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音楽劇 人形の家

俳優座劇場プロデュース公演

鳴門市民劇11月例会
 2022年11月7日(月)
 感想集


鳴門例会カーテンコール

土居裕子さんの圧倒的な歌声と表現力、そして衝撃の結末から、この舞台がノーラの物語であったのは間違いないのですが、他の登場人物が単純な脇役ではない魅力を放っていたところが印象に残りました。
 どう見ても悪人と思われたクロクスタがかつての恋人であったリンデ夫人と再会し、最後に幸せを手に入れたことは、ノーラとヘルメルの結末をより際立たせていると感じました。
 全てを失ったクロクスタと一緒に生きていくことを選択したリンデ夫人は、困難な状況にありながらもお金を稼ぐ力をちゃんと持っていて、ひとりで生きていく覚悟もできていた強く賢明な女性です。
 リンデ夫人とは対照的に天真爛漫で無邪気なノーラが、いきなり家族を捨てて家を出るという選択をしたことは、へたをするとただのわがまま、思慮の足らない行動と受け取られかねないところです。しかし、事実を知ったヘルメルがノーラを罵倒し親まで侮辱していたところに、クロクスタから借用書が返却されたことで、これで助かったと手のひらを返し、さらに自分では手のひらを返したとも思っていないというリアクションを見て、ノーラが自分は人形ではなく人間だと目が覚めたところの舞台上の緊張感が素晴らしかった。

今回の観劇の題材となっている「人形の家」と、その作者である「イプセン」に関しては、その作品名や作家の名前等は知っていたものの、その作品自体の内容に関しては、全く知らないという事前情報無しでの私のいつものスタイルで今回も演劇鑑賞に臨みました。
 そして、私のお決まりの作法で指定されたエリアでの好みの席に着座して舞台上へと視線を移すと、なんとそこには黄金の色彩をこれでもかと強く放った絵画が描かれたパネルが置かれているではないですか!その時の私の心に浮かんできたのは「どうして?なんでクリムトの絵が描かれているの?」でした。そして、私のいつもの癖で、この舞台にクリムトの絵が描かれているのは、これから始まる「人形の家」という演劇に関する何らかのメッセージに違いないと…。それとは別に、そこにはクリムトの絵画が醸し出す耽美的であり、且つ退廃的な描写からの淫靡な展開に対する期待感が私に内在していたのも否定できません。そんな心持ちで、劇の幕開けとともに意図するメッセージを汲み取ろうと、私は舞台へと視線を投げかけました。ところが、そんな目論見とは裏腹に、舞台上の役者の演技は、私にとっては今まで遭遇したことのない斬新でクールな演出で構成された劇が繰り広げられるではないですか! この時の衝撃は、ちょっとした驚きでした。その後、劇は潮の満ち引きの如く、数々の紆余曲折を経て、終幕へと誘われました。
 さて、「人形の家」を観終わって、上述の「メッセージ」とは何かと思考を巡らしたうえで、私なりに考察した結果を得ましたので、それを本観劇の感想としてご紹介したいと思います。
 今回の「人形の家」で主幹をなしているのは、「女性の自我の確立と一人の人間としての自立」ではないかと、私は感じ取りました。その理由は、「人形の家」がイプセンによって1879年に書かれたという時代背景を鑑みると、この劇で演じられた思想や行動は、当時としてはかなり前衛的な考え方だと思うからです。そして、主人公の女性であるノーラが最終的に辿り着いた先は、作品が書かれた時代としては、非常に先鋭的な「新しい女性像」なのだとも思いました。というのも、当時は女性の人間としての人権や社会的地位が認められていなかったと考えるからです。
 続けて、「人形の家」のタイトルに込められた意味を、ノーラがどのような心の変遷を経て「新しい女性像」を具現化したのかを、私なりの視点から述べてみたいと思います。
 先ずは、ノーラの夫であるヘルメルは、妻であるノーラのことを「一人の人間」として扱っていなかったことは、容易に察しがつきました。ただ、今回の作品が世に出された時代背景を鑑みると、ヘルメルの思考や女性に対する扱いは、当時としては全く問題の無い常識的なものとの認識であったかと思います。それは、女性は無知であるべきで、男性にとっての愛玩の対象としてしか見なしていないことに他なりません。従って、男性が常に上から目線で、「俺が教育してやる」という態度が見え見えで、妻を一人の人間として認めて、夫自身と対等であるという価値観に至っていないのは、否定のしようがないと思います。
 その様な環境下で、当時としては高等教育を受けずに、その無知であるが故に、ノーラは小さな過ちを犯してしまうことになりました。そして、最初の小さな過ちを隠すために、次から次へと嘘を重ねてゆく羽目になり、段々と雪だるま式に嘘の塊が大きくなって、にっちもさっちもいかなくなり、その重圧に耐えかねる日々を送るようになったのだと思います。そこに、クロクスタに握られていた弱み(秘密)からの解放を願って、その嘘を全て曝け出すことで、心の奥底に秘めて自身にとって重責となっていた苦しさから解き放たれたと考えました。しかし、妻の不祥事が発覚した際に、ヘルメルは夫としての己自身の保身を優先し、妻を守ろうとする行動に至らなかったことから、夫婦の溝が大きくなり、それを発端としてノーラの気持ちがヘルメルから離れていったのだと推測しました。その後に、そのことが引き金となり、今までは妻は夫の従属物という考え方が支配的であった中で、夫婦は対等であるという考えにノーラが目覚めたのだとの考えに私は至りました。ちなみに、ヘルメルの言動や態度は、現代での高学歴の知的エリート男性に多いといわれている典型的な「マンスプレイニング」や「モラハラ夫」に類するものだと思います。そこで、もし仮に私がノーラの立場であったのなら、この様な夫の元では到底我慢は出来ないと思いますので、ノーラの心情の変化を私は異性の立場ながらも十分理解できました。
 それにしても、その様な思考回路が、イプセンの時代から143年の年月を経た2022年に至る現代においても、少しずつではあるが女性の社会的地位向上や人権獲得の進展が認められているものの、一方で旧態依然とした家父長制的な考えがいまだに根強く残っており、相変わらずヘルメルと同じ思考を抱く男性が老若を問わず存在するのも事実であり、私としては嘆かわしく思う次第です。しかも、ジェンダーバイアスの一つとしての家庭内での性別役割分業(男性は生活の糧を稼いで一人前であり、女性は家事全般と育児に専念するのが適任との考え)の意識が年齢に関係なく中高年以上の男性のみならず若い男性の考え方の中にもいまだに深く浸透しているようで、その中で特に男性自身の意識改革の難しさを私は常々感じているのも正直なところです。
 その上で、前述の様にノーラが幾多の心の変遷を経て、自身の望む新しい女性像に生まれ変わったのが「人形の家」の物語なのだと思います。というのも、それを裏付けるかの如く、「人形の家」の「人形」の意味が、劇後半に放たれたセリフから読み取ることができ、私自身が抱いていた考えに得心がいきました。つまりは、「操り人形」としての妻を演じて結婚生活を送っていたノーラが、その「人形」として扱われていた中から「人間」としての自我に芽生えて、その後に「自立」を獲得した物語なのだということです。
 ところで、冒頭で投げかけた今回の「人形の家」での舞台セットのクリムトの絵画の意味(メッセージ)は何であったのか?私にとっては、今現在もあれこれ思考を巡らすものの、その意図するところは依然として謎のままで何ともいえないスッキリとしない気分での日々が続いているのも紛れもない事実であることを、この紙面上で伝えておきたいと思います。
 最後に、「人形の家」全体を顧みて、ミュージカル調の演劇スタイルで、私にとっては大変鮮烈な印象を受けたこと、併せて役者の歌がとても上手なうえに歌声がとても奇麗で、さらには歌声がホール全体に響き渡り、セリフが鮮明に聞き取ることが出来たことに感動した観劇であったと書き添えておきます。

歌声も入ったミュージカル?形式でしたが、特に違和感なくみることができました。
 家族を描いている内容でしたが、少し深い内容もあって楽しめることができました。
 基本はストレートプレイが好きな自分ですが、今回の作品を観て、音楽劇やミュージカルもいいかな?と思うことができました。

人形の家は、私が高校に入って初めて読んだ本ですが、あの時は読んでも内容が全然入ってこなかったのを覚えています。あれから40年私も年をとって人間の心の機微が少しは解る?ようになったのか、はたまた、身の回りの夫婦ゲンカを見聞きしながら少しは勉強出来たのか?劇の内容がよく理解出来た。
 夫婦ってなったことが無いけれど夫も妻も一人の人間でお互いに寄り添ってはいるけれど別々の人生を生きていることを理解しながら生きて行ければ一番なんじゃないのかな!と言ったら世の中のご夫婦からそんなことは、解っているけれど、けど出来ないの!!と睨まれてしまいそうですが・

ノーラの美しく透きとおる歌声に感動しました。この作品に魅了されてしまいました。

コンパクトだったけど素敵な舞台でしたね。また、ノーラの歌声も素晴らしかったです。
 最後、何かに目覚めたように、ドアを閉めて出て行ったノーラ。波乱に満ちた生涯をおくるのでしょうか。

原作を読んでいるわけではないので抱いていたイメージにすぎないが、前半は「こんな話だったっけ?」と思うほど意外感があった。ノーラがとても幸せそうで、夫の出世とそれに伴い贅沢ができる暮らしになったことに心から満足しているようで、はしゃいでいる…。そのうち、やってはいけないことをやってしまいそれをひた隠しにする“影”があらわになるが、それも真に夫を愛していたがため…。なんだか美しい夫婦の物語に「ん?」
 ただ、さすがにクライマックスでは、あらすじとして知っていたとおり、夫や子供たちを置いて家を出るので「あ、思っていたとおり(よかった)」とやや安心したが、でもやっぱり何か違和感が…。
 違和感の理由を考えてみると「(そういう時代だったとはいえ)女性は家にいればいいという価値観、それを当然と強いられること、社会に出ていけないことに自ら疑問を感じて、自立すべく家を飛び出す」そういう女性を描いた物語を想定していたのに「家を出る動機」のところで違っていたため…だった。ノーラは単に、表面は優しくても実は横暴で心無い夫の真の姿が分かって愛想をつかして出て行ったという風に受け止められた。やっぱり「こんな話だった?」という印象です。
 もちろん、何がきっかけにしても、一番信頼し合いたい配偶者が救いの余地ない人間であることが分かったときに大英断をしたノーラには拍手を送りたいし、この先どうなるんだろう~?(生活力あるのかなあ)と余計な心配もあるけど応援したいとは思った。
 一方、この2人とは真逆に、知っているあらすじでは“悪人”以外のなにものでもないクロクスタがすんなり普通の愛と幸せを手にして“いい人”になっていく展開はなんだかほほえましいものだった。
 この時代の人はこの物語をどんな気持ちで読んだのかなあ、そんなことも思った。
 なお、1年の最後に、こんなにも重厚な舞台セットと素晴らしい歌声の作品を観ることができたのは最高に幸せなことでした。

先ずは、音楽劇がこれほど印象に残るとは思いませんでした。出演者の方の声、動きはまさに賞賛ものです。
 ノーラは愛する家族の生活が壊れないように必死になるところは、胸キュンしました(昭和の表現ですが)。

ヘルメル的にはノーラのことを本当に愛していたのだとは思います。ただ、自己愛が強すぎて、ノーラも自分を引き立てる道具=人形のようにしか愛せなかった、だから自分の全てを捨てても守ろうなんて考えはない、自分が一番という考え方の人なのでしょう。
 ノーラもそもそもはヘルメルが嫌っているクロクスタからサインを偽造して借金をするという浅はかな行動を愛だとごまかしたり、ちょっとモヤモヤするところはありましたが、ヘルメルを愛するという点では、自分を犠牲にする覚悟があったなと思います。
 ヘルメルの愚かさと一人の人間として自立していくノーラの聡明さとが対比されることで、新たな時代の幕開けを感じました。
 個人的には子供を置いていくことに関しては、途中、子供は親の影響を大きく受けるというセリフがあったので、ヘルメルの元では歪んだ愛しかなくて、ちゃんと人を愛せない人になってしまうのでは?と気になりましたが…。
 また今回も、色々と考えさせられる劇でした。

ヘルメルはノーラの何を愛していたのか。ついさっきまで愛していると言っていたのに、ノーラが借用書を偽造していたことを知った瞬間、その理由も聞かず全ての人格を否定するかのような非難と罵声をあびせたことは、夫として失格である。さらに、クロクスタから届いた封書に詫び状と偽造した借用書が返却されていた時、自身の地位が守られたことに喜ぶ様子は、単なる軽薄男だということを露呈してしまった。そして極めつけは、「さっきはすまなかった。許してくれ。お前を愛している。」舌の根も乾かぬうちによく言えたものだと思わず笑ってしまったが、人としても最低、失格である。
 イプセンの名作「人形の家」の結末に驚くとともに、金と名誉と権力に取りつかれた男は現代にも(身近にも?)たくさんいて、決して150年前の話ではないと思った。
 ノーラはヘルメルの本性を知り、全てを捨てて決別したことに称賛をおくりたいが、ちょっと待て、その判断は少し早すぎたのでは、いずれは別れるにしても、もらうべきものはもらっておかないと…
 人形の家を音楽劇にしたことで、古典の名作は蘇り、古さは感じなかった。役者さんの歌唱力にも拍手を送りたい。

鳴門例会カーテンコール

「イプセンの人形の家を読んだわ。」故郷を離れて大学時代早々に話をした女性の一言。あとは何を話したか何も覚えていないのに。高校時代の弘田三枝子さんの歌「人形の家」、そして徳島でのレストラン「人形の家」、今回観劇してそれぞれの「人形の家」への想いが繋がりました。
 私はこれまで名作「人形の家」を読んだことが無かったのです。この出会いに感謝。

銀行の頭取へ就任することが決まっている夫ヘルメルと可憐な妻として夫に可愛がられるノーラ。幸せを絵に描いたような夫婦の生活は、ある日訪ねてきたクロクスタという男によって大きく様変わりする。クロクスタは、ヘルメルが自分を解雇しようとしていることを知り、ノーラが過去に犯した秘密をネタに脅迫し、ノーラからヘルメルを説得させる目的で来たのだ。「ヘルメルが事実を知ってしまえば、きっと私をかばうためにその身を投げ出すに違いない」と夫を心配し隠し通そうとするノーラ。しかし、実際に事実を知ったときの夫ヘルメルの言動は、自分の地位や名誉ばかりを心配し、ノーラを罵るものだった。失望したノーラは家を出る決意をする・・・。話の内容、演出、そして歌も大変興味深い舞台でした。特に印象に残ったのは、クロクスタが訪ねてきた直後にノーラが「愛のために~♪」と歌うシーン。クリスマスツリーの飾り付けをしながらもクロクスタの言葉に動揺し苦悩するノーラの気持ちが伝わってきました。また、楽曲として耳に残っているのは「マ~カロン、マ~カロン、マ~カロンロン♪」という幸せの象徴のような歌。思わず今でも口ずさんでしまいます。あと、舞台始まりの外壁に描かれたクリムトの絵画と夫婦が暮らす家の中のミュシャの絵画の対比も何か意図するものがあったのだろうかと考えさせられました。

舞台上に置かれたセットが素敵で、開演前から期待に胸を膨らませていた。透かし彫りの欄間もおしゃれで、音楽劇はセリフをメロディにのせているので、心情がとてもよくわかり、アンサンブルがとても効果的だった。
 マカロンを食べるときのワクワクしている様子、ノーラが夫のためとはいえ次第に自分が過去に犯した罪の大きさに冷静でいられなくなり動揺している様子など、歌と照明の効果もあり、心情がすんなり伝わってきた。ラスト、夫ヘルメルが妻の罪を知った後、人格を全て否定するような罵倒を繰り返す場面は、すごい迫力で緊迫感があった。子供の教育も任せられないと言われ、自分の結婚生活8年のすべてを否定され、そこで打ちひしがれるのではなく、これからは自分の意志で前を向いて進んでいこうとするノーラは、とても強い人だと思った。女性の自立が作品のテーマだが、傲慢ではいけないことも教えてもらった。

開場の時からクリムトの“接吻”が大きく描かれた舞台セットが秀逸で、前回観た時と違って、そのセットがどう動いてメインセットが出てくるのかをゆっくりと味わって観ることができた。お芝居が始まると、大場さんは、前回観た時と違っていて白髪交じりの髪もあるからなのか、大人な振る舞いで、渋い色気の印象に変わった。畠中さんの声は相変わらずステキで、インタビューをしたこともあってどうやってこの役を演じているか深く観た(演出家との話でゆっくりと台詞を言うように気にしていた)。土居裕子さんは歌が上手くて、声がかわいくて、2幕の衣装は特にかわいかった。ラスト近くの歌声はホール2階まで響いて圧巻だった。ステキな時間を過ごせて良かった。

初めての音楽劇♪
 とても楽しく見させていただきましたが、当時の時代背景をもう少し勉強しておけば良かったと思いました。当時のヨーロッパの状況がどうあったのか等・・・ですが。

「人形の家」音楽劇で全体を通して歌声が響いていた。ただ、セリフによってはリズムの悪いものもあったように感じた。幕開け早々のセリフで「秘密があるからときめく」そして、「秘密がなければつまらない」と印象的な言葉であった。物語が進むと、その中のキーワードかと間違えた。
 物語は女性の人生に拘る難しい題材だと思った。最後のノーラのセリフがおなかの底から絞り出すような声で、自分の、か弱かった人生に別れを告げて一人で生きる強い覚悟がはっきりとわかるフィナーレだった。私自身は、ノーラのように今までの人生をゼロにして新しくやりなおす自信は全くないと思った。悔やまれるのは、長い年月を2人で過ごしながら、心からの会話がなかったこと。それが残念でならない。あれば違う人生になっただろうと思う。


(人形)という言葉を辞書で調べると、いくつかの解釈がある。もちろん、今回のイプセンの作品での意味は「自分の意志では動けず他人の思うままに動かされる人のたとえ」だろうが、前半、ノーラはそんなにも意志のない女性であっただろうか。私には元気いっぱい、笑顔いっぱい、愛情いっぱいで頑張っていたノーラの姿が目に焼き付いている。そんなノーラを愛する夫ヘルメルの愛し方やノーラへの言葉かけが問題なのであって、ノーラは決して最初から最後まで人形なんかじゃなかった、と私は思う。夫ヘルメルが病気の時、自分で考え抜いた末に夫に嘘をつき、クロクスタから借金をしたのだって、立派に自分の意志を行動に移せている。やり方が少々間違っていたとは思うが、でも、そうして夫の命を救ったことは褒められこそすれ、後に夫からあのように責められるようなことでは絶対ない。物語の最後に、夫の容赦ない罵声の言葉でノーラは完全に自我に目覚め、子供まで残して巣立っていく。その彼女の意志の強さに圧倒されてしまった。あの可憐な彼女のどこにそんな力が隠されていたのだろう。
(の)ノーラ役の土居裕子さんの歌声のなんと美しかったこと!一つひとつのセリフを歌にすると、聞き取れなかったり聞き取りにくかったりする場面もあるものだが、彼女の澄み切った歌声は一つひとつの言葉がとてもはっきりしていて、物語の流れをしっかりと伝え続けてくれていた。もちろん、彼女以外の出演者の歌の素晴らしさがあり、アンサンブルでの歌声と共に深みが増し、音楽劇ならではの魅力がたっぷりで、素晴らしかった。
(家)の設定での今回の部屋の造りがまた素晴らしかった。舞台の暗転を図るのに、丸い壁が2枚動くしかけになっており、またその丸い壁の裏側にはすでにいろいろなものが並べられ、丸い壁が後ろに引き下げられ、表と裏の見える面が変わると同時に、そのまま舞台上の部屋の一部となる。舞台の暗転を示す小道具としての壁と、部屋の一部のインテリアとしての壁と、2通りの使い方をする今回のやり方がとても面白く感じられた。大道具さんのひらめきに脱帽だ。丸みのある単なる壁だとばかり思っていたものが、始まりと同時に後ろ側に引かれると、その壁がそのまま、舞台装置の一つとなって舞台にあり続ける。面白い!なんて面白いんだろう。
 鳴門市民劇場の例会に来てみれば、演劇そのもののストーリーの面白さ、役者さんの演技の妙技はもちろんのこと、舞台装置だったり、音響効果だったり、照明効果だったり、その劇その劇で実力を遺憾なく発揮してくれる大道具さんや小道具さん、照明さんや音響さんのお陰で、いろいろな楽しみ方ができる。田舎で育って、映画も演劇も全く縁のなかった私は、退職と同時に、今までの生活では味わえなかった別の楽しみを知った。自分では決して経験できないストーリーの数々。過去のことを知ったり、未来のことを想像したり。時には忌まわしい過去の戦争時代のことを知ったり、子供に返って人形劇を楽しんだり。これからもいろんな楽しみを見つけに、元気で参加させて頂こう。

まず出演者一人ひとりの歌唱力の良いのにびっくり!男女3名ずつのアンサンブルもすごく良くて、心地よくハモっていて、すごくレベルの高さを感じた。音程が正しく歌詞もよくわかって素晴らしかった。舞台セットも魅力的でした。

今回の「人形の家」は、サークル当番でしたので、特別な気分で観ました。もちろん、9人(全員)が会場へ足を運びました。歌声は美しくすばらしく、心を打たれました。
 私は「人形の家」といえば教科書で著者はイプセン、そして女性の自立を書いた素晴らしい小説くらいしか理解していませんでした。
 夫や子供を喜ばすために土居さんの演じるノーラは本当に小鳥のようにかわいい。私はそのノーラがいつ、どう自立するのだろうとワクワクしながら観ていました。そうしたら最後の場面で夫ヘルメルの妻ノーラへの怒りで自分がこの家では「人形」だったことを悟るのです。そしてトランク一つで夫と子供を置いて家を出て行くのです。
 家を出たノーラはどうなるのだろうと心配しながら帰りました。

久しぶりにサークル全員といっても3名ですが、藍住で並んで観劇することが出来ました。音楽劇ということですが、みんな歌がうまく感激しました。「人形の家」はイプセンの名作ですが、「私は人形じゃない!」という言葉が印象に残りました。

若かりし頃に読んだストーリー!!この時代から現在までも女性のあり方はあまり進歩していないことに驚かされました。女性の意識はだいぶ変化しましたが男性側の意識がまだまだ追いついていないことに改めて気づかされました。

当番月の例会でした。準備でほかのサークルの方々との打ち合わせなどで舞台への興味もより深まっていきました。土居裕子さんのほとんど歌いっぱなしの最初から最後までプロの歌唱力に驚きました。最後に家を出ていってしまい、残されたヘルメルの落胆さ。そして(ダーン)の音。自死したのだと・・・(想像)。とにかく素晴らしかった。2時間40分の上演時間あきることなく、あっという間の時間でした。時間が合えば、徳島公演も観たかったです。

ノーラの迫力が素晴らしかったです。

役者さんたちの歌声や演技がとても良かったです。最初2時間半というと長いなぁと思っていましたが、終わってみるとそうでもなく、楽しく充実していました。
 ノーラが夫も子供も捨てて家を出ていくということは、今から140年余り前には大変な行動であったにちがいありません。その後のノーラがどう生きたのかは、ずっと以前から関心があったことです。『人形の家part2』が上演されているようなので、機会があれば是非観たいものです。

日本では島村抱月、松井須磨子の時代の作品である。さすがに現代感覚からはズレた話ではあるが、終盤でノーラがヘルメルは自分を人形のように可愛がってくれているだけで、一人の人間として見てくれていないと気付き、自立を決意するくだりは迫力があり見応えがあった。
 土居裕子さんと大場泰正さんが良かった。クリムトの絵画を持ってきた理由が分からなかったが舞台にマッチして印象的であった。その他の舞台の作りも面白かった。

非常に面白くて、久しぶりに時間が短く感じられました。

「人形の家」とても楽しみにしていました。
 全員の素晴らしい歌声が耳に心地よく、また物語が解りやすく最後まで楽しく観劇できました。
 素晴らしい舞台が見られて感謝しています。


・すぐ近くで観ることが出来て感激した。
・舞台上のクリムトの絵の舞台セットを動かして場面転換をするのが面白いと思った。
・セリフを歌で表現してくれていたので理解がしやすかった。

若い頃は「人形の家」を見て、ノーラの決断に共感したと思います。
 しかし、高齢者になると何とか丸く収まって欲しいと願ってしまいます。

舞台は始まる前、まるで中世の砦のような建物が置かれ、この中身はこんなに甘いんだよと想像画が描かれ、幕ではなかった。始まってみるとやはり音楽劇だから、あでやかさが増し、オペラ風だが、セリフは別、集中して聴くのは忙しくても楽しいなと感じた。
 ノーラは自ら家庭を明るくデザインできる人で、家に縛り付けられた女性ではないと感じられた。家庭内をコーディネイトできる人ではあったが、世間を軽々わたる人でもあった。
 ある時、夫を病から救う為に銀行からお金を借り、その証文を夫に見せていない失策を犯していたことから、そのミスを夫に暴露すると脅迫に来た銀行員(クロクスタ)がいた。彼はいつまで経っても昇進させてくれないヘルメル(夫)への憎しみを妻(ノーラ)に向けるおぞましい人間であった。
 ノーラはその頃、親友リンデ夫人を不幸から救い支え続けていた。その間ノーラはクロクスタと自分を人形のように抱きたがる夫との三角関係の中で うつ病気味になって苦しんでいた。
 この様子にリンデ夫人は気づき、恩返しの兆しが現れた。即ち、リンデ夫人が例の借用証をクロクスタ自身が自らノーラに渡すことを決心させたのだった。証文は書簡として送られてくることになった。
 私は一瞬歓喜し、飛び上がる体験を味わった。そ、それなのに、他方のノーラの忍耐は事尽きていて、結婚8年目のある日、夫に自分の自立を宣言した。夫は目覚めることはなかった。
 私はこの瞬間とても悲しかった。自立には痛みが伴うものだけれど、積み重ねた努力であちこちを修繕してゆけば、先はどんどん明るくなっていくだろうに・・・。
考察
 1981年ごろから 日本では旧統一教会において信者の養子縁組斡旋が行われた事は周知の事実だ。その為に人権が無視されたと悲劇を訴える人が745人に昇るとも伝えられ、今年の大きな社会問題になった。
 広い世界に眼を向けると、17才の少女が産まれた児を抱き、はぐくむ姿を眼にし、国際問題に値すると思った。
 人形の家は立場に当たる方々にとってその見え方が大きく広がり、変わる、暁のような作品であると思う。

伏線としてあるクロクスタとリンデ夫人との関係に興味を覚えました。


(1)ノルウェー劇作家イプセンの名作との記憶はあったが、この舞台を見て、改めて、現代にも通じる斬新さと素晴らしさを味わった。熱のこもった印象深い舞台であった。
(2)“真実の愛・人生とは何か?”自分の尽くしてきた家族への愛情や、夫の信用失墜の原因になるまいと死まで考えた真心が、夫に理解されていない。あれだけ自分の信用破滅を恐れ「消えてしまえ」まで叫んだ夫が、手のひらを反すように、今までと同じように最大の誉め言葉や、やさしさで可愛がろうとする、これからも変わらない人生が続くのだろう。ノーラは変わった。強くなった。立派な夫を残して家を出ていく。死を味わった人間の人生への確信・自立の象徴であった。
(3)“時代がちがうのか?”確かに現代は共稼ぎ経済社会。大富豪か王侯でなければ夫が妻を贅沢三昧させることはできないだろう。但し“人間の生き方”で最も大切なものは何か?イプセンは「真実と自由、それが社会の柱であるべきだ」と言った。以後約2世紀の経過の中で、民主・人権・男女平等の理念は進んだものの、戦争殺戮、難民、いじめ虐待、DVは相変わらずそこかしこで発生している。
(4)クロクスタの改心経緯が少し簡潔すぎて物たりなく感じたが、ノーラの苦悩の深い演技によってすぐ忘れた。音楽劇であったが、メリハリが効いていてオペラの様に迫力があった。
 舞台装置もセンスあるクリムトの絵などがふんだんに使われ、最後まで興味絶やさず古典名作を鑑賞できた。

鳴門例会カーテンコール

E-mailでのお問い合わせは、        鳴門市民劇場ホームページ
nrt-geki@mc.pikara.ne.jp
まで。