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素劇 楢山節考

劇団1980公演

鳴門市民劇5月例会
 2023年5月10日(水)
 感想集


鳴門例会カーテンコール

どこの地域でも歌や方言を使って、あのような風習があったのだろうか。今回、おりんさんと又やん演じる二通りの両極のパターンがあったが、自分はどっちの思いに至るのだろうかと身につまされる気分だった。
 舞台セットでロープや布、ブロックを使い、家や川、岩などを上手に表現されており、生演奏で迫力もあって、引き込まれました。

映画化された事もあるこの作品の舞台をとても楽しみにしていた。それは映画のワンシーンで、年老いた母親を息子が背負い山に「おき去り」にするという内容だけが強烈に残り、どうしてこのような風習が残っていて「楢山まいり」をしなければいけなかったのか?登場人物の心情を知りたいと思ったからだ。貧しいながらも寄り添い、家族仲良く暮らしていたが、食料の乏しい村では充分な食べ物を与えることができず、昔からの習わしで、自ら「楢山まいり」をして、死を迎えるということであった。「おりん」と「又やん」が対照的に表現されていた。通常、自ら死を迎えるというのはなかなかできるものではない。「又やん」に同情しつつも、とても複雑な気持ちになった。現実を受け入れられないというのも人間の本当の気持ちなのだから…。
 舞台は黒い箱と白いロープで風景や家の中の様子を表現し、登場する人物の衣裳も藍色の作務衣で統一し、民謡調の歌声、ギターのもの悲しい音色から、木を切る効果音、火打石の音。素劇とは思えないほど想像力をかきたてられた。山頂のシーンはあまりにもリアルすぎる感があったが、とても素晴らしい舞台だった。


(な)なんとシンプルな舞台装置。黒い箱と白い紐が置いてあるだけ。そして出演者達も皆黒っぽい衣装で客席後ろから登場!急に歌と踊りが始まった。えっ、これは何???
(ら)ライトも暗く、舞台全体がなんだか怖い。暗闇っていうのは、もうそれだけでこれから始まる舞台が辛く悲しいものだと語っていた。
(や)山を表すのも実にシンプル。でも、遠くの方に確かに山が見える。おりんさんが、先祖や母や姑が神様になって迎えてくれると信じている楢山が、そこにははっきりと見えている。
(ま)また、舞台の観客席から見て左手には音源を担う人が一人。効果音を出すものは笛と太鼓とギターだけ。たったそれだけで、あの楢山節を組み立てていく。
(ぶ)舞台が今回こんなにもシンプルなのは、素劇という手法で演じられたがためだった。でも、こんなにシンプルで素朴なのに、私達見る者の心に響く。もう一度言うけど、舞台装置は黒い箱と白い紐のみ。その白い紐が家になった!すごい、good idea!舞台の合間、合間で、力強い楢山節が響くのが心地よい。場面にそって歌詞が変わり、力強く歌われる。舞台の場の心情や舞台背景が見て取れる、不思議な歌の数々だった。
(し)死生観なんて、今の私にはない。まだまだ元気でこの世に存在すると思っている。夫には終活をしていると宣言しながら、その実、一つも進んではいない。そう、私はまだ死ぬことを本気では考えていない。
(こ)この舞台で一番印象的だったのは、何と言っても、岩場に静かに座り手を合わせるおりんさんの姿だ。そこに雪が舞い、望み通りに真っ白な雪に包まれたおりんさんとその母親をしっかり見届ける辰平のシーン。静かで荘厳な姿に胸が熱くなった。大好きな母を一人残して帰る辰平の気持ちはどんなに辛かっただろう。しかし、もっと辛さを感じるのは又やんの倅ではなかったか。
(う)うらみなどあろうはずがない父親の又やん。その父親を捨てなければならなかった又やんの倅の気持ちが痛い。山に行くことを拒否し続ける父親を、結局は無理矢理連行し、谷底に蹴落してしまった又やんの倅。元気な老人であれば当たり前の生に対する執着だったのに。でも、あの時代のあの村ではそれが許されなかった。村の掟ゆえにそうせざるを得なかった又やんの倅が、憐れで、不憫で、気の毒であった。彼は今後、どのように生きていくのだろうか。村の掟とはいえ、自分の父親を自らの手で葬ったという想いは彼の心から消えてはいくまい。
 今、私はこの感想文を自宅の2階の自分の部屋で書いている。窓の外には国道を挟んでずっと向こうに我が家の墓地が見えている。お義父さん、お義母さん、ご先祖様、私もいずれ、そちらに参ります。それまで見守ってくださいね。

まだ私が二十歳になる前、この小説は映画化され、その頃考えたことは、日本にはこういう貧しい地域があった……「背筋に氷が……」ゾッとする感じを味わった体感を思い出す。日本は貧しい国だから合理的な方法を考え出したのか等と考えもし、とにかく恐ろしい!
 八十路を過ぎた今は、おりんさんの心持が、スーッと入り込み、半ば納得できる気がする。自分が生まれるのは両親から、死す時を息子が見計らってくれる。遺伝子(おりんさん知らないが)だけは統一される。
 今回の素劇は迫力に満ちていて、色彩の装飾をまとわず、的確なセリフを唄として歌い、手と足の指にはエネルギーを貯えて縦横無尽に踊り、ミュージカル+踊りで表現を完璧にして独特な値打ちのある重い作品であった。

若い時から、楢山節考については有名な物語なので大凡の筋は知っていた。今回の公演も、人・表現等変われど、脚本から大きくそれることはなく底辺には悲しみが流れている。お山の神様が迎えてくれるとの心、何とも痛ましい。読経の声、おりんの音、「キニョウ、ムニョウ、ジニョライ……」浄土真宗のお経の声、お芝居を通じて流れる「なむあみだぶつ」のお念仏。澄み切った心でお山に息子に背負われていく。肉親との生きたままでの別れ。悲しい物語ではあるが、今の世の中にも通じるものがあるかもしれない。
 パンフレットも、なかなか売れなかった前回の経験から、買うことにした。

素劇を始めて観ました。舞台美術やメイク、衣裳が無く、ロープや箱、枯れ枝、ギター1本と太鼓、拍子木などの音しか使用していない。……それなのに情景が目の前にありありと浮かびます。俳優さんの声、表情、無駄のない動作、会場に響き渡る素晴らしい歌声、それらのお陰で、物語に引き込まれました。
 現代では想像もつかないほどの厳しく貧しい生活ゆえの出来事なのだろうが、あんなにかわいらしいおばあちゃんを山に連れて行き、置き去りにするなんて、切なすぎると思いました。高齢化社会の現代にも通じるものがあり考えさせられました。

地方によっては、ああいった制度があったんだなー……と、とても悲しく思いました。
 高齢化社会の現代では考えられないことですが……。二つの家族の老人に対する接し方が対照的で、なんとも言えない思いでした。

覚悟を決めていたお婆さんが、とてもカッコよかったです。最初は内容がつかめず戸惑いましたが、長男やおじいさんに感情移入するうちに、次第に引き込まれていきました。延命治療や福祉について非常に考えさせられました。
 「からす」良かったです。

死への覚悟と生への執着。人間の生き様そのものが民謡風の素朴な唄とともに描かれ、ちょっとコミカルさもある舞台。素劇というデフォルメされた舞台は、姨捨山の暗く重いイメージが薄く、心地よいお伽話の世界になっていた。
 覚悟しているとはいえ、息子に背負われて楢山参りをするおりん婆さんの心情、それを送り出す家族たちの心情が切々と伝わり、感動的な舞台であった。

暗い劇だと想像していましたが、歌やおどりなど、たくましく生きる村人の力強さを感じました。エネルギーをもらえた気がします。

素劇というものを初めて観た。紐と太鼓そして民謡「楢山節」、劇団員の演技、それだけで充分に想像された。「楢山節」に導かれて筋が進んでいくが、「楢山節」について考えさせられた。想像以上に素晴らしい「素劇」だった。

素劇とは?興味津々、期待いっぱいで会場へ足を運んだ。"すばらしい”の一語に尽きる。
 黒い箱と縄、枯れた草のような物で、ストーリーが展開されていく。役者さんの所作でセリフが聞こえるような感じだ。あっという間に舞台に引き込まれた。
 70才を過ぎれば楢山まいり、思わず自分の年齢と比べて、言葉を無くした。この年令で山行きを覚悟することは大変なことだと思う。人は生まれて、自分の寿命を生きる。そして必ず死がやってくる。加齢はどんな人にも同じだ。
 この舞台を通して"信じる力”がいかに大切かを実感した。口減らしのために年寄りを姥捨て山へ運んでいく。おりんは、捨てられる感覚から迎えてくれる、という思いだ。先に楢山へ行った人たちが神様になって迎えてくれると信じている。だからこそ、息子の背で、覚悟して山への一歩一歩の歩みを進められるのだと思うと、胸がグッとくるものがあった。母を背負い、山へ急ぐ息子の心情を思うと涙が出そうになった。
 久しぶりに、プロの演劇の醍醐味を堪能した。

黒の面に1本の白線から物語は始まる。貧しい村に生まれ、どう生きるか、どう死ぬか?
 現代、デジタルコンピュータグラフィックス映像は華やかになっている。素劇はどこまで現在の人に響くか、そんな疑問はすぐに打ち消された。黒の背景なのに山深い寒村が目に浮かび、大雪になり、おりんは仏さまになっていった。
 これは、私の心にずっと残るであろう。

最初に柴田義之さんが(場を和ませる意味でのユーモラスな演出のひとつで)口にされたように、まさに「考」、「楢山伝説を考える」作品だったと思いました。さまざま思いが、観ている最中も、今も、頭の中をグルグルしています。あまりに色々なことをバラバラに感じたので今回は箇条書きに…。
 「毅然として生き、逝きたい」:りんさんの姿は、私には理想です。誤解を恐れずに言えば、“生”は長ければ長いほどよいものではなくて自分の最後は自分でスケジューリングできたらいいのになというのが私の想いなので、とても共感できた。
 「残されるものの痛み」:逝くものより残るものの方の痛みの方が格段に大きい…というのも、これまでに、見て、経験して…の自分なりの正論。この作品でもその部分がとても印象的でした。自分自身の理想の最期と、たとえば最愛の人の最期への願い(やっぱり、少しでも長く生きてほしいなと…往生際悪く思うと思う)の間にはやっぱりギャップを否めないので…。
 「人間の気持ちってヤツは…」:あたりまえだけど“あっち行ったりこっちに来たり…”フラフラ、よろよろ、全く定まらないのが人の心の常。おりんさんの息子辰平と孫のけさ吉が象徴的で、おりんさんを見送る話の中で「遅い方がいい」と躊躇を隠せなかった辰平が、山に同行して見送った後は清々しい気持ちになっていたのと対照的に「早い方がいい」とりんさんを邪見にするとも思える言葉を口にしていたけさ吉がクライマックスで号泣。思いはひとつではない、だから…人間は愛しいなと思いました。そして、ひとつでない思いを独りでは抱えきれないから、人は人と支え合っていくことが必要なんだろうなあと思いました。
 最後にやはり、何度も出てきた「(おりんさんは)運がいい」というのは本当だったと思います。降る雪に包まれての最期は運がいい昇天でしょう。それも、もちろん、残る者が自分の痛みを軽くする考え方にすぎないのかもしれないけども…。
 全体的には、この話を「素劇」で創ったことに大きな値打ちがあって、何度も拍手を送りたい気持ちになりました。素晴らしい総合芸術でした。

素劇の素朴な表現や想像力をかきたてる演出が、観ていてとても面白かったです。また、特に終盤の節や音楽が素晴らしく、切なくて好きな箇所でした。

鳴門例会カーテンコール

素顔、素足、素うどんはおなじみですが、素劇には初めて出会いました。公演ちらしにある「素劇ならではの魅力」とは何なのか、開演前の極めてシンプルな舞台の様子を眺めながら期待が高まります。
 最初は滑稽なシーンが気になって(カラスが語りだすし…)物語に入り込めずにいたのですが、玉やんが嫁いできたあたりから、おりんさんの「山に入る」準備が進むに従い、舞台上に緊張感が漂い始めます。
 素劇は役者さんたちの息があわなければ場が台無しになりかねないと思うのですが、だんだんと観客とも息があうと言うか、役者さんが表現したいことがダイレクトに伝わるというか、一体感を感じるようになりました。おりんさんは「山に入る」ことを誇りに思っています。もちろん隣の又やんのように、そうでない人もいます。死にたくはない心情を否定することはできないのですが、おりんさんはそれとは対比した存在として表現されており、そのことが楢山節考が残酷で暗いだけの話ではないことを際立たせています。
 それにしても、おりんさんの最期は美しく表現されていました。これは陰惨な状況の中で老人が死ななければならない物語ではなく、老人の誇り高い生き方の物語であると感じました。

話の内容はもちろん感動がありましたが、印象に残ったのはやはり表現の方法でした。
 いつもよりもセットがほとんどない状態でしたが、想像力をはたらかせて面白く観劇することができました。
 映画などにはない市民劇場ならではの良さを再確認することができた気がします。

久しぶりに5月例会を観劇しました。
 観ていると徐々に想像力が働き、舞台装置があるように見えてきたのが不思議でした。
 よかったです。

話もセリフも字幕みたいな幕が出て分かりやすく、とても良かった!でも時々、聞き取りにくい所が有った!テレビみたいに字幕付だったら良いのにな!と思う。
 感想ですが、姥捨山がベースになっていると思っていたので、山に行きっぱなしで終わったのでハッピーエンドじゃなかったのが少し残念でした!

初観劇。
 舞台の感想:生の声だけの舞台なので、前列に居たのにセリフが聴こえないことがしばしばあり、座席が後ろの方ではきっと聞こえないのでは…との懸念が…。
 今回の作品/テーマへの感想:これまで何となく持っていたイメージとは全く違ったモノなのだと認識させられた。と同時に、古来からの人の世の常/自然/達観/あるべき姿というか、そういう今は失われてしまっているモノをヒシヒシと感じ、何だか気持ち/気分がスッキリとした。日々の生活/活動で忘れて/幸せな日常に小石を投げ込まれたような/スッキリとしたような…そういうスッキリ感。
 “明日”。それを信じられる者だけに、今を生きる価値を見出せるのでは? その明日は、5年先でも10年先でも20年後でも…(チューブに繋がれて、ただただ生命を維持するような時代になったことを、この歳になれば現実/自分事としてヒシヒシと…)。 人は幻の夢を追いかけて、生きているだけならば儚すぎる…。人は夢ごとの過去を懐かしみ、かえがたい優しさに気付くけれど…、昨日を見捨てるそんな生き方もある、この世に私を授けてくれただけで、涙を連れ添うそんな生き方もある…。
 …とね。こんな達観した/ひとの生きる/活きる作法を詠った歌を思い出し、連想しましたよ!

私の無知を曝け出すようで大変恥ずかしいのですが、今回の観劇の演目である「素劇 楢山節考」での「素劇」の「意味」や「読み方」を、私は全く知りませんでした。おまけに、主題である「楢山節考」も、他者から言われれば理解出来るのですが、自分自身から直ぐには読めないという問題を抱えていました。そこで、私は先ずはその意味等を調べることから始めました。その結果、「素劇」とは「大げさな舞台装置や派手な衣装を排し、 簡単な小道具を用い、俳優の肉体でほとんどを表現する演劇のこと」との解説が為されており、併せてその読み方が「すげき」と知ったのも、私にとっては初めてのことでした。つまりは、リアルな舞台装置や衣裳・舞台化粧などを一切排除し、観客の想像力を喚起することによって物語の真意を表現することのようです。そして、主題である「楢山節考」は「ならやまぶしこう」との読みですが、何故か私の記憶に定着し難そうで、やはり咄嗟に読み上げることは出来なそうです。いずれにしても、「素劇 楢山節考(すげき ならやまぶしこう)」と、書き留めることで忘れないようにしようと思います。
 そして、これらの解説等を読み、最初に舞台上に置かれていた前面部が垂れ下がった四角いロープを見て、一瞬で「これは壊れたプロレスのリングなのか?」と連想したのも、私の想像力を喚起させられた結果なのかもしれないと、後に気付くこととなりました。
 さらに、舞台が進むにしたがって、このロープを使って色んな表現を形作る演技に、これも又もや私にとって「欽ちゃん&香取慎吾の全日本仮装大賞」を彷彿とされるものでもありました。その理由は、黒箱と1本のロープを一瞬にして様々な形に組み合わせ、あるいはそこに俳優の肉体そのものも舞台装置として組み込みながら各々の場面が構築・表現されていたからです。
 この様に、今回の観劇は、過去に観たものとは大きく趣の異なった、過去の演劇のどれよりも、より一層シンプルな演出でしたので、ある意味において演じる役者の力量にかなりの部分で依拠するのではと思いました。ですので、舞台上での身体を張った情景描写には、そのような観点からとても感動させられました。 さて、本劇の舞台内容について少し考察したいと思います。あらすじは、今まで色んなものから情報を得ていて、それとなく知ってはいたのですが、改めてその流れを最初から最後まで観たのは今回が初めてでした。そこで、今回の観劇から受けた印象と私が生きている現代社会の老人等を取り巻く環境とを比較してみることにしました。
 先ず、現代の日本社会で、果たして私が定義するところでの「楢山節考(=姥捨て山)」は存在するのでしょうか?例えば、いわゆる老人養護施設等へ年老いた親を入れっぱなしにするのを「現代の楢山節考(姥捨て山)」と捉えている方もいます。ただ、この捉え方には賛否両論があると思い、それぞれの見方や立場によってその判断が異なると考えますので、ここではその是非を問うことはしません。ところが、これとは別に最近のネット上でのある人物の発言に、私としてはこれこそ「現代の楢山節考(姥捨て山)的思想」との感覚を抱きました。既にご存じの方もおられるかと思いますが、経済学者で米イエール大学助教の成田悠輔氏の「高齢者は老害化する前に集団自決、集団切腹みたいなことをすればいい」との発言です。この発言によって、ネット上での炎上は凄まじいモノがあり、色んなSNSユーザーや識者が参戦して、さながらバトル状態でした。ただ、この成田氏の発言の真意は、字面からだけでは私には推し量ることは困難です。ですが、仮に耳目を集めること、あるいは問題提起が目的だったとしても、この様な暴言は決して許されるべきものではないと私は考えます。それ故に、これは一部の人たちであるものの、いわゆる上級知識人と言われる人々や社会の上層部にいる人間、多少個人的な偏見を含んでいるかも知れませんが、その多くは中高年以上の社会的地位が高い男性が陥り易い「自分はそこいら辺に居る奴とは違う特別で優秀な人間なんだ」という傲慢にも似た「選民意識」「エリート思考」ないしは「優越思想」または「優性思想」と私は解釈しました。その上で、これはとりもなおさず「用済みは不要」あるいは「役立たずは必要無し」との思想と直結しており、正しく「現代の楢山節考(姥捨て山)的思想」だと、私は捉えたのです。加えて、現代の日本社会での「乳幼児や小児・女性・妊産婦・身体及び精神障害者・性的少数者・弱者男性・高齢者」等々の属性に属する社会的弱者と言われる人々に対する不条理あるいは不当な扱いが横行している現状を目の当たりにすると、劇中の時代背景から遥かに近代化した現代でも、人としての精神構造は未だ「楢山節考(姥捨て山)」の時代のままなのかと、私としてはとてもやるせない気分に囚われてしまいました。従って、この様な観点から考えると「楢山節考(姥捨て山)」は、人によってその程度の差はあれ、その姿形を変えながらも脈々と私たちの心の中に棲みついているのだなと、今回の観劇は自分自身を改めて顧みる哲学や倫理観を内包した劇であったとの思いを強くしました。かように、今回の観劇のタイトルでは「素劇」と銘打ってはいるものの、その背景には複雑で深遠な思想や哲学、そして倫理観が根差しているのだと、私自身が改めて考え起こさせられた、言うなれば「混沌 楢山節考」であったのではとの考えに至りました。そういった意味でも、今回の「楢山節考」は、あと幾年後かには必ず訪れるであろう「老境」を迎える私にとって、「老いること(老人)」とは如何なるものかと、深く考える契機と成り得たと思います。そして、そんな導きを私へ授けて下さった「素劇 楢山節考」に感謝です!

すごかったです。帰り道は、もう、涙が止まらなくて、ぐるぐるしました。

送る者と送られる者の色々な思いを、シンプルな舞台がバックアップしているような、素敵なお芝居でした。

舞台は信州の山あいの小さな村。この村では「楢山参り」という70歳を迎えた冬に楢山へ行くことで貧しい村の未来を守るためのしきたりがあった。「楢山参り」を受け入れ、神様が喜んでくれるからと支度を急ぐおりん、できれば先延ばしにしてあげたい息子の辰平。2人のやり取りのシーンからは、そんな母子のお互いの思いがひしひしと伝わってきました。「楢山参り」のその日、誰にも見られぬよう辰平がおりんを背負って険しい山道を登る。そして、楢山の大きな岩場におりんを置き去り立ち去る場面。降り始めた雪に気付いた辰平が、「口をきいてはならない」「振り返ってはならない」などの掟を破って、母親に叫ぶシーンは心にささるものがありました。楢山節考と言えば、暗く重たい話のイメージでしたが、『素劇 楢山節考』は、素朴な演出の舞台でありながら、観る者を引きつける工夫が随所に見受けられました。テンポの良い音楽劇のような演出であったり、建物の存在を1本のロープで表現したり……。私は、「根っこのおりんやん運がよい 山へ行く日にゃ雪がふる」などと歌う節回しや舞台の下手にいる演奏者が、楽器の生演奏によって劇中の効果音を表現する演出に興味津々でした。

ストーリーを知っているし、映画も見ていたこの作品を今回は、2階席から鑑賞。遠すぎてなかなか想像していたより舞台の様子に入り込めなかったのは残念でしたが、カラスの登場には笑い、後半のカラスの大群には怖くなりながら怖さを越して逆に笑いそうになってしまった。歌声も2階席までしっかり届き、感動しました。ギター奏者も正面の席だったので、ギターの音色もまっすぐ届き、感情の入った音色に感動しました。

舞台装置は、「紐」と「箱」のみ。
 役者の、一挙手一投足が紡ぎだす…舞台。
 そして、舞台進行に寄り添う「生」演奏♪
 役者の巧みな「演技」と、観客の「想像力」に依拠。哀しい物語でありながら、一本筋の通った骨太の作品にエールです!(^_^)v

ずいぶん昔に深沢七郎さんの「楢山節考」を読み、衝撃を受けたのを思い出しました。そして今は、また巡り合うことが出来て、想像以上の感動をいただきました。残されたわずかの人生をいかに生きるか考えた一日でした。

今日の楢山節考、本当に辛くて悲しく涙が止まりませんでした。姥捨山など話しで聞いた事はありますが貧しい生活の為には老人を捨てるか、子供を売るのか究極の選択になるのですね。山道を老いた母親を背負う息子と背負われる母親一歩ずつあの世へと歩く姿には辛くて悲しくて、話しをしてはいけないと言うのも未練が残って置いては帰れなくなるからなのでしょうね。合間に役者さんの透きとおるような悲しい歌声、本当に感動しました。生きてゆけることのありがたさと難しさを改めて考えさせられました。それにしても役者さん達は歌手さんですか?あの力強い歌声や高音の歌声もう一度聞いたいと思いました。本当に感動の舞台をありがとうございました。

生死について重い内容でしたが、生演奏での効果音やBGM、ロープが家になったり、川になったりと、面白かったです。

素劇を鑑賞したのは、今回が人生初!となりました。作品については、正直、タイトル名と姥捨てのお話というイメージしか持っておらず、死にまつわる重い劇なのではないかと勝手に想像していましたが、作品冒頭で“楢山節を考える”というヒントをいただき、見始めました。描写された日常の生活(生から死まで含めて)の中には「くすっ」と笑える場面もあり、観劇中、生きていくことについて、いろいろな感情が沸き上がってきました。
 また、劇以外で印象的だったのは、開始前のホール内で劇団の方が「こんばんは!」と迎えてくださったり、帰り際も見送って下さったりと、なんだかほっこり温かい気持ちにさせてくれたことです。ありがとうございました。

楢山節考を素劇で表現したからこそ、ただ辛いだけの話ではなく、家族愛に溢れた話だったと感じることが出来た気がします。 「楢山節について考える」と冒頭に言われたことが衝撃的で、のめりこみ過ぎず、一歩引いて観ている自分がいました。こんなにも観ながらいろんなことを考えた芝居はないかもしれません。ご先祖様に守られていることに感謝している姿、心残りのないように精一杯生きる姿、命はつながっていくんだと、最後の時まで人を思いやれるおりんさんのようにありたいと思いました。

白いロープと黒い箱がとても衝撃的でした。特に黒い箱は、幾通りにも変化して、目を見張るものばかりでした。家族とのつながり、人が生きる意味を深く考えさせられました。

ロープと箱のみで、家の中になり、山となり、と場面が不思議と頭の中に映像として入ってきた。内容としては重く、色々と考えさせられたが、現代の世に生きている幸せをかみしめ、一日一日を大切に生きていこうと思いました。

家族のために自ら山に行くことを望むおりんと、すさまじい生への執着を見せる又やん、この二人の心情の対比をストーリーの中心に据えて鑑賞した。私がシンパシーを感じたのは、又やんの方である。それは、弱者に自己犠牲を強いる社会の有り様には、抵抗していかなくてならないとの思いからだ。今の日本の社会はどうだろう。
 温故知新という歴史を学ぶことの意義が、この劇の中にも生きていると感じた。

鳴門例会カーテンコール

E-mailでのお問い合わせは、        鳴門市民劇場ホームページ
nrt-geki@mc.pikara.ne.jp
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