青年劇場公演「星をかすめる風」鳴門例会(2024年3月23日)で“尹東柱”役をされる矢野貴大さんを開演前の楽屋に訪ね鳴門市民劇場がインタビューしました。
鳴門市民劇場(以下鳴門と略)
作品「星をかすめる風」について
回想シーンでユン・ドンジュと看守杉山との会話が描かれていますが、どのような気持ちで演じられていますか。
矢野貴大(敬称略 以下矢野と略)
この劇の一番のトピックスですね。
暴力看守杉山さんは福岡刑務所の中でユン・ドンジュと出会うことでどんどん変化していくんですね。舞台の中では私と杉山さんとのシーンが大きく4つあります。最初は、暴力看守杉山との出会い、次は、検閲官杉山と出会う。
そこから彼がユン・ドンジュの詩とか言葉に出会うことで感銘を受けて、どんどん変化していくというのがこの劇の大きな注目ポイントなんです。
俳優矢野としては、杉山が変化していくことは台本で知って演じている訳です。これまでに出会った日本人の看守とは違うんですね。自分が書いた詩のことにも興味を持ってくれるというところにユン・ドンジュ自身驚きながら、杉山さんの変化と同時に、ユン・ドンジュも変化していっているということを忘れないようにしています。俳優矢野の心持ちとしては、詩人としての詩の力とか言葉の使い方とか、どんな態度で接したら彼は変わっていくのだろうかということを、心掛けて演じているつもりです。
鳴門 韓国語で詩を読み上げるところで苦労されたことなどあれば教えて下さい。
矢野
僕は大阪出身なんですが東京に出て言われたのが無声化、無声化は息で言うんですよね。これは凄く難しくて未だに先輩から全然できてないよと言われるんです。
そんな日本語もおぼつかない私がですね、韓国語をやるとなったときに、これはえらいことだと。実際には在日韓国籍3世であり俳優でもあるみょんふぁ(洪明花)さんに、2020年の初演のときにマンツーマンで教えていただきました。それで、今回も再演するにあたりもう一度久しぶりにお会いして、レッスンを受けました。
一度忘れちゃうと大変なので、忘れないように一日1回はお風呂で言ったりしてて、2023年に久しぶりにみょんふぁさんにお会いして、「私は忘れないようにずっとやってきました。聞いてください」と言って、「じゃあ、久しぶりに聞かせてもらいましょう。どうぞ。」となり、読んだんです。「全然だめ、でも矢野さん安心して下さい。初演の時もできていたわけではないので」(笑)と大変厳しい指導のもとでの再演でした。毎週木曜日にやっているテレビの韓国語講座を見たり、毎日聞いてみたりしています。この芝居が終わるまでこれは続きますね。
鳴門 戦時中の治安維持法下での様々なひずみ(朝鮮人への迫害、思想弾圧、人体実験など)を描いた作品でもあると思いますが、この作品を上演する意味を教えて下さい。
矢野
以前に「族譜」という作品でこちらを回らせていただきました。青年劇場は日韓の戦争を描いた作品では、日本の加害に焦点を当てることをずっと続けています。僕なんかも劇団に入って19年目になりますが、自分がその作品を語ることが求められますから、その都度ポイントポイントでこういう問題の勉強をせざるを得ないということはあります。
青年劇場は作品を創るときに創作劇が多いんですね。その時代に合った問題を取り上げて、いろんな困難を抱えている人達に寄り添えるような作品を創ることを考えていて、いかにタイムリーであるかが重要なんですね。わかりやすく言うと、学校公演で昔、「翼をください」を上演しましたが、今の子供たちの状況にあっているかというと、ちょっと違う所もあると思うんですよね。学校公演においては、その都度、そのタイミングで子供たちがどんな困難を抱えているかというところを学び、タイムリーであるということが重要なんです。
日韓の問題というのは、日本と韓国が政治で冷え込んでいる限り、いつまでもタイムリーにならざるを得ない作品だと思うんですよね。20年に初演、昨年23年に再演を東京でして、回らせて貰っているんですけど、昨年が関東大震災から100年で、さまざまなイベントと一緒に共同で取り組んだりもしました。ではこの20年から23年の間に何があったか。21年に京都ウトロ地区で、在日の方たちのコミュニティに日本人の青年が放火する事件がありました。22年には埼京線の車内で、日本人の男性が朝鮮学校に通っている中学生の男の子の足を踏んづけて、「ミサイルを飛ばしている国が高校無償化などと言ってるんじゃない」と言った。僕たちと同じ日本人がそんなことをやっているんですよ。そんなことを考えると、僕たち青年劇場としては取り上げざるをえないし、韓国の作家 イ・ジョンミョンさんがこの作品で書いてくれているのは、当時の帝国主義の日本人看守と韓国の青年が出会い友情を育んでいくというファンタジーであるかもしれないが、そうあって欲しいという願いが込められている作品だと思うんですよね。韓国の作家が書いてくれている、じゃあ、僕たちはそれを受け取ってどうするかを考えたときに、より多くの日本人の方に観ていただきたいですし、伝えたいです。
作家のシライケイタさんと話していて、「日本語の上手な韓国の俳優はいっぱいいるんだ。その人間を連れてきて演ったほうがうまいかもしれない。でも違うんだ。日本人のあなたの身体を通して、この韓国語が出るということが重要なんだ」ということを言ってくれて、なるほどと、それは重要なことなんだと思った。
今だからこそ届けたいというのが、私の一番の想いです。
鳴門 昨年、徳島北高校で公演されましたが、その時の様子や印象を教えて下さい。
矢野
「きみはいくさに征ったけれど」という作品で、その時竹内浩三という詩人の役でした。ユン・ドンジュが亡くなったのが45年の2月16日で、竹内浩三は正確には分かっていないのですが、45年の1月にフィリピンで亡くなったそうです。
あの時は放送部の生徒が中心で、その中にずっと最後まで黙っていたバドミントン部の男の子が質問コーナーの時に手を挙げたんです。劇中で竹内浩三が片思いしている「おけいさん」という女の子に、勇気をもって告白するシーンがあるんですが、それを見て、その子が最後に「質問ではないですが、矢野さんが竹内浩三で勇気を出して告白してたように、僕も告白したいと思います。」と言ったことが一番印象に残っています。他の質問は忘れました。(笑) ずっと静かにしていた子で、座談会が終わって僕らが片づけて帰る頃に、バドミントン部で練習していた彼が、凄く元気に「ありがとうございました」と手を振って言ってくれました。体育館での公演で、ずっと集中して観てくれましたよね。コロナ禍なので、徳島北高校もマスクをしていて笑い声や反応とかはコロナ前と違っていました。後から感想を聞くと「面白かった」と言ってくれるのですが、舞台上にいると全然反応が分からなくて「今日もヤバイな」と思ったりしましたが、集中し観てくれていました。
座談会が僕たちとしては面白いですよね。生の感想が聞けるし、僕たち作り手が想像している以上のものを、感受性が豊かなのでいろんなものを受け取ってくれているようで、本当に楽しかったです。
今日の舞台に、あの時の公演に出ていた教師たちや舞台監督・スタッフも囚人で出ています。
鳴門 青年劇場には2006年に入団されていますが、この世界に入られたきっかけを教えて下さい。
矢野
僕は大阪出身で、お笑いが大好きで、吉本の芸人になることを小学6年生の時にはもう決めていたんです。高校3年になりで周りが進学をどうしようかいう時に、僕は決めていたので何一つ焦ることがなかったんです。決めていた通り吉本興業に入って、2年間養成所に入ってお笑いのコンテストを受けながら過ごしたんですが、その2年間で自分にはお笑いの才能がないことに気づいたんです。
丁度その頃に吉本興業でいろんなお世話をしてくれる担当の女性から「私の知り合いで小劇場やってる人がいて、役者が一人足りないと言っている。もし興味があったらちょっと見学に来ない?」と言われたので「興味があるので行きます」と2~3時間稽古を見たんです。「ラマンチャの男」の稽古をやっていました。凄く面白かったんですよ。帰ろうとしたら、「矢野君、待って待って。ご覧の通り役者一人足りないんだけど、もしよかったら出てくれない?」と言われて、お笑いも大分熱が冷めていたので、「じゃあ、是非是非」と、ちょっとやらせてもらったら、凄く面白くて。大阪の小劇場で2年ぐらい活動しました。
どうせやるのであれば東京に挑戦したいと思って、最初に門を叩いたのが俳優座養成所のオーディションでした。それが受かって、2年間養成所で過ごしたんですが、俳優座の芝居と僕のやりたい芝居が当時違ってたんですね。これはここで続けるのはなかなか難しいと。色々な劇団の芝居を観ていた中で、青年劇場の芝居を何本か観ていたんですね。レパートリーでいくと医療問題の「ナース・コール」と「谷間の女たち」、そして、三浦綾子さんの「銃口」という作品を千秋楽に僕が観たんです。「銃口」は、2005年に韓国まで行ってるんですね。韓国で40日間ステージをやって、その千秋楽を日本の池袋でやって、僕はそれをたまたま観にいったんです。芝居は面白かったんですが、最後に北森竜太という青年教師役の船津基さんの挨拶で、「僕たちはこの今の時代にこの作品を上演できることを本当に誇りに思っています。」と言った時に、当時自分の進路に悩んでいた僕は、涙が止まらなかったんです。もうたまらなくて、こんなに自分の作品を愛せるところにいられる俳優は本当に羨ましいと思って感想文を書いたんです。半年後に青年劇場に入ったんですが「俳優座養成所から来た奴が凄い感想文を書いたとあの時話題になったんだけど、矢野君だったのね。」と言われました。(笑)
それで、青年劇場に入ったというのが流れです。
鳴門 仕事以外で好きなこと興味があることを教えて下さい。
矢野
コロナ禍でタップダンスをやってみようと思って通ったんですが、続いていません。半年通ったんですがなかなか通う時間がなくて。
趣味は音楽で、ロック、ジャズ、クラッシック音楽鑑賞が好きです。ライブに行くのも好きで、フジロックフェスティバルは毎年行けるわけではないのですが楽しみにしています。
鳴門 演劇鑑賞会の活動について、また鳴門市民劇場の会員にメッセージをお願いします。
矢野
入団して2年目ぐらいにスタッフと九演連で回っているときに、対面式をやっている九州の会場で、向こうから会員さんが「今、一名増えた」と走ってきたんです。僕らも東京でチケットを売るんですが、僕ら以上に作品を、演劇を愛している人がこんなにいるんだということを、その時に知ったんです。それがとても嬉しかったです。
コロナで一度人と人とのコミュニケーションを絶たれるという期間があったのですが、コロナが今よりも未知なウイルスであった2020年9月にこの芝居を上演して、なんとか誰も感染せずにやり遂げられたんですけど、それでもお客さんが果たして劇場に来るのかとか色んなことを心配しました。紀伊國屋サザンシアターで一個飛ばしの客席にしたのにも関わらず、2000人で満席になったんです。待ってくれている人、楽しみにしてくれている人がいるんだなということをその時実感しました。
鑑賞会と僕たちの取り組みは演劇を通して繋がっていて、車の両輪だと思うんですよね。どっちかが傾いてしまうとまっすぐ進めない。創造団体の私たちと鑑賞会の皆さんと一緒になって前へ進んでいく必要があります。鑑賞会の皆さんが取り組まれている運動は例会の成功に向けての活動ではあると思うのですが、毎回どんな人と繋がっていくかというプロセスが重要になってくると思うんですよね。誰も入ってくれない期間があっても、数年後にちょっと行ってみようかな、というのはこの繋がりやきっかけがあるからこそ大事だと思うんですね。
全く僕らも一緒で、コロナを経験すると皆さんがされている仲間づくり、居場所づくりというのが、これからの時代ますます切実に求められてくると思います。
製作の沼田と話すんですが、「創造は最大の普及」という言葉が青年劇場にあるんです。僕たちはそこに全力で向かっていき「この芝居、良かったね」と思ってもらわないと皆さんの仲間作りの説得力にもならない。僕たちとしては、そこは疎かにできないし、今より少しでもいい未来を一緒に創っていけたらと思っています。