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しゃぼん玉

劇団文化座公演

鳴門市民劇9月例会
 2024年9月11日(水)
 感想集


鳴門例会カーテンコール

椎葉スマ役佐々木愛さんの、「ケラケララッ」の笑い声に救われました。そんなスマ婆さんにして、家族の重荷を抱えていること、那須茂忠役の助言が心に沁みました。
 さてさて、3年後に村に帰ってきた伊豆見くんのその後が気になります(^^,)

佐々木愛さんのパワーあふれる演技が素晴らしかったと思う。今までいろんな役の佐々木さんを観てきたが、今回が最高だった。内容も心温まる話で、今も「坊は、ええ子じゃ」という言葉が頭に残っている。

椎葉村出身の知人がおり、すでに亡くなっているのですが、この知人のことを思い浮かべながら観ました。脚本もとても素晴らしく、笑いあり涙ありでとても良かったです。

誘った方と一緒に観に行ってきました。とても面白かったです。たくさん笑いました。友達もよく笑っていました。笑いの中に影があり、最後には周りの人たちの温かい心に触れて、自分自身で解決へとたどり着く。ただ面白かっただけでなく、観た後、温かい気持ちになりました。

どうしようもない程の悪事を重ねた人間でも、ちょっとしたきっかけで人間らしく変わっていくのだという、あたたかい眼で人間を見つめる作品でした。どの役者さんの演技にも“心”が感じられ、良かったです。

偶然出会った青年、私であれば、どんな人なのか色々聞いてみたいところですが、オバァは何も聞かず自宅に案内し共に暮らすという選択をするところから、人と人の関わりについて考えさせられました。
 青年は、これまで経験したことのない人間関係の中で、自らを振り返り、新たな自分を生き直すという素晴らしいストーリーでした。 佐々木愛さんのオバァ素晴らしい‼

どこかに着地しようとすれば割れてしまう。誰かに触れれば壊れて消えてしまう。
 しゃぼん玉のような存在の青年が、スマばあさんをはじめ椎葉村の人々との触れ合いの中で、しゃぼん玉ではなくなっていく。とても良いストーリーの劇でした。特にオートバイに乗って出てくるスマばあさんにはとても驚きました。会場全体がうわーとわきました。
 また、舞台にも工夫があり、壁の開閉により舞台が変わり、壁に現実の映像が映し出されるなど、とても見やすい舞台でした。

最初から最後まで、めちゃ面白かったです!スマばあもシゲじいも、近所のおばちゃんトリオも最高でした。
 坊も最初からこのような環境で育っていれば、すさんだ生活をしなくてよかったのに・・・。
 人と人との関わりが、生きていく中で大切なんだと思いました。
 インタビューさせていただいた藤原さんは真摯に答えてくださり、すっかりファンになりました。声がとっても良かったです。
 最後、お見送りの時にお会いできた佐々木愛さん、お肌ツルツルでとても素敵でした。
 また次にお会いできるのが楽しみです。

とても温かく大らかな芝居で心が安らぎました。佐々木愛さんの老婆役、さすがと思われ、全体を引き締めていたように思いました。

あらすじだけ見ると、「孤独」や「強盗殺傷事件」など、とても明るいストーリーにはならないのだろうなと思って観始めましたが、“ばあちゃん”の登場シーンから一気に笑える展開になり、イズミとスマばあちゃんの会話が微笑ましくてほっこりしました。ラストは本当にうれしくて涙がぽろっと出てしまいました。ハッピーエンド最高です。ばあちゃん大好き!


・佐々木愛さんの演じた「ばあちゃん」の強さとやさしさに感動しました。実は私も81歳です。佐々木愛さんは私と同じ81歳とは思えない。スゴイ‼
・年のせいと思われるのですが、演じている俳優さんの声が聞き取りにくくなりました。特に、はじめ。
・今回の作品は、今の若い人の悩みと再生が心にひびきました。良かったです。

あわぎんホールで小6と小4の孫娘と一緒に観劇しました。平日の昼例会は学校があり観劇できないので、今回は汽車で徳島駅に行き、帰りは車で迎えに来てもらいました。汽車に乗る経験のない孫たちは興味津々。私は、青春時代を思い出しながら、窓からの景色を楽しみました。
 孫たちの感想は
・最初はあまり興味がなかったが、面白かった。すさんでいた青年が、たくさんの人の優しさに触れたり、認められ、愛されるようになったことで、よくなっていくというストーリーはわかりやすかった。 また、ところどころ、笑える場面があり、飽きずに見られた。
・自分の家族でないのに、「ずっと待っているよ。」とやさしく何回も言ったところに感動した。
・最終的には、ハッピーエンドで終わってよかった。
・もう一回見てみたい。という感想でした。
 でも、私が一番うれしかった感想は、「あのおばあちゃん90歳過ぎだったので、ばあば(私の事)もそれくらい長生きしてね。」と言ってもらえたことです。
 孫と一緒に観られて良かったです。

人は何度でもやりなおせる。失敗してもそれに気づき軌道修正すればいい。それには周囲の人たちが温かく見守ることが大事で、受け入れる大きな心があれば、人は変わっていけるのかもしれないと思った。小学生から祖父母世代、老若男女関係なく楽しめる人情味あふれる素晴らしい舞台だった。3枚のパネルに映像を映し出し、しゃぼん玉を飛ばすなど、楽しい演出も良かった。泣いて笑って、最後はまた涙腺を刺激された。何度でも観たい舞台に、この作品が加わりそうだ。

荒れた生活をしていた翔人とスマとの出会いは、山中の落ち武者の住む村であった。ここでの村人たちとの暮らしを送る中で、翔人の見失っていた自分の姿を取り戻していく過程で、スマと暮らしていく人道的な生活を描き出した有様に感動した。すばらしい作品である。

「しゃぼん玉」を観終えて、私の心はとても温かい気持ちになりました。物語は、一人の青年と老婆との心の交流を描いたお話で、老婆の温かい思いやりのお陰で、青年は歪んだ心を少しづつ溶かしていくことができたと思います。その過程で、コミカルな場面もあり、思わず笑ったり泣いたりと、構成がとても良かったと思います。
 最近の社会現象は、暗い事件が多く、ニュースで流れていて、本当にがっかりしますが、この物語のように、皆があの老婆のように温かい大きな気持ちで接してやったら、きっと争いの少ない平和な世の中になると思いました。そんな世の中になるよう願っています。

15年ぶりの市民劇場が、この「しゃぼん玉」で本当に良かったです。佐々木愛さんの円熟した演技、藤原章寛さんの鬼気迫る熱演、9名の役者さんの完成度の高さ等、全てに感動。素晴らしい舞台を観劇できて幸せでした。全国の皆さんに是非届けてください。

「あなたはいい子、いい子よ」という言葉が耳から離れません。子育ては「ほめること」からと言いますが、無我夢中の生活の中で、忘れがちでしたね。もう遅いか!(70代)

「しゃぼん玉だよ‼自分は」と自分を卑下して立ち直れないほど悩んでいた青年が、生まれ変わる人生を望んで成功した物語でした。
 青年は山中で怪我をした老女に遭遇したので助けた。その90代の老女は元気になって働くために出かけるので、青年は留守番をし、つくづく自分はしゃぼん玉だと、自分の弱さを意識した。村人が声をかけてくれて、山仕事をするようになってもウキウキできない。それは、かつて強盗傷害事件を起こしてヒッチハイクの逃亡生活を続けた事が忘れられなかったから、罪をつぐなって、ここにもどってこよう・・・。しゃぼん玉ではなくなりたい。そして村人たちと数年後に再開し、この村に再び戻ってこれた。自分はしゃぼん玉ではなくなったと心から思った。
 何か清々しい作品に出合った歓び ‼ 眼の前に壊れないゴム風船が現れました。

ラストのシーンでスマが颯爽とオートバイに乗っている姿に感動し、勇気をいただきました。

今回も見応えがあり、良かったです。1人の青年が出会ったおばあさんや村の人のやさしさにだんだんと気付いていき、心を入れ替える事ができました。これからはまっとうな人生を送る事ができるでしょう。

観終わってホッコリした気持ちになった。昔若い衆がはみ出た悪いことをする不良の噂話、少年院や刑務所で罰を受けたという親達の日常話でしつけられた少年時代が思い出された。懐かしく、いい時代だったなー。
 スマ婆やシゲ爺の演技も頼もしかった。若者の気持ちをよくわかったおしゃべり、しっかり頼れる地に足がついた生き方が、よかった。

劇団文化座公演、「しゃぼん玉」を観ました。
 冒頭の「やさぐれ不良、伊豆見翔人」と「椎葉スマ」との運命的な出会い、辺境・椎葉村の小さな一軒家での「スマの孫」としての奇妙な共同生活、二人とも心の奥には深い闇があるにもかかわらず、スマ婆の割切り、周囲の村人の暖かい対応、特にシゲ爺の見事な応対。 ひとは本能的に自分の「孤立、孤独、さびしさ」を嫌い、他人からの「やさしさ」で人への思いやり、また真のやさしさに変えていき、それに伴う自己肯定感が必須であることをユーモアを交え見事に表現した舞台だった。
 カーテンコールでサークル担当が準備し客席前方で舞上がらせた風船(しゃぼん玉を模した)を出演者と裏方さん全員が、手に持って嬉しそうにしていたのが印象的、また、藤原章寛(伊豆見翔人役)さんが佐々木愛(椎葉スマ役)さんを大先輩として気遣うしぐさが一瞬でしたが見え、好感がもてました。
 素晴らしい舞台でした。


(し)し、死人が出た!え、これって怖い話なの?シャボン玉ってタイトルなのに?全然、合わないじゃん!冒頭でのあの出来事は一体何?私の頭には???が一杯ついた。
(や)やけっぱちになってうろついていた一人の青年が、怪我をした老婆スマと出逢う。その老婆を助けたのがきっかけで、彼女の所に居候することとなった「いずみ」。温かいご飯を食べ、温かいお風呂に入り、温かい布団で眠り、洗濯された清潔な服を身につけることができた。えっ、彼は人殺しなのに??? 「坊ウ、坊ウ」と呼ぶスマ婆の声掛けが心をほっこりさせてくれた。「坊ウはいい子、いい子」と、もうとっくに大人になった「いずみ」の頭をなでるスマ婆。ご近所さんからも、スマを助けた人物であり彼女の孫でもあるということで、温かい言葉と笑顔をいっぱいに浴びていく「いずみ」。怖い顔をしたシゲ爺も、「いずみ」を叱咤激励しながら、人に対する関わり方のコツを、言葉や態度は荒いけれど、それとなく教えていく。今の私達のコミュニティが忘れかけている地域の連帯や、見かけではない心のつながりや安心感の全てがここにはあった。シャボン玉のように壊れやすい心を持った「いずみ」が、生まれて初めて味わう人の優しさや厳しさに触れ、成長していく様を私も一緒に楽しんだ。
(ぼん)ぼんくら、と言う言葉がピッタリだったのは、スマ婆の次男の豊昭。金の無心に来た彼と、スマ婆を大事に思う「いずみ」は口論からつかみ合いの喧嘩に発展。さあ、どうなる、と心を揉んでいるところにシゲ爺が現れ、結局、豊昭はその場を追われるように逃げ帰っていく・・・。憐れな息子。あんなに明るくて気丈なスマ婆にも気がかりなことがあったんだ。子供の育て方って難しいなあと自分の育児を振り返り、スマ婆と一緒に反省。あのあと、本当に心を入れ替え、全うに彼は生きられたのだろうか、、、
(だ)だますつもりはなかったけれど、本当の事を言えず、ずるずると滞在を延ばしていった「いずみ」。しかし、黒木美知と出逢い、恋を知り、偽りの自分ではいられなくなっていく。そして、とうとうスマ婆に本当の事を打ち明ける。物陰からシゲ爺も聞いていた。また戻ってくることを約束して村を出て行く「いずみ」。罪を償い、晴れて伊豆見翔人と名乗れる日が来るように。
(ま)幕と舞台の間を何度も覆う四枚の壁。そしてその真ん中の二枚に映し出されたいろんな色のシャボン玉。その壁は舞台の転換も担っていた。劇団によって、また内容によって、舞台転換のやり方が違うのが面白い。今回の舞台は実際の映像もその壁を上手く使って映し出され、その実際の映像に、今の舞台に出てくる役者も参加して、うまく映像を映し出す。リアル感があって、面白かった。
 椎葉スマ役の佐々木愛さんは、腰が曲がって、行動もゆっくりで、何かやろうとすると、腰に手を当て、「あいたたた!」とそんな言葉が聞こえてきそうなくらいの本物のおばあさんであった。だから、演技が終わった後のカーテンコールで、背筋をすっと伸ばして、私達に90度以上も腰を折って挨拶される姿を見て、やっと我に返った。すごいなあ、俳優さんて!もう何度も、市民劇場で彼女を見ているのにも関わらず、今回の佐々木愛さんにも脱帽だった。ありがとうございました!

鳴門例会カーテンコール

今回の物語では親の愛情を受けずに育った少年が宮崎で出会った老婆を助け、ひょんなことから共に生活を始めたことをきっかけに少年の心の変化を描いたものだった。
 見ず知らずの少年を孫として迎え入れた老婆との生活で少年は仕事をし、人との交流を通じて人の愛情を知り、自分のこれからの道を決めるきっかけとなった。初めはこの世に幻滅し、人を傷つけてしまった少年が見ず知らずの老婆の愛情により更生するのには感動した。環境がその人の人生を左右してしまうことは選びようの無い選択ではあるが、自分を変えるのもまた環境なのだと作品を通じて感じた。そして老婆の愛情は私にとっても懐かしさを感じた。そんな作品であった。

しゃぼん玉は、楽しいお芝居でした。あえて、原作には触れないようにして観劇しましたが、お祭りの情景がリアルな映像で流れる演出が意外でした。無粋な疑問ですが、あの映像がこのお芝居のために撮影されたのかなぁ?などと考えながら観てしまいました。
 また、ラストを観終えて、果たしてクロキミチは罪を償ったと称するイズミの過去を知っても、友達になれるのか?と疑問が湧きました。
 椎葉村に戻ったイズミにクロキミチに対する屈託がないように見えたことに、私は違和感を感じました。

クロキミチさんのこのあとのリアクションが知りたいと思いました。

約2年前に映像で一度観たとき、とにかく佐々木愛さん演じられる“スマばあちゃん”の、高らかな笑い声をもってしての何事も大きく包み込むような大らかな愛情はこの世のすべてを救うのじゃないか!と思ったほど、感動的だった。
 今回、最初に、徳島市民劇場の例会の方を見せていただいたが、そのときは、“シゲじい”が翔人に諭す言葉のひとつひとつが、もう、あったかすぎて(かといって、ベタベタはしていない…なんならゲンコツが出てくるくらいの凛とした、そしてユーモアも忘れない言葉たち)心に染み入った。「世の中、“しょうもないこと”は確かにある」「でもそれと、“どうでもいい”という諦めとは別」は、なにかこの先投げやりになる気分になることがあったら、きっと、思い出したい言葉だ!また、翔人に対して「“ぼう”に必要なのは“ぼうを見てくれる人が居ること”じゃ」とかけた言葉には涙腺がゆるんでしまった。これは…いくつになっても、私も、そういう思い(誰かにみてほしい、誰か大事な人が自分を見ててくれたら気持ちは助かる)ということがあるからだろうというのが後からの自己分析。
 そして、最後に鳴門市民劇場例会を観たときには、どういうわけか“スマばあちゃん”の苦しみの場面が(全体に占める割合はわずかなのに…)波のように心にグッときた。放蕩息子に対して厳しく接し追い返そうとしている中での「母ちゃんが悪かったんじゃ」と絞り出すような一言。カラカラっと血縁なき翔人と付き合い、その中で翔人を立ち直らせていく愛情とは別の、血縁ならではの哀しい性のような愛情の一面であり、こんな風に、人を丁寧に丁寧に描いていることで、この作品は重みが増しているのだと感じた。
 今は、人と人は一定の距離を置く(物理的にも、心情的にも)ことの方が優勢な世の中。そういうことに慣らされている私たちは、きっとこんな前時代の世界に放り込まれたらやっぱりちょっと大変かな(ズケズケとプライバシーに入ってくるひとたち(笑))とも思うけど、こんな物語を観て「やっぱり、いいな」と思えるということは、基本、人間はこういうふれあいを求めてるのかな。
 全編通して泣き笑いの連続。素晴らしい作品でした。

人生にはいくつもの分岐点があり、そこで一度立ち止まり次の道を選択することになる。それが正しかったかどうかわからない。もし違う道を選んでいたとしたら……と考えても、時すでに遅く時間を巻き戻すことは出来ない。だから、何年も経ってから「あ~、やっぱり間違っていたかも……」と思っても、それを打ち消し正当化するようにしている (自分のことです😅)。
 翔人は本当は心の優しい人だったのですね。見た目で人を差別しない、人を疑うことを知らないスマばあちゃんと出会い、翔人の心がだんだんほぐれていく様子がじわじわと心に染みます。
 今の世の中、スマばあちゃんのように心の優しい人もいるのだろうけど、「人を簡単に信じてはいけない。」と孫には教えている。なんて淋しい世の中だろう………。私はスマばあちゃん側の人間でありたいと思う。

言葉だけでは表現仕切れない心の感情を読み取るところに醍醐味を感じました。また、コミカルな演出もあったりと、盛りだくさんな内容で、次の展開、次の展開へと引き込まれていき、2時間半があっという間でした。そして、魔法の言葉をみつけました…「ぼうは、ええ子」

今回の「しゃぼん玉」を観終わって、先ず私としては「何とも言えないほんわかとした温かな心持」を得た感じが強くしました。
 その一方で、いつもの如く事前情報無しに観劇に臨む私としては、今回の演題である「しゃぼん玉」が、如何なる意味合いを持ったものかは、劇が終わりに近づくまで今一つ掴み切れないもどかしさがありました。というのも、劇の途中まで主人公の伊豆見翔人がしきりに「俺はしゃぼん玉のようにパチッと割れてしまうはかない存在」といった風に己自身を憐れみ卑下の塊と化したようなイジケタ態度をとっていました。しかし、そんなひねくれ荒んだ主人公の心根が、裏表のない無償の愛情を与える村人との温かな交流を経ることで、特に老婆(椎葉スマ)との慈愛に満ちた交流を重ねることで、主人公の荒んだ心に潤いがもたらされ、さらに他人に対して心を開くことが出来るまで成長した姿へと変貌を遂げた心の変遷を見るにつけ、主人公が当初抱いていた「パチッと割れてしまうはかない存在としてのしゃぼん玉」が、村人たちとの心の交流によって「暖かく心を包み込むしゃぼん玉」へと変化したのではないかとの私なりの解釈を得て、冒頭に示した温かな心持を感じ取ったのです。
 とはいえ、全体を通しての印象としては、観客が身を乗り出して引き付けられるような激動の展開や大事件が演じられるという事もなく、意地悪な見方をすれば、山村の祭りを主軸としたなんと平凡で起伏に乏しい内容であったのかと言えるかも知れません。 さて、そんな中、心温まる内容以外に、今回の観劇を別の観点からつらつら眺めてみると、意外にも現代社会にも通じる幾つかの示唆に富んだ事柄があるのを見出すことが出来ましたので、それを少しご紹介したいと思います。
 まずは今回の観劇での一番の主張は「否定しないこと(非否定)」、あるいは別の言い方をすれば「排除しないこと(非排他性)」、または逆説的な見方では「受け入れること(受容)」ではないかと、私としては強く思いました。その理由として、荒んだ生活を繰り返していた主人公が、ふとしたキッカケで見知らぬ山村の住人との温かな交流を通して心に潤いを取り戻して次第に前向きに生きる活力を得るようになったのは、やはり主人公をありのまま受け入れて彼の存在そのものを否定しない村民の包容力に起因するのではないかと思ったからです。つまりは、現代社会でも盛んに言われている「多様性の許容・共存」を、無自覚のうちにも村人たち自ら実践していたからに他ならないと思うのです。
 もう一つは、主人公の人格形成に多大な悪影響を及ぼした「毒親」の存在です。役者のセリフからの想像の域を脱しないのですが、主人公の父親は、酒を飲んでは面前DVともいえる母親に暴力を振るったりすることで、主人公への「心理的虐待」を行っているという「児童虐待」の元凶で、今でいうところの典型的な「毒親」に他なりません。そして、こんな環境下で育てられ、矯正不能とも思える主人公の歪んだ人格を、「北風と太陽(イソップ寓話)」の「太陽」の如く優しく穏やかで寛大な態度で接することで徐々に解きほぐしていったスマ婆や村民の相手を包み込む愛情には脱帽せずにはいられませんでした。 しかし、そうは言っても、スマ婆も三人の子供を育てていた若き頃は、彼女自身も主人公の父親ほどでないにしろ、幾分「毒親」としての振る舞いがあったようで、そのことで次男が今一つ自立できない男になってしまった原因にもなるかと思いました。それは古今東西、現代社会においても一般家庭でよくみられる風景です。具体的に説明すると、複数人の兄弟(あるいは姉妹)を育てられた親御さんには自覚があるかと思いますが、兄弟間で差別することです。「差別」という表現が不適切と思うのでしたら、「育て方に偏りがある」と言い換えれば良いかもしれません。劇中でも述べられていましたが、スマ婆の三人の子供の上二人(長男と長女)は、すこぶる出来が良かったとか…。それに引き換え、次男(椎葉豊昭)の出来は今一つで、凡庸な子供であったようです。ですから、何かにつけて兄や姉と比較されて、そのことで子供心に卑屈になってしまったのではないかとは想像に難くありません。まさしく「スクールカースト」ならぬ「兄弟間カースト」ともいうべきことですね。一方、ある意味において次男の子育てに罪悪感を抱いていたスマ婆は、その罪滅ぼしとして豊昭に対して過保護に溺愛し過ぎたために、豊昭自身の精神的自立ができないまま大人になって、年金生活者の母親に金の無心に来るような人間に成り下がってしまったようです。また、これらは何も兄弟間にだけ起こることではなく、一人っ子であっても他家の優秀な子供と比較されて自尊心を打ち砕けさせられるということもあり得ます。ということで、この次男も母親であるスマ婆の「(軽度かつ無自覚な)毒親」の被害者との見方ができるかとも思いました。
 以上のように、劇の表層だけをなぞっていれば山村の平凡な日常を描いたのに過ぎない「しゃぼん玉」ですが、その一見何気ない日常の情景の中にも見方によっては色々と考えさせられる「隠し玉」が至る所に仕込まれているのを発見する楽しさがあった演劇だったのかと、劇を観終わった時にそんな思いを抱いた私でした。

久しぶりに良い話にめぐりあえた!人は自分を信じてくれる誰かが居たらやり直したり強く生きていける!そんなふうに思わせてくれる良き話でした。

乃南アサの原作を読んでいたが、原作を知らないでの真っ新の観劇の方が良いようです。 “殺す”の選択肢をいつも心の中に持っている主人公(翔人)には、とても、とても不快/嫌な感じをもたされるし、田舎とはいえ、皆が皆、性善というのも素直に受け入れられない。
 「田舎の爺さん・ばあさんと生活する中で、犯罪を犯してしまった青年(翔人)は・・」とあらすじにすると逃亡中の人間としての成長の話で、陳腐で/きれいなストーリー。実世界ではなかなかなさそうだが・・・、田舎は良い/人は純朴で親切とのステレオタイプの設定だが、排他的で余所者を受け入れない部分もあるでしょうからねぇ。このような(ほのぼのした)田舎は現実には存在しないとの思い(猜疑心の強い田舎でこんなこと起こらない)の一方で、“現代のお伽話”だと感ずる気持ちと、現実にもこんな優しい話があってもいいなぁとも。(世の中にはもっと優しい話がある筈と思いたいので・・) とはいえども、劇中/設定の翔人には「賀辞は申しませんが、祝辞は申します。」
 (“賀”と“祝”は、どちらも“いわう”と読むが、“賀”は過去をいわい、“祝”は未来をいわう)
 というのも、古来「初め有らざるはなし、克く(よく)終わり有ることは鮮し(すくなし)(はじめはよいが、おわりのよい人はすくない)」といわれているのと真逆の顛末ですからねぇ。
 それもこれも、ぜぇ~んぶトラックから投げ捨てた運転手のおかげですから「運転手さんありがとう」ですよねぇ、翔人。彼がいなかったら、逃げて逃げてのバッドエンドだったでしょうから。
 “転がる石はどこへ行く、転がる石は坂まかせ、どうせ転げて行くなら、親の知らない遠い場所。 怒りを持てば、胸やぶれ、昂ぶりさえも鎮めつつ、はしゃいで生きる青春は、俺にはないと、思ってた。迷わぬけれど、このままじゃ、苔にまみれた石になる、石なら石で思いきり、転げてみると考えた。 ああ、ああ、ああ、ああ・・、転がる石はどこへ行く・・“ と思わず口遊み、唄ってしまう。(転がる石には苔は生えぬでしょうが・・)
 人は今を生きるしかなく、今ここのことしかわからない。学べるものは過去からの教訓ばかりで、先のことを見通し得る千里眼なんて便利なものは、残念ながらこの世にはないから。
 でも、人が変わるきっかけは、どこに転がっているかわからない。ちょっとしたことがきっかけで、良い方向にも悪い方向にも簡単に転がってしまう。 この場合のきっかけの第一功労者は“運転手”で、次の功労者はシゲ爺でしょうねぇ(乃南アサはスマ婆を功労者にしたかったのかもしれないが・・)。
 シゲ爺の体験談、(翔人のまわりにはいなかった、こうなりたいと思える大人/本当に強い人は、どういう人なのか、踏み外した道をやり直すためにはどうすればいいのか・・)
 実世界にもシゲ爺のようにゲンコツしてくれる人がいれば・・。
 「“しょうがない”ことも、あるにはあるけど、それと“どうでもいい”とは別のことだ。しょうがないからといって、何でも最初から諦めていたら、人間なんて猿から進歩しなかった。自分の力では“しょうがない”こともあるが、自分の生き方で“しょうがない”と諦めたら、どんなに若くても人生はやり直せない(そこで終わり)。おまえも、もうちょっと厳しい目にあわんと、駄目かも知れないなあ。おまえはいつでも、逃げることばかりを考えている。多分、小さい頃からそうだったんだろう。そんな癖が染みついている。好い加減、自分から向かってく力をつけなければなあ。やれば出来るということは・・」
 教えてもらって(なくても)学ぶことはできるけれど、教えてもらえば分かることもある。
 (甘いのと優しいのは、“月とスッポン”ほどのちがいがある。昨今の娘たちが「やさしい男性が好き」というのは、甘すぎる男がいいといい換えるべきだ。優しさとは本来、きびしいほうが多く含まれていなくてはならない。)
 “自分は急に変われない。周りの環境が自分に合わせて変わってくれるわけでもない。それでも、自分がどうありたいかという生き方は選べる。そのための居場所もどこかにある。子供も周りの大人も、急ぐことなく答えを探してほしい。”と喝破した方がいる。
 「シャボン玉」かぁ、なるほどねぇ
 どこかに着地すれば・・、誰かと触れ合あえば・・、それだけで壊れて消えてしまう、やがてパチンと消えるだけのモノ。そんな存在なのか/だったのかも知れなかったが・・。
 翔人の他に翔人はいない。翔人は人の人生をまねることはできず、他人も翔人の人生をまねられない。この時代、この時、この所に生きている独りとは、どういうものであるかを考え、そういう独りが、独りでは生きられないことを想い、この世には、上には上があることを識れば、下には下があることがわかるようになる。そこで志が定まる・・、てことかぁ。
 石は傷がついても石のままでいられるが、玉は、ひとたび傷がついてはもはや元の玉ではありえないのですから。
 何故か(容赦なく貧民の堕落、子供の残酷、美女の傲慢、老人の狷介、赤子の厄介さを描いたと揶揄される)ホーガス作品の「娼婦一代記・ロンドン到着のモル」が思い起こされた。

めーっちゃよかったです!実に私好み♥️テンポもよくて、かけあいのタイミングも最高。セリフもいちいちツボでくすっとなりました。
 映像の使い方もよかったですねー。映像のスクリーン代わりの“壁”の移動がものすごく素早くて小気味良かったです。
 最後はばあちゃんがヨタヨタ歩いてくるのかと思ったら、まさかのスーパーカブ!思わず「最高っ!」と声がでてしまいました。
 面白かったです!そして、ハッピーエンドでよかったです(笑)

人と人の出会い、そして、絆。
 3年後に「いずみ」が戻ってきて、ばあちゃんも生きていて、ホッとしました。
 感動しました。

主役の熱演、良かったです!最後は更生して再会するシーンが観てるこちらも笑顔になりました。良い作品でした。

良かったです。俳優さんの声量、滑舌、気迫(特にいずみ役)に圧倒されました。
 感想も「こころ根」が大事ですね。今回〆切に間に合わなくなりそうになり、これは、シゲ爺に叱られます(笑)。
 「シャボン玉」を観ながら、自分の親と被り思いだしながら熱くなりました。
 笑いも多く、大変楽しめた観劇となり、ありがとうございました。

おばあちゃんの、「坊はええ子」の言葉が印象的でした。信じてあげる事って大事なんだなと改めて思いました。その言葉が彼を救ったのですものね! また、なんでも「アッハハ」と笑い飛ばすおおらかさにも憧れました。少しまねができたらいいな!と思いました。

奇妙な同居生活で、青年のネガティブさ、老女の明るさの対比が際立ちます。周りの人も異様に明るく、やっぱり、青年の暗さが際立つ。
 けど、その明るさに照らされ、青年の更生がなされる。何か明暗をつけることで、作品が作られたのかなぁと感じました。
 良かったです。

芝居が進む中、タイトルと内容が結びつき、涙するところもあり、美しい話に仕上がっているが、今の世の中ではありえないと思う!田舎も都会も老人も若者も生きにくい。芝居とか読書は、自分には現実逃避である。

本や映画で良く知られている「しゃぼん玉」を、ユーモアを交えながら観れて、演劇ならでは…と思いながら観ていました。
 また、地面についた瞬間に弾けて消えてなくなることからふらふらと漂って生きる青年が、周りの人の温かさに触れながら現実から逃げずに自らが変わろうとする姿は、若い人には是非見て欲しいなと思いました。

小さい頃ですが、田舎に住んでいました。その時、麦わらの茎をストローのように切ってもらって、シャボン玉をして遊んでいました。きれいな、大きなシャボン玉はできなかったが、心に残っています。麦わらのストローで何度も何度も繰り返し、そのようなシャボン玉ができたらとトライしたイメージがあります。 「しゃぼん玉」に出ていたおばあさん、“スマさん”ですね。やさしい人ですね。小さい頃、近所には“おばあさん”がたくさんいました。畑や田んぼで遅くまで草取りなどの作業をしていました。そのようなことを思い出しました。
 “翔人さん”ですね。オートバイに元気よく乗ってましたね。免許証は大丈夫なのかなと心配しました。村の人から色々と教えてもらっていましたね。山での作業、きのこなど、植物のことも注意を受けながらも教えてもらってましたね。平家の落人の話も出てきましたね。山村の景色がたびたび映しだされましたね。徳島県西部の山間部(祖谷)かな…と思いました。
 その後“スマさん”、“翔人さん”、“皆さん”じゃどうなったのかなどと思いつつ、途中で家路につきました。今、最後まで居ればよかったのになあと思っています。

乃南アサの小説は「凍える牙」しか読んだ記憶がなく、印象深いサスペンスだったのでどの様な芝居か楽しみにしていました。全くカラーの違うオーソドックスな物語でちゃんと生きなくっちゃって励まされるいい芝居でした。構成もガッチリ、出演者の演技も良く久しぶりに堪能しました。またこんな芝居を呼んで下さいね。

鳴門例会カーテンコール

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