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獅子の見た夢

劇団東演公演

鳴門市民劇9月例会
 2023年9月10日(日)
 感想集


鳴門例会カーテンコール

戦禍の中で「芝居がしたい」と苦悩する演劇人たちの姿がよくわかった。獅子の舞もすばらしかった。

戦時中の殺伐とした雰囲気の中にある本編と何ら変哲のない日常を描く劇中劇のシーンを往復する度、感情が複雑に揺さぶられた。本編の結果を最初に知らされる以上、その時々の緊張感が過不足なく自然と入ってくる。それを味わった上での最終盤の「獅子」。喜怒哀楽に満ちた物語を昇華する素晴らしい演出。

例会(獅子の見た夢)をみる前にNHKの放送番組で戦争中の桜隊の事実を知り余計に役者の演技に感動しました。

演劇作品を観客と共に共有するという夢にむかってがんばる日々、演者の家族が病気とか財政収入が少なくて生活が苦しくなりましたが、生活しづらく苦しい中仲間がいるから頑張れる。夢があるから頑張れる。俳優一人一人のセリフに熱がこもってて、すごく心に伝わるものがある。この「獅子の見た夢」を観て、先に生まれた先人たちの思いを見て、演劇を通じて知ることが出来てよかった。

今回、2階での観劇となる、ひとり、声が聴き取りにくい方がいた。体調は大丈夫かと心配になった。
 現実の話は、悲惨だが、この劇はストーリーがわかりやすく当時の俳優たちの思いにも寄り添えてよかった。

私にとって、演劇は観るもので、演じる人達の「芝居がしたい」という、突き上げてくる様なパワーは分からない。
 芝居をどうしてもしたいために、様々な障害を乗り越えた結果広島を選んでしまう。しかし、その人達が現代に生きていたならどんなに自由に芝居ができたかと思うと残念だし、今の彼等を是非観たいと思う。

「獅子」の劇中劇を通して観てみたい。
 最後のお父さん(丸山定夫)のセリフ。娘に対して「自分の好きなように生きろ!!」心にささった。
 しあわせ=普通に生きる。を否定する「戦争」は絶対に起こしたらいけないと思う。

偶数月に行われている「ねんまる祭」で9月例会の台本を読むという体験をさせていただいた。見学のつもりでいたが急遽参加することになり、3班に分かれてそれぞれの役を担当し、なれない台本読みをした。そうすると9月例会で自分の担当した役者さんが実際にどのように演じられているのかが気になり、あわぎんホールと藍住ホールで2回観させていただいた。当たり前のことだがプロの俳優さんとは比べようもなく、改めて役者さんのすごさが分かり、いい体験ができたと思わせてくれた。
 劇中で三好十郎役の星野真広さんが演技指導するシーンは、とても迫力があり引き込まれた。「人間一生の一大事の時は思い切って崖から飛び降りる気で自分のホントにしたいようにせにゃいかんぞ」この言葉は、何かを決断する時に後押ししてくれそうな文言だ。戦火の中でも演劇に命を燃やし、そしてあえなく命を落とした新劇人たちのことを思うと、今、こうして市民劇場という形で私達は感動や勇気を生きるヒントをいただいている舞台を楽しみに観劇できる事はとてもありがたい事だと思った。

戦禍の中、お芝居を続けるという大変さを目の当たりにし、それでも演じ続けたいという情熱がひしひしと伝わり、とても感動しました。
 最後の獅子の舞が今後の演劇の行く末を祈っているようで胸が熱くなりました。

とにかく、重くよく分からなかった。というのが率直な感想です。ただ、ものすごくお芝居を演じたかった!との思いは痛いほどよく伝わってきました。

自分のやりたい事をして一生懸命に生きようとしても時代により、また運命により叶わぬことがある。これからの世界情勢で平和が守られ、私達の夢がかなった生活が出来るのだろうか。

戦時中でも芝居をしたくて、考えて工夫をして演劇に命をかけていた人たちがいた。
 その事を知ってもらいたくて、この作品を作ったのでしょうが、苦労ばかり強調されて観劇後は暗い気持ちばかりでした。その時代でも明るい出来事はなかったのでしょうか?

始めて観ましたが役者さんの声がよく聞こえてびっくりしました。発声練習をよくしているのだろうなと思いました。
 「演劇をやりたい」という心情がよくわかり、ぶれない芯が通っている気持ちを感じました。

戦時中の雰囲気が強く表現されていてステージ全体が活気にあふれていた。終盤では広島の原爆の様子もうかがえて演出者の演技振りはとても良かった。感動する場面も沢山あった。良作だった。

「獅子」の見た夢は、平和であり、自由な言論が出来る世の中で、個々が見るそれぞれの夢を叶えるべく前を向いて行動できる世の中が来ることなのかなと、劇中劇の言葉や戦時下であっても夢を諦めずにやりたいことを貫いたさくら隊の言動から、そのように思いました。 コロナ禍において行動の自由を奪われていたのは最近のこと。世界のあちこちでの紛争による人の移動や物流の制限など、世界が小さくなった今、バタフライエフェクトのように世界の反対側の国の出来事が日本の私達にも影響を与えるこの頃。
 どのような状況下であったとしても、何かを成し遂げたい時には、行動あるのみだなと思うと共に、何事もなく夢を追いかけられる現状のありがたさを感謝しながら、だからこその行動を起こさないといけませんね。

戦時下にあっても、芝居をし続けたいと願い、演じ続けた人たちがいた。願ってはいても、芝居を続けることが叶わなかった人たちもいたが、覚悟をもってやりたいことを貫き通すことがいかに難しいことだったか、想像することはとても難しいし、自分にはとてもできそうもないことだと感じた。
 今の時代は、戦時中と比べると自由を束縛するものは少ないはずなのに、本当にやりたいことを信念をもってやり続けることは、難しい。そう思うと、さくら隊の方たちの演じたいと願い、一途に演り続けたことのすごさを思い知る。 戦争の悲劇の描き方は、本当に様々あり、いろんなことを考えるきっかけになる。演劇人が中心になった話を観たのは初めてだったが、素晴らしい作品だった。

とても考えさせられるお話でした。純度の高い志が人を生かしも殺しもするのだなあと…。

戦時下の世の中というのがどういうものか、それはきっと想像を絶するものではないかと思う。 どんな生活をしていたか、仕事は、収入や生活の糧は・・ そんな中で演劇を鑑賞したりする事もできたのか、という別の驚きを感じました。

鳴門例会カーテンコール

この作品を簡単に説明するには「戦禍という苦境にあっても夢をあきらめなかった人たちの話」であり「哀しい運命をたどった人たちを観て平和や自由のありがたさを感じ取る話」というしかないかもしれないのだが…。そんな説明では到底語り尽くせないほどたくさんの宝が散りばめられている作品だと思った。そしてここが大事なのだが、なんら重苦しかったり教条的だったりすることなく、私たちの前に心に残る台詞や場面がサラッと何気なく提供されたところが、この作品を一層魅力的なものにしていたと思う。
 確かに大きな括りでは苦楽座のひとたちは「芝居をやりたい、夢をあきらめない」ある意味立派な志を持つ人たち…であったのだが、丸山定夫然り、個の中にもまた集団の中にも、普通の葛藤はものすごくあって、悩んで悩んで議論して議論して、時には間違いもあったり回り道をたどったり…が人間らしく描かれていた。途中で抜けた人もいれば、最終的には意見が異なり去っていった人もいる。そういうのも当然のことだから、こんな非日常の窮地にあっては「何が正解か(正解だったか)」なんて本当にわからないだろう。それでも、議論して決めたあとは、スッキリ。皆が励まし合って笑顔で(「反省会」の場面は特に大好き!)おしゃべりする、そういう創り方は史実を忘れてしまうほど、私たち観客に温かいものをくれた。
 数ある心に残るシーンの中で、今ひとつだけ挙げるとしたら、男女そろって役者さん皆で夜空をみながら「反省会」をするシーン。誰かが、アメリカ人もお月見するんだろうかと言い、誰かが、そりゃするでしょう、同じ人間なんだから…的なことを返す。そして敵も味方もなく、みな同じ人間、想像力を働かせましょう、それが演劇の力でしょう、という台詞。連綿と続く世界のどこかでの戦争を、演劇や文化は決して直接止めることはできないけども、それでも、ひとりひとりが、演劇文化に関わることで想像力をより育て、こういう作品を観て自分の頭で考えてものを言えるように少しでもなっていけば、それはいつか大きな力になるのではないかと改めて信じてみたいと思わせてくれるような、まさに今に通じるメッセージを感じた。
 劇団・役者さんに加え、原作の堀川惠子さん、脚本のシライケイタさん、演出の松本祐子さんすべてに、こんな素晴らしい作品に仕上げられたことに感謝し、拍手を送りたい。

戦争の中での移動演劇を継続した演劇人の感情が伝わりました。今の日本で生活できるありがたさを痛感しました。

今回の観劇(獅子の見た夢)の前半部を観終わった段階での私の率直な感想・印象は、「えぇ~っ?この劇ってこんな展開のお芝居なの?観る前に思ってたんと全然違うじゃないか!」というものでした。というのも、今回の観劇に関しては私にとっての担当例会という事で、事前の運営委員会等で「移動演劇『桜隊』」での劇団員の人物背景や広島で被爆した等々の詳細な説明を受けていたからです。そんな十分過ぎるほどの詳細な事前情報(予備知識)を得ていたがゆえに、その情報に私の考えが引きずられて、偏った先入観で観劇に臨んだのが一番の要因かと思います。ですから、その事前情報から私自身が一人芝居で膨らませた妄想(?)と、実際に劇が始まってから舞台上の役者たちが織りなす演技との落差に正直言って戸惑いを隠すことが出来ずに第一幕を観終わってしまったという状況下でした。いわば、相撲技でいうところの「肩透かし」を食らったような心境とも言うべきでしょうか? ところで、事前情報から私が勝手に思い描いていた上演内容を簡単に説明すると、広島への原爆投下によってたまたま広島で上演していた劇団員が不幸に見舞われるというもので、その際にチョッとした行動の違いが生んだ「運」が生死を分けたという悲惨な内容のお芝居かと想像していました。ですが、目の前で演じられる内容は、私が勝手に想像していたものとは全くかけ離れた内容展開で、リアリティを持って戦争の悲惨さを訴えるものではありませんでした。それでも、戦争によって愛する人との離別や逢いたいのに逢いに行けないもどかしさは、十分に演じられていて、少なくともその演技から私自身もそんな情景を感じ取ることは出来ました。
 その後、私が勝手に抱いていた舞台内容と目の前の演技との落差に戸惑いを受けながらも第一幕が終焉し、中休みを挟んで第二幕へと劇は大きく展開することになりました。
 その第二幕では、徐々に戦争によって不自由を強いられる場面が多く演じられるようになりましたが、それでも私の受ける印象としては、戦争の悲惨さはそれほど強く感じ取ることはありませんでした。これは、本劇中では敢えて戦争の悲惨さを前面に押し出すことなく、むしろ抑え気味に演出することで、それとは別に劇中の各登場人物の日常に主眼を置いて描いていた結果なのかも知れないと私は捉えました。
 さて、今回の観劇の主題とも言うべき「人はなぜ戦争をするのか?」あるいは「平和とは何か?」を考える上で、現在進行形でロシアとウクライナ間で繰り広げられている「戦争(ロシアによるウクライナ侵攻)」についての言及を避けて通るわけにはいかないと思います。
 まず、戦争によって甚大な被害を受けて、それに伴う苦しさを被るのは、やはり市井の人々や戦場に駆り出された最前線の兵士たちではないかと思います。
 一方、国の指導者、あるいは政府の高官や軍の司令部等々の面々は、部下たちに指示あるいは命令を下すだけで、己自身らは常に安全地帯から世の中を争いの渦に巻き込んでいる許し難い存在なのではないかと私は考えます。そんな本来は国民の一員でもある国の指導者らが抱く歪んだ思想や強欲によって、残りの国民全体が悲惨な状況下に追い込まれるのが「戦争」ではないかと私は考えるのです。事実、かの「ウクライナ侵攻」は、ロシアの大統領一個人を主とする歪んだ偏狭な思想に起因するのは、火を見るよりも明らかではないかと思います。このように、「戦争」とは一部の国家の指導者の歪んだ考えや思想が引き起こし、その他の自国民や他国民が悲惨な目に遭わされるという一国の指導者の理不尽極まりない行いの結果ではないでしょうか。
 他方、「戦争」とは対極にあたる「平和」について、私なりに考えたところを紹介したいと思います。私の考えるところでの「平和」とは、今回の劇中でも表現されていたかと思いますが、何と言っても「自由」ではないでしょうか。その「自由」には色んな「自由」があるかと思いますが、劇中での役者のセリフにもあったように「表現の自由」もその一つかと思います。さらには、「思うことの自由(思想の自由)」「移動の自由」「言論の自由」等々、数限りない「自由」が挙げられると思います。そのうえで、私自身が考える「究極の自由」は「生きる自由(生存の自由)」なのだと思います。そして、それらかけがえのない「自由」が、ひとたび戦争が始まると無残にも踏みにじられ、私たちの手から奪われてしまいます。また、コロナ禍で以前にも増してより顕在化した「同調圧力」には、先の戦中下でもあったように、市井の民である我々自身の自らの手で互いの自由を奪い合ってしまうという洗脳にも似た精神状態に陥る危険性が濃厚でもあります。このような精神状態に陥った人々は「自らの頭で考える自由」を奪われた人間になり果てた姿なのだと思います。そして、そのことで国の指導者のみならず、戦争によって「自由」を奪われた国民自らも戦争に加担するという方向に導かれてしまうのは、なんとも皮肉な事ではないでしょうか。 このように、「戦争」は人々の精神状態に変容をもたらし、後戻りできない状況へと突き進み、その結果として人々から全ての「自由」を奪い去るものであるのです。ですから、「戦争」とは決してそこへは踏み入ってはいけない領域なのだと、今回の観劇から私自身が改めて強く認識するに至りました。 最後に、日本に生まれた者として普段意識せずに手にしている「自由」というものが、「戦争」によっていとも簡単に奪われてしまうという歴史を、今回の観劇を通じて改めて思い起こす契機になったことに感謝して、この感想文の結びとします。

始まりが単調な感じで進み少し眠気に襲われたけど、途中の獅子の舞がすばらしかった。戦時下の悲哀が程よく感じられ、芝居に対しての情熱の迸りを強く演じられていた。ラストの獅子の舞は最高!迫りくる迫力と物語の中に自分を置いて、愛と哀を感じ不覚にも涙が出た。

戦禍の中でという内容は苦手で、やはり辛く苦しい思いをしてしまいます。最後に獅子を舞う丸山定夫さんの姿に涙し、みなさんどんなにか生きて好きな芝居をしたかったことだろうと、お芝居に入り込んでしまいました。
 今回すごく近いところで観ることができ、役者さんの熱量をすごく感じることができました。

運営サークルだったので前から2番目の特別席で観ることができ、役者さんの熱演に魅了されました。

戦争に振り回された、悲しいお話でしたね。心に沁みます。
 ただ、改めて考えると、悲劇だけを伝えたかった訳ではなく、演劇に対する情熱、やり遂げる熱い思いなどを表現したかった作品だなという感想も持ちました。

舞台劇を観るのは初めてでしたが、役者さんがすごく近くて迫力がありました。
 最後は泣かせるのかと思いましたが、そうではなくてよかったです。
 丸山定夫さんのファンになりました。

ただ「演劇をしたい!」それだけのことが難しい時代、様々な非難も受けたと思われますが、決して流されずに演劇という文化を絶やさないという意志を貫いた桜隊。
 色々な葛藤がある中でも演劇に真っすぐに取り組む前向きな姿に力をもらいました。
 桜隊の奪われた未来を思うと胸が苦しくなりますが、悲観的ではなく戦争というものの残酷さを改めて考える機会となりました。
 演じている皆様の明るい笑顔や真剣な眼差しに惹き込まれ、そして考えさせられる素敵な劇でした。

大変素晴らしかったと思います(号泣できました)。三好と彰子(あやこ)の役者さんが特に素晴らしいと思いました。
 今までの舞台の中で、私の中のBest3に入る作品でした!

長い人類の歴史の中でも、また只今/現在の世界を見渡しても、ごくごく稀な/例外的な環境(秩序ある平和な世界を信じる戦後の日本)に生まれ「今日と同じ明日がやってくる、安心できる社会」が当たり前として生きている私の世代では実感/知ることもできないテーマでしたね。
 この演劇の最初と最後の重なるシーン。何が怖いかといえば、思い出に囚われたままの人の心は、先へ進むことはできず、決して戻ることのない過去を前に、ただ立ちつくして、どうしようもなく恋着し続けている“死にとりつかれた人の心”が伝わってくること。 だから見ている側も身がすくむ。
 それにしても、その死の、なんと甘美なことか。
 「・・人間五十年、下天の内くらぶれば、夢まぼろしのごとくなり。ひとたび生を受け、滅せぬ者あるべきか・・」を信長時代の詩/舞として、なんとなく知ってはいるものの・・
 先の大戦後の「世の中、理不尽なことだらけ」という不公正世界信念の中で・・、幸せということばに「仕合せ」という文字をあてみると、めぐりあわせ/宿命では、ほんの一瞬の、そのときだけの幸福感。それでいいのか、悪いのかではなくて、守ろうとして守れないのが幸せ/仕合せではないのかなぁ・・。 ”胸を前に突き出しあごをあげて上をみると景色が違う”とも言われているので、この人たちはある意味とても幸せだったのでしょうねぇ。俯いていても志は転がってはいないのでしょうから・・。
 広島行きを躊躇していたというところに、“この時代の誰もがいつかは自分も/自分のところも・・”との思いがあったことに、改めて気付かされて・・。
 この大戦中のユダヤ人大虐殺で訴追され/その裁判で、アイヒマンは「私はただ上官の命令に従っただけ・・」と・・、これは単なる責任逃れの言葉というのが一般的/正義(?)だとしても・・、ごくごく一般的な市民でも同じような状況に置かれたら「上官の命令に従って・・」の「権威への服従」があるのでは・・。
 この演劇の設定状況下での、非戦闘員/一般市民を標的とした終戦間近の都市空襲/焦土作戦(?)も、ピカドンによる無差別大虐殺も、まさにそうだったのではとも・・。 そしてたった今、世界で進行中の数多の国際的な諍いの状況も・・、と気づかされても、説明もできない/正解もなくてどうしようもない・・。
 なんだかんだといっても、みな立場が変われば同じことする、この国の人はこれまで大きな違いがないように同じ考え、同じ想い、同じ仕種をするように教育/仕向けられて、それを好んだのでは?・・、とねぇ。
 自分の“気づき”に、迷路に入ってしまい気が滅入ってしまったので、気分を変えましょう。
 劇中劇の中での“百回繰り返せ・・”の台詞で・・、
 「なにごとも、同じ動作を百遍くり返すと新しい発見がある」と言われていても、それは数多く繰り返し続けるのではなくて(数多くでも沢山でもなく)、ただただ百遍カウントすることに奥義があるのではと・・。
 またも“百遍読めということと、憶えることは違うのだ”と気づいてしまった。
 (あるところまで走りこむとジョギングハイになるという。脳からドーパミンとかいうのが分泌されて、自分の力を越えた何かが生まれる。神がかりとも、火事場のバカぢからとも・・。とにかく、百二十パーセントの素地ができてくるものらしい)
 諳んじるまで憶えると、台本を読むことも止めてしまうでしょう(これでは役者は二流止まりに)。
 そして厄介なことに、すべて(演者や裏方)が何ひとつ問題なく出来れば、それでOKというのではなくて、観劇している客が納得するかどうかが、最も大切だということ。 客を喜ばせるには、各々やり方が異なるハズで、ある役者は“巧い”と思わせようとするだろうし、全体の調和を第一にと考える役者もいるハズで、これだけでも目的とする方向は異なる・・。
 “脚本、演出、そしてチャンスの三つ”の条件がそろわなければ、役者は仕事にならないでしょうし、また「いくら名優と言われようが、仕事がなければただの人」と喝破した人(永六輔)もいる。
 「役者殺すにゃ刃物はいらぬ。ものの三度もほめりゃいい」。と“役者の敵”を唄った都々逸も・・。
 つまるところ、役がなければ仕事にあぶれるわ、ズブの素人を納得させて安直な拍手に舞い上がってもいけないし、難しい稼業ですねぇ、劇団を運営するというのは。
 そして、欲というものが各々の心の内に芽生えてくる。利害損失を計算し始め、傲慢、嫉妬、猜疑・・・といった煩悩が生じると、結果として舞台は失敗に終わりかねない。
 演劇を志し、継続し続けるということは、本当に大変だなぁ・・。

大変感激して鳥肌が立ちました。来年度もこんな劇に出会えたらいいですけどね。

私にはもし死ぬことになったとしても貫きたい思いってあるんかなぁと思って、ないなぁ…とまあまあ凹みました。すごいなぁと思うけど、どこか冷めた自分もいて、そこにも…。

開演前にインタビューで丸山定夫役の南保さんより、同じ役者だが演じるタイプが自分と違う役を演じる苦労を聞いていたので、どう演じるのか興味を持って観ていた。それが始まるとそこにはカッコイイ南保さんではなく、丸山定夫がいて役者の凄さを感じた。また、2幕後半に向けてどんどん感情のこもった台詞。歌も同様で、2階席での鑑賞だったが声の迫力に圧倒され、感動した。また獅子のさばきがかっこよくて、幼少より獅子舞いファンとしても満足。

戦争の恐ろしさ、平和の尊さを伝えていく、戦争の記憶を風化させないことは現代の普遍的なテーマです。例えば戦争の悲惨な映像を見たり体験談を聞くことは大切なことで、そのような体験はしておくべきですが、一方で、そのことを何度も繰り返し見たり聞いたりしたいかというと、頭ではわかっていてもそう思い続けるのは難しい。
 「獅子の見た夢」は何度も作品紹介を聞いて、あらすじはほとんど正確に事前にわかってしまったし、前述のような理由で、本当に舞台を楽しめるのか、心が動くのか、観劇する前までは、気分としてはそれほど前向きではありませんでした。  舞台の上にあったのは、困難な時代にありながら強い信念に生きる人たちの姿でした。彼ら、彼女らの前向きな姿を見てなぜ涙が出たのでしょう。戦争が奪っていったもの、戦争であっても奪うことができなかったものを想い、理屈ではなく強く心が動かされました。よい舞台を観せてもらいました。

太平洋戦争の最中、表現の自由を奪われ、制限の多い中にあっても明日を夢見て、芝居をやり続けようとした新劇人たちの物語。俳優・丸山定夫(ガンさん)は、八田元夫を苦楽座の演出家として一緒に芝居をやろうと土下座までして説得する。演目は劇作家・三好十郎の『獅子』(劇中、八田はこの作品について、戦時下の戦争に協力する日本人の本物と嘘、人間の真実を描き出そうとしていると言い、その真実の追究のためには戦時下の最高の道徳とされる「親」をも捨ててゆくという行為の中にこそ人間の本当の美しさがあることに主題を置いていると述べている)。米軍による本土空襲が始まり、戦局が厳しくなる中、好きな芝居を続けるために苦楽座も国策演劇団体である日本移動演劇連盟に参加する。やがて、『獅子』の芝居稽古が進む中、劇団疎開の話が舞い込む。行く先は広島。苦楽座は「桜隊」に名前を変え運命の日に向かっていった・・・。
 舞台は、終戦直後の三好十郎の部屋を八田が訪れ、まずい酒を酌み交わしながらガンさんを回想する場面から始まり、戦時下の苦楽座の稽古場の場面、そして、『獅子』のお雪役として劇団の一員となる森下彰子が戦地の夫へ語りかけるように手紙を読みあげる場面と続いていくが、印象に残ったのは、稽古場近くの公園で月明かりの下、旨い酒を飲みながら語る場面。第1幕の終わりは、ガンさん、八田、薄田(トウさん)の3人が偶然に森下彰子と出会い、第2幕の中盤では、園井恵子と森下彰子が広島行きの決心を語る重要なシーンとなっている。この作品は広島で原爆投下により命を落とした悲劇ではなく、運命のその日まで明日を夢見て精一杯に生きたガンさんを始めとする劇団員たちの生き様を描いたものだと思う。終盤の劇中劇で、お雪の父親吉春役のガンさんの「人間一生一大事の時は、自分がホントに正直に、したいと思うことを思い切ってやらなきゃならんぞ!」と言った叫びが心に染みいりました。

鳴門例会カーテンコール

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