責められてるしなぁ。
【取巻たち】あんたには武術なんてダントツムリやのにどうやって殺りますのん?
【六兵衛】ウーン、ウーン、ウーン、殿からお墨付き推薦状をもろたら、昴軒の行先はわかってんので、跡、つけながら、、、それから考えるつもりやわ。
【取巻たち】おいおい、そんなんでええのんか、ええっ?おい。
【語り手】六兵衛は、一発大逆転の勝負狙いで周りから馬鹿にされつつも立候補し、他候補は誰もいないという理由で、なぜか上意討ちの切符を手に入れる。一方、殺される対象の昴軒、彼はもともと越前の生家、お寺の坊主になるべく修行を。でも、そんなものにはさらさら興味なし。「ワイは剣や」、と武士道に邁進。福井藩でお抱え武芸者に。
【自分】武士道を極めたい、これ理解できるけどなぁ。でも一定の目標を達成したあとの驕りと大酒、が人生を狂わせて。うん、よくある、よくあるなぁ。そうか、やっぱり大酒飲みはあかんのかぁ。人生、大酒にならんように飲まんと、やなぁ。
【語り手】六兵衛が昴軒追跡の途中で昴軒を追い越し、逆に待伏せされた昴軒から「正々堂々勝負せィ!」といわれとっさの「ひ、ひとごろし、こいつはひとごろしィ」と周囲に叫んだことで編出された追い詰めの手法。
【自分】でもねぇ。これって肯定すべき「大いびり、大いじめ」か?昴軒の、「おい六兵衛、武士なら正々堂々」は正論だろう。その後、六兵衛の執拗ないじめに病んでしまった昴軒、「武道が強い、ただそれだけではアカンのや、それ、今わかったし、ワシには他にシナアカンことがなくなった、そやから腹、切るんじゃぁ!!」だって?ちょい待てよ、飛びすぎだろー。武道ってゆうのは、そんなもんなんか?
【語り手】でも、昴軒のちょんまげで首の代わりになることを六兵衛が提案、ついでに六兵衛曰く、「生首は持って帰る途中で腐るよなぁ、腐るよ、それアカンわ」って。
【自分】言われてみれば、そう、「腐る」なぁ。昔の生首は不衛生極まりなかったということか?
【語り手】昴軒、なぜかちょんまげ切りに納得。で、結果上意討ち、達成。六兵衛めでたし。ついでにかわいい妹も、ええとこの嫁に。一方、その後昴軒は、なんかようわからんけど生家に戻って坊主になった?らしい。
【自分】ハッピーエンド!でも、六兵衛も昴軒も妹もまだまだお若い。お二人たちの「その後数十年」がずいぶん気になる、気になる、、、、あっ、夢か、あぁぁ、目が覚めた。
手作り音響効果もすばらしく、とても面白いお芝居でした。寝覚めもよかったし。
前進座の俳優様達、鳴門市民劇場の関係者の皆さんに感謝いたします。次回も楽しみです。
■『ひとごろし』というタイトルを聞いた時には、かなり深刻なお話なのかと思っていましたが、随所に笑いの要素が散りばめられており、また、最後はあったかい結末で観劇後ホッとしました。
たった4人で全登場人物を演じ分けた上に、動物、昆虫、雨や風といった自然の音までリアルに表現していたことにも驚きました。
仁藤昴軒が、それまでの強い侍者との勝負ではなく、弱い者との闘いでへとへとになっていく様子、逆に双子六兵衛がとった臆病者なりの上位討ち策からは、ものの見方(物事をどのように捉えるか)への気づきをいただきました。楽しい時間をありがとうございました。
■役者さん4名が並んでご挨拶から始まり、これからどうなるんだろう舞台セットもないし、、、と思っていたら、こんなスタイルのお芝居があるんだ!と驚きました。
4名の役者さんで効果音を入れたり、登場人物以外のギャラリー声を入れたりと舞台裏で行われているようなことをお芝居として一緒に楽しめて、とても新鮮でした。
また、ストーリーも臆病者の双子六兵衛さんのアイデアが斬新すぎてとても面白くて。
なんといっても役者さんたちの表現力の豊かさ、演技の上手さに今回も圧倒されました。セットがなくても相手がいなくても背景が想像できてしまう、、すごいです。
■
(ひ)とことで言って、この「上意討ち」、相手を追い込むまでの場面は姑息であり、卑怯なやり方だと思われるかもしれない。しかし、最後には、打ち手が福井藩きっての臆病者と言われていた若侍だったからこそなしえた、最良の策だったことがわかるだろう。彼の優しさゆえの、周りを巻き込んだ方策とは・・・
(と)にかく上意討ちを果たすべく、打ち手の双子六兵衛は、仁藤昂軒を追い、彼のそばにずっとつかず離れずでおり、彼が店に入って何か飲食しようとすれば「ひとごろしー!奴は人殺しですよ!」と叫んで周りを怯えさせ、食事をさせない。また、夜になって昂軒が宿を取ると、同じ宿に泊まり、「ひとごろしー!奴は人殺しなんです!」と訴え、自分が寝ている間は宿の女中に見張ってもらうと言う六兵衛の作戦。
(ご)さん?それとも何かのご加護?六兵衛は宿の若女将の思われ人となり、彼女の強引さで上意討ちが二人旅となる滑稽さ。一人より二人の方が補えることは多く、六兵衛は疲れも知らず、それどころか、この上意討ちの旅を楽しんでいるような様子さえ見受けられる。一方、相手方の昂軒はというと・・・
(ろ)くに食事も取れず、宿でもおちおち眠ることもできず、ついには音を上げ、打ち手である臆病者の六兵衛に、「もうくたびれた。生きていても仕方がない。切腹をするから介助せよ」とまで言い出す始末。
(し)かし、世の中、そう捨てたもんじゃない。「夏だから首を持って帰っても腐るので困る、代わりに髻がほしい」と言い出す六兵衛。戸惑いながらも素直に従う昂軒。これで誰もコロス事もなく上意討ちは完了となる。劇中にはなかったが、きっと昂軒は生きて故郷に帰り、坊主に戻り、殺してしまった小姓頭の冥福を祈り続けたことであろう。一方、髻を持って帰った六兵衛は、昂軒を切ることなく上意討ちを果たし、おまけに女房までも連れ帰った。妹も嫁ぎ先が決まり、あの臆病者と言われていた六兵衛が幸せになったというお話。タイトルからは想像もできないストーリー。流石である。
今回の作品は、役となり語り手ともなる4人のコロスが、楽器を奏で、音具を操り、劇の背景や要約をも伝えながら演じるという、すご技の笑劇だった。だがしかし、最初は何が起こっているのかわからず、私はしばし、きょとんとしてしまっていた。次第にわかってきはじめると、それぞれの役割分担やら醸し出す音響などの面白さに、どんどん引き込まれていった。原作の山本周五郎さんの人間賛歌の作品は、いつも最後に心が晴れ晴れとする。今回も然りであった。ありがとうございました。
最後に変なことに気がついた。コロス→ひとごろし
これって、前進座が始めから狙っていた言葉遊び???凄い!凄すぎる!!あっぱれ!!!