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旅立つ家族

劇団文化座公演

鳴門市民劇7月例会
 2023年7月10日(月)
 感想集


鳴門例会カーテンコール

昨晩の公演は見事でしたね。テンポといい声量感といい抜群でした。劇団員さんのエネルギーを感じますね。

日韓や朝鮮南北の歴史がよく感じられました。2頭の牛の激突は日韓や朝鮮南北の対立の象徴でしょう。自由を求めて闘ったイ・ジュンソプと妻の生き方に感銘しました。それにしても、日韓は早く仲直りして欲しいものです。

私が生まれた数年前の話であり、戦時中のこの時代を日本人と朝鮮人が生きた様子が生々しく伝わってきて、日本人どうしでも大変だったろうに、と思った。戦争さえなければ家族がバラバラにならなかったのにとつくづく思う。

日韓の歴史を背景に力強い作品であった。生の舞台なので伝わってくるパワーがあった。しかし、芸術家と暮らすのは大変だわーと思いながら観た。

迫力があって感動しました。舞台も大掛かりで良かったです。

とても迫力があり、全体的なストーリー、構成、演出に感動しました。

イ・ジュンソプさんの生涯があまりにも波乱であまりにも短く、最後が悲しすぎました。死んでから絵が売れても仕方がない。もっと強く生きて欲しかった。芸術家とはそういうものなのか・・・?

戦時中の苦難の中を方子が愛を貫いていた生き方に感涙しました。また、日本が朝鮮を36年間も植民地支配したことを初めて知りました。

すごいエネルギッシュな迫力ある舞台に感動! 素晴らしい力強い歌、ダンス、2頭の牛の闘い、すべてが分断と矛盾の象徴に集約されていた。日韓の負の歴史・・・日韓併合、日本統治下の朝鮮、民族差別、強制連行、創氏改名・・、今でも慰安婦問題、徴用工問題、38度線で分けられた朝鮮半島南北分断など、まだ根深く残されている。でも、色々な時代背景を乗り越え闘ったイ・ジュンソプ、そしてナムドクの母親、心の広い素晴らしい人だった。
 当時の方子の視点で進行していく佐々木愛さんの語りで回想され、方子とイ・ジュンソプを客観的にとらえることが出来、よく分かった。
 100ステージを超える全国公演を重ね、練りあげられた作品に、私たちもしっかり鑑賞しました。過去の日朝問題にきちんと向き合い、みんなで新しい時代を作っていかなければと思います。

カーテンコールにポンポンを強く、そして多く長く振った。そうするとイ・ジュンソプの母役の役者さんがアップで(他の役者さんは嬉しそうに)私の眼の中に飛び込んできた。劇は「そのパワーとエネルギッシュな表現力でほんとうに有難うございました。忘れません。」と心で叫びながら、80年前にもこの様であったのではないかしら、80という数字が妙に頭を離れませんでした。イ・ジュンソプは素朴な人々と美しい大陸で生き抜く力を持ち、牛を愛する魂はけがれず、永遠に消えることはありませんでした。繰り返し観たい劇でした。

日本の占領下と戦後の朝鮮戦下に生きた朝鮮人画家イ・ジュンソプと日本人妻方子の生き方が強く心に響きました。佐々木愛さんの演技には存在感がありました。良かったです。

すごいパワーに圧倒されました。とても元気をもらった舞台でした。自分の歩んできた道に世間の波にもまれながらも大切に守り続けたもの、これからも心に仕舞い込んでおきたいものがあることに気づかされました。佐々木愛さんの名演技で思いの深さに胸が震えました。感動しました。

素晴らしい舞台でした。さすが文化座。 佐々木愛さん、座の財産演目がまた一つ増えましたね!!

戦争と国家間の政情に翻弄されながらも、愛を貫き、強く生き抜いた方子さんの心の強さに心をうたれました。夫の才能を信じ、子供の成長をよりどころに、力強く、希望を失うことなく、逞しく生きていく姿はそれだけで尊いことだと感動しました。

舞台演出の妙と数多俳優陣の迫真の演技。
 あの時代、命を懸けて嫁いだ花嫁の想いと行動力。心に迫るものあり!
 願わくば、101歳まで生きた方子(まさこ)視点での舞台も観たい♪

今回のお芝居は国境を超えた愛とその家族の物語でしたが、あまりの演出のすごさに衝撃を受けました。また、佐々木愛さんの上品な愛ある語りにとても引き付けられました。

ほんとうに迫力のある舞台でした。特に荒々しい牛の動きに感動しました。実際にあったお話ということで、感じることも多く、心に残る例会になったと思います。

ほんと、感激の例会でした。

佐々木愛さんは若い時からテレビ、映画、演劇で見てきました。どのように変わっているか見たかったのですが、目が悪くなって良く見えませんでした。
 舞台は迫力のあるものでした。最初、2匹の怪物が出てきて、虎かなと思っていましたが。牛でした。
 戦争や日本と韓国との交流断絶の結果起こった悲劇ですね。死なずに頑張って欲しかったとの感想を持っています。
 私が大学に入った時、昭和40年に日韓条約が締結されました。

日本占領下の朝鮮北部に生まれ、戦争と分断という激動の時代を生きた実在の画家イ・ジュンソプの半生を妻である山本方子を語り部として描いた作品ですが、『旅立つ家族』というタイトルから思い描いた当初の予想を良い意味で裏切ってくれました。一つは、随所で見られたミュージカルのような歌による表現。特に、市場の活気溢れるシーンでは、役者さんたちのテンポの良い歌と演技に見入ってしまいました。二つ目は、イ・ジュンソプの作品の中の『牛』や『カニ』が絵画から飛び出して躍動的に動き出す演出。終盤、イ・ジュンソプが家族と逢えない絶望の中で病んでいった心を、二頭の『牛』に板挟みになり、もがき苦しむ姿で表現したシーンは、引き裂かれた家族の絆を表すと共に、南北に引き裂かれたイ・ジュンソプの祖国をも表しているように感じました。

とっても良かった!
 ミュージカル?で久しぶりに話にのめり込めた!あの時代は生きるだけでも大変な時代で自分の夢を表現し実現するのが難しい時代に妻子と離れ離れになっても心が通じ合い互いに信じ合えてステキな話だと思った。

難しい時代の出来事を、映像と言葉、セットで伝えきる取り組みには、大満足でした。 ベースの歴史の背景は勉強が必要でしたが。

戦中戦後の混乱の最中には、平和な現代では考えられないような色んなドラマが繰り広げられていたんだなあと、つくづく考えさせられました。
 又、いつもながらシンプルな舞台の巧みな動きでのチェンジには感心させられました。

鳴門例会カーテンコール

私のいつもの流儀で、予め割り当てられた観客席エリアの中で、一番好みの客席に着座して舞台に視線を移すと、そこにはややデフォルメされた牛の絵画が映し出されていました。ですが、いつも通りに予備知識無しで観劇に臨む私には、これから始まる舞台で、その牛の絵がどんな意図をもってそこに映し出されているのかが全く予想出来ませんでした。そして、そのモヤモヤとした気持ちとも相まって、舞台での演技を最後まで観終えた私にとっては、今回の演劇の構成や物語の展開が非常に難解との印象を強く受けざるを得ませんでした。というのも、先ずその一つとして、舞台上の演舞幕に映し出された「牛の油絵」の意味するところが、ジュンソプが彼の故郷の原風景の一つとして強い愛着を持っていたという事以外の今回の劇中での立ち位置が、舞台の最後まで私には理解出来なかったからです。さらに、舞台上で繰り広げられた闘牛の戦いや、劇全体を通じてのジュンソプの生き方、はたまたこの物語の言わんとするところの核心が、私の理解度や想像を超えた理路整然としない混沌とした彩りを放っていたのも一因かと思います。
 かように、他者から眺めればその様な混沌とした面持ちを呈していたであろうと思われる私ですが、今回の「家族の旅立ち」との演目から、一つ目は「ジュンソプが日本へ美術の勉強に留学すること」、二つ目は「山本方子が朝鮮へ渡航すること」、三つ目は「朝鮮戦争の動乱から逃れるために元山から釜山へ、そこから済州島へ移り住むこと」、四つ目は「ジュンソプを残して方子が子どもと共に日本へ避難すること」、五つ目は「ジュンソプが天国へと逝くこと」、そして最後の旅立ちは「方子が未来へと向かって歩み進むこと」の六つが、私の考える「家族の旅立ち」と捉えました。 その上で、今回の観劇への感想に思いを巡らしましたが、上述の難解さから非常に陳腐な感想しか思い浮かびませんでした。それは、かくも戦争は、無残にも家族を引き離し、人の精神をも荒廃させてしまう、全くもって有益な事は何一つ無いという厳然たる事実です。
 その様な中で、今回の劇中での朝鮮戦争下の動乱から、誰もが思い抱くのと同様に、真っ先に私は現在のウクライナで起きているロシアによる侵攻を思い浮かべました。ですから、現況のロシア軍による攻撃下にあるウクライナ国民の置かれた悲惨な状況や心情を考えると、今回の観劇で演じられた状況が今現在にかの国で起こっている現実そのものであるという何とも言えない陰鬱な心持ちになって来ました。その為、家族と引き離され、あるいは砲撃による家族の死、またはロシア軍による戦争犯罪にも等しい残虐行為、逆にロシア軍も前線の戦闘員の死と共に後に残された家族や親しき人、それら諸々の心情を察すると、「家族の旅立ち」は決して前向きの希望に満ちあふれたものばかりではなく、一生を通じて悲嘆に暮れる痛ましさもあるという、真逆の方向性を内包しているのだと感じました。また、上述のウクライナ戦争のみならず、現在でも世界中の至る所で内紛や内戦、あるいは近隣諸国への過干渉等々、本来なら互いに協力し合う事で今日までの繁栄等を築いてきたであろう人間として、真逆の互いにいがみ合い搾取するという恥ずべき争いが絶えません。ただ、そんな惨たらしい戦争ですが、その一方で今回の観劇からは戦争そのものの残酷さや戦争によって変容させられる人々の心、そんな有様を見事に表現した演劇であったとの印象を受けました。
 さて、ここで視点を変えて、ジュンソプの生き方に言及したいと思います。最初に断っておきますが、私が他者であるジュンソプの生き方に是非の判断を下すことは、全くもって不遜な態度とお叱りを受けることかもしれません。ですが、敢えて「私」という一個人の視点から感じたところを述べてみたいと思います。先ず、最終的にジュンソプは、食事を摂らないという緩慢なセルフネグレクトで、彼自身を自らの意思で死へと導いたものだと解釈しました。その背景には何が彼をそうさせたのかと考えを巡らした結果、彼の「いついかなる時も故郷に根差す」という意固地とも言える彼にとっての確固たる信念が、その様な方向へと彼を誘ったのではないかと私は想像しました。というのも、彼の考え自体がそれを裏付けるが如く、例えば彼の放った言葉のひとつに「目に見えないものは描けない」というのがありました。そこで、これは彼のどの様な心情を吐露したものかと、私なりに考えてみました。私の妄想に近い推論かもしれませんが、彼は故郷に根差さなくては何事も成し得ることが出来ない、いわば彼の心は「いついかなる時も故郷に縛られていた」のではないかと考えました。別の言い方をすると、例えば身体が日本にあったとしても、彼の心は常に故郷にあったのではないかということです。そして、この彼の心理状況を好意的な見方とは逆の方向から眺めてみると、私としてはジュンソプ自身が己の故郷に強く固執する考えに異常なほどに囚われていたのではないかと思いました。それ故に、その考えがむしろ彼にとっての足枷となって、より一層に彼の心を故郷に縛り付けてしまうこととなり、彼の心はいつまで経っても「家族(故郷)からの旅立ち(独り立ち)」が出来なかったのではないかとの考えに至りました。ですから、自死という行為によって天国へと旅立ったジュンソプではありますが、彼の心は永遠に旅立つことも出来ずに故郷の地に取り残されたままであったのではないかと、私は今回の観劇から想像しました。そして、彼の「旅立てない心」が、家族との別離を生み、彼自身をも自ら孤独死へと追いやったのではないかと考えると、「旅立つ」という事は希望に満ち溢れた未知の世界への扉を開く原動力となるとともに、その反面として、「旅立てずに今居る場所に留まり続けている者」への残酷な仕打ちを与えるかもしれないという「諸刃の剣の性質」を持つのではと、今回の物語(観劇)から感じ取りました。
 最後に、「(心が)旅立つ」あるいは「(心が)現在地に留まる」のいずれかを各々の人生で選択したとしても、その人生の最終幕での閉じ方が「幸福である」のか「不幸で終わる」のかは、その人自身がそれ(旅立つor留まる)を、各々の人生の行き着く先で、どの様に受け止め、どの様に解釈するか、極当たり前のことではあるものの、「最終的にはその人自身の心が感じ取り、そして決めること」だと改めて思いました。

イ・ジュンソプに気持ちを同化させて観ていたら、彼の芸術家としての苦悩に胸が苦しくなってしまいました。あまりに苦しくて、後半、感情移入の対象を、優しい友人のグサンに変えたら…少し落ち着いて観ることができました。
 グサンの目線からも物語があれば絶対面白いと思いました。
 グサンの使命感は「友人だから才能があるから」だけではないと思うんです。ジュンソプの才能や作品が、国の、さらに全国民の宝であり希望であると確信があるんでしょうね。グサンも本当にすごい人で、そういう役割の人に私もなりたいなあと思うのでした。

構成としては時系列でそれぞれの場所、時代を短いスパンで演じておりましたが、短いながらも深い話や素晴らしい演技力で引き込まれてしまいました。
 本来は才能を活かして幸せになったであろう主人公も戦争などで才能を発揮できなかったことの無念さもありましたが、そのところどころで必死に生きている姿を見ることができ、ある意味元気をもらえた作品のひとつになりました。

韓国人と日本人、何か近くて遠い国のように思ってしまうのですが、やはり人どうしは繋がっているんだなぁと思いました。史実に忠実なストーリーなのでしょうか?勉強不足で有名な画家の方なのだと思うのですが全く知らないお話でした。
 俳優の方々の力強いお芝居と歌のうまさも素晴らしかったです♡

芸術系の天才は社会情勢の変化に脆弱なところがあるよねって思いました。時代の「カナリア」というか。彼らが生き生きと創作活動に励める世界は、有象無象の私にも暮らしやすい世の中であるのは間違いないので、芸術家たちが「つらい!」と声をあげ始めたら、聞き流さずに向き合いたいものです。

最も印象的だったのは1幕の最後、イ・ジュンソプが母と別れて旅立つときに叫ぶ言葉です。そこまでさほど物語に入っていけてなかったので、突然涙が出てきて自分の感情の激変に自分でも驚いたくらいです。あまりにも心をゆさぶられたので、正確な台詞を確認したくて台本を読んでみました。以下でした。「世の中で三文画家がやれることは何か?戦争が起これば無用の長物。平和を叫び、戦争を憎み、自由の価値を知り、愛する術を知っているとしても、絵描きにできることは今は何もない。哀しい国に生まれたのはそんなに悔しくはないが、この哀しさの代償は…。母さん、僕は生きているからこそ先に行ってみるよ。それ以外の理由はない。今の僕に三文画家がやれることは何なのか?それがわからないからこそ、僕たちは旅に出るよ」
 自分が渦中にいようがいまいが(幸いなことにあまり大きな災難や不幸の渦中にいたことはありません…)、常に身の周り、世界のどこかでは争いや災害などの犠牲になる人は絶えることがありません。それを遠くから見るときにいつも思うのは自分の無力さととりあえず自分や家族が渦中の人になっていないことへの安堵感を感じている傲慢さ。そういうことをえぐり取られたように感じて、強く共感したとともにこの時だけはイ・ジュンソプと気持ちが同化したための感情の動きだった…と思います。
 物語全体を振り返って整理すると、この1幕の終わりではイ・ジュンソプは「できることは何なのか?分からないから(探すために)旅に出る」と言ったのに、ほとんど自死としか思えない最期を迎える前に口にしたのは(これも…台本で確認しました)「お前は、この世の中にまったく役に立たない奴だ。お前の絵は誰も見向きもしない。お前の絵はでたらめ、偽物だからだ。一時は絵に一生を捧げたいと考えた。しかし、今分かった。僕の絵は偽物だということを。だから誰も見向きもしないのだということを……。南徳!お前もそう思うだろう?僕には食べ物を口にする資格がないって」でした。自分が思い描く自分の芸術の理想や到達点と現実との差に苦しみ、芸術家として、芸術の力で、平和な世にできないことへのいら立ちから逃れられず、その絶望から自分で自分を救ってあげる赦しの気持ちを持つことはついにできずに死を選ぶしかなかった。そのイ・ジュンソプの鮮烈な生き方をある意味神々しいとみるか不幸とみるかはまだ結論が出せていません。戦争や祖国の分断がなければ彼は絶望から救われたのか?少なくとも愛する家族がそばにいることができたら…とは思いますが、もしかしたら彼の苦悩は別の次元にあって、大して変わらなかったのでは…とも思うのは少しひねくれた見方でしょうか。
 難しい内容の作品でしたが、迫力ある舞台装置と“俳優たち”の圧倒的な存在感には心動かされましたし、歌はソロも合唱もすばらしくて文化座としては珍しい一面を見せてもらえた気がしました。

旅立つ家族」は2度観るべきなのか!
 役者さんの声が良い、演技も熱い、音楽も良かった、冒頭の牛が激しくぶつかり合うシーンの迫力と言ったら! でも、何だろう、このもやもやした感じ。
 李仲燮はただのダメな奴だし、妻である方子との関係性も描き方が希薄。佐々木愛さんの説明的な語りも必要性を感じなかった。
 先輩から、「最初はそう思うかもしれないが、2回観ると感じ方が全く違うよ」と聞いて、自分で2回目を観て本当にそう思ったなら、より演劇の奥深さに気づかされるかもしれません
 両国に不平等条約であり大きな反対運動があったのですが、締結されました。この条約で日本と韓国の国交が樹立され、両国の行き来が自由になりました。2人がこの時代にいたなら別の運命になっていたでしょうね。

生き生きとした牛の動きがとても迫力があってよかった。戦争の悲劇は至る所にあったことを思い知らされる作品だった。


(た)タイトルにそぐわないウシの絵がアップで中央に。えっ、これは何?
(び)美術作品?誰の?って見ていたら、舞台右袖に一人の女性が現れ、舞台の始まりを待っている様子。この人は誰?
(だ)黙って見ている私にも、その人物が誰であるかは、舞台が始まってすぐにわかった。あ、佐々木愛さんだ!落ち着いた優しい声で語り始めたその人に、もうそれだけで、うっとりしてしまった。しかし、話の内容は、うっとり聞くにはなんだか重い。これは1930年代から1950年代の韓国と日本の話であり、韓国人男性で絵描きのイ・ジュンソプと日本人女性山本方子の出会いの物語でもある。
(つ)つんざくような大音響でウシとウシの闘いが始まった。それぞれのウシを操る俳優たちの歌と踊り。何度も出てくるその闘いのシーンは、最後には必ずウシの身体がバラバラになり、一つ一つの絵になり、そして倒れる。客席からはその絵までもが見えなくなる。これは二つに引き裂かれた北朝鮮と韓国の象徴だったのかと、見終わる直前に思いが至った。
(か)家族になるって、どういうこと?婚姻届を出したら家族は成立?しかし、彼らは戦争のごたごたでそれが出来ていない。でも、二人は紛れもない家族なんだよね?
(ぞ)俗世間に振り回され、韓国と日本の間に生まれた愛が、その経済基盤が乏しいが故の闇にどんどん侵されていく。夫を思い続ける方子にも病魔が襲う。その結果、彼女は二人の子供を日本に連れ帰り、愛する夫は一人韓国に残された。彼女がいないと全く絵が描けないというのに。
(く)苦難の連続だったと言えばそれまでだけど、その時その時に彼らが決断したことは決して間違いではなかったはずだ。でも、イ・ジュンソプはどんどん心を病んでいく。そして自ら生きないという選択をしてしまう…
 彼が最後に残したその絵は正に「旅立つ家族」であり、彼の心にあった家族の形であった。彼のそばには最愛の妻と子供達がいる。彼の絵の原点であったウシもいる。花が咲いている。そこら中に笑顔があり、笑い声が響いてくるようだ…日本と韓国の間に国交が樹立していたなら、もっと違った家族の形になり、彼の描く絵ももっともっと多く残されていたであろうし、優しさにあふれたものになっていたことだろう。

実話だったのですね。奥さんは2022年に亡くなったと知りました。死んでから評価が上がるなんて本当に典型的過ぎる作家で、悲しみを誘いますね。
 演劇自体は意外に歌も多くて、プロジェクターなども上手く使って背景を描写してくれたのでわかりやすかったです。

画家の話でもあるので、絵を観たい思いもあり、でもこの作品はそれ以上に、あるシーンは迫力があり、あるシーンは楽しくなれるシーンもありました。ただ、その感動よりも後半の多くの台詞に感動していきました。
 私は、昔京都大阪で結婚式の仕事に関わっていたこともあり、韓国式の結婚式をよく見ていたので今回の例会は特に考えさせられました。日本に住む韓国人は多く、日本で学んだ韓国人が日本人と結婚をすることは多々ありました。(ただ、単純に日本で学んだと書きましたが、この韓国人とは何世までをいうのか、日本国籍を持っていたら日本人なのか、いろいろ考えてしまいますが、そのことは触れずにおきます)今でも国際結婚は少なくないと思いますが、この頃は非常に難しく生死をかけたことだったと感じました。
 困難な状況でも家族と一緒にいたい、死ぬまで家族の事を思っていたイ・ジュンソプの心の底から絞り出す台詞が非常に視覚的にも、聴覚的にも私の胸に刺さりました。

最初の躍動感あふれる2頭の牛の場面でとても圧倒されました。複雑な時代背景の中でも、二人の愛を貫く姿に感動し、韓国での結婚式がとても可愛く、チマチョゴリが色鮮やかでこの劇で花を添えていると思いました。時代は戦争という名のもとに翻弄されていく主人公達。今のウクライナに思いを馳せるのは私だけでしょうか? 最後の場面でイ・ジュンソプが生きることを諦めてしまっているように思います。どのようなことがあっても、たとえ作品が永遠に生き続けたとしても、芸術に心奪われたとしても、生きて生きざまを子供達の為に見せてあげてほしかったと思います。

劇団文化座公演、「旅立つ家族」を観ました。事前にあらすじは聞いてはいましたが、劇団の若い方の機敏な仕草、あふれ出るパワー、またこれとは対照的に、語りの山本方子さん役の佐々木愛さんの上品な語り口、表情など、2時間半、あっという間に過ぎてしまいました。当日は担当サークルだったため、前方の席ではっきりよく見えたのと、最後のアンコール挨拶で、多くの方と一緒にポンポン振りで会場と劇団の方を盛り上げましたが、団員の方々の本当にうれしそうな笑顔をみてこちらもうれしくなりました。
 この物語を観た後、パソコン検索でキーワード「画家 国際結婚 戦争 不遇の死」と入力すると、かなり上位に「[寄稿]難民画家、李仲燮」という項目がヒットしました。東京経済大学教授の徐京植(ソ・ギョンシク)さんの2016年の投稿です。読んでみると本公演の実際の経緯が書かれていて、大変参考となり、また、以下の文章に、なるほど!と思った次第です。
 「李仲燮は、いうならば「難民画家」である。すべてを失って「難民」となりながらも絵を描き続ける、いったい何のためなのか、そもそも人間という存在にとって芸術するという行為は何を意味するのか。そういう問いに私たちを向かい合わせるのが李仲燮だ。」
 素晴らしい舞台でした。

鳴門例会カーテンコール

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nrt-geki@mc.pikara.ne.jp
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