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グレイクリスマス

劇団民藝公演

鳴門市民劇場3月例会
 2025年3月11日(火)
 感想集


鳴門例会カーテンコール

物語の主人公は五條家の伯爵の妻、華子なのだろうと思いながら見ていましたが、デモクラシーの理想と現実に苦しむジョージや自分の国から離れ、闇屋として逃げながら生活する権堂などキャスト全員が何かしらに縛られ、自由がない、切羽つまる人物ばかり。展開も早く、見入ってしまいました!自分の考えを言葉にするのがムズかしい。けど、豪華なセットと役者さんの長セリフ、とても良かったです。旦那様のマイペースさは、唯一のいやしタイムでした(笑)

台本ではイメージできなかったことが多々ありました(^^;)いつもの事ですが・・・
 今回は、華子が主役というより、闇屋の権堂が全体を差配し、演出家の代理をこなしていたように感じました。
 事前に、1945年からの5年間を調べると、日本国が存亡の危機に在ったことがわかります。ポツダム宣言受諾からサンフランシスコ講和条約締結まで。
 吉田茂という嫌戦派の外交官がいたことが救いと知りました。歴代の首相に請われて入閣。そこで、マッカーサーとも丁々発止でやりあい、天皇との会見もお膳立てします。彼の人柄の成すところでしょうか。
 3歳で、吉田家に養子に出され、11歳でその養父が亡くなり、漠大な資産を引き継ぎます。一橋大学や東京理科大、慶応大学に入ったものの、性に合わぬと自主退学。学習院大学に入ったものの閉校となり、退学。26歳で東京帝大法科に入ります。卒業後、国家試験を受けて外交官になり、英国大使の職も務めます。彼の半世記を読むだけで、凄い時代に凄い人生を生きたのだと感じます。周囲に請われて内閣入りしたのは、1945年、何と67歳。こちらの話は、凄すぎて、芝居にはならないでしょうね。
 今回は、運営サークル担当でもあり「感想交流会」に参加。6人が集まりました。アッという間の2時間でしたが、みなさんの熱い思い(感想)が聴けて、とても満足しました。特に、女性陣の視点は面白いと感じました。

本格的な観劇は初めてで、劇団の皆様の熱い想いが伝わってきて、感動しました。

始めに物語への導入の語りをして欲しかった。
 戦後の動乱の時期のいろんな問題を含むドラマで内容が難しかった。ただ、「DDTの噴霧」等「そんなこともあった」と遠い昔の懐かしい出来事を思い出すことも。

今回は日本が戦争に敗れた年(1945.8)のクリスマス頃から5年間のお話とか…
 華族:五條家伯爵の生活を描かれ、特に男性の方々が精神的な病を患い苦しむが、女性は閉ざされていたものが開いたかのように明るくなられましたね。
 日本の現代史が市民劇として制作されましたね。
 拝啓、ジョージ・イトウ様
 今は2025年戦後80年、今でも民主主義なんて日本ではまだまだです。
 たった5年で日本を民主主義の国にすることが、うまくいくなんて甘いというか最初から無理でしたネ。
 しかし、一生懸命日本をかつてない民主主義の国を作ろうとしたことは、伝わりました。少なくとも華子という女性は大きく変わりました。これは大きな成果でしたネ。

私は昭和29年生まれなので、敗戦直後のことは直接知らない。その意味で、ジョージの説くデモクラシーや日系二世の実態、朝鮮戦争などのことがよく分かった。
 特に、ジョージの戦死の報らせを受けた華子が、雪の中、憲法を語り始める場面が印象に残っている。

いつも行っている美容室へグレイクリスマスのポスターを持って行って貼って頂くようお願いした。店主が貼りながらポスターを見て「ウワーッ、岡本健一俳優になったん?前はジャニーズのアイドルグループで活躍していたよ。懐かしい‼」と興味があるようで入会してもらいたいと思ったが仕事で時間的に無理、残念‼
 岡本健一は「世界中で戦火が続く今、私達が出来ることは今日の舞台を誠実につとめることで平和の光をともし続けたいと思います。」とあった。
 なんと素晴らしい‼本当にその通り、誠実な舞台でした。戦後の混乱期から1950年朝鮮戦争が始まり特需景気をもたらす一方で日本社会が変わっていき、警察予備隊(今の自衛隊)が設立された。
 そして今、戦争が毎日のようにテレビ、新聞で報道されている。戦後80年というのにたくさんの課題を抱えたままの現代、世界に類を見ないという平和憲法を守っていかなければと思う。
 機関紙の挟み込みに日本国憲法の条文(抜粋)が印刷されていました。ありがとうございます。

難しかった。でも憲法について考えられたのは良かった。

「民藝」というので期待して観たが、ちょっと回りくどいなと思った。
 ずいぶん前だが、映画「日本の青空」をみて、日本国憲法はアメリカのGHQに押し付けられただけのものではなかった。日本の学者も憲法について考えて提言したことも知って嬉しかった。
 私も小さな子供の時、戦争が終わって防空壕へ逃げ込まなくてよくなってほっとした。「兵隊さんのこと思ってしんぼうしな」「わがまま言よったら手がうしろにまわるでよ」など言われなくなってうれしかった。B29が空を飛ばなくなって安心した。
 それが、国会中継をテレビでみていたら、軍事費を減らすとは言わず、医療費教育福祉などをけずり、国民いじめばかりする政府答弁で腹が立つ。高額療養費の国民負担を増やすなど、私も手術をした時は「ありがたい」と思ったけど国民の命綱を切るようなひどい政府です。 そんな政治をかえられないのは残念でなりません
 私たちにできることは、選挙の時、投票に行くこと。そして自分を本当に守ってくれる人(党)に投票することだと思います。
 私も、もうちょっとがんばろうと思います。

世界の情勢から考え、平和を守ることの難しさを感じる今日この頃、民藝の「グレイクリスマス」を戦後の事を思いながら意義深く観劇しました。
 そして、改めて日本国憲法(抜粋)をしみじみと読み、これからの行く末を考えました。

徳島、鳴門、高知、ブロック外で計4回観劇しました。
 とても辛いストーリーなのに、不思議と回を増す毎に五條家や登場人物の描写が面白く楽しめました。
 運営サークル感想会にも参加させて頂き、そこでも話題になったのですが、五條家の一員と権堂がどうなったのかを想像させてくれる作品で続きがすごく観たいです。
 戦争、敗戦、憲法がうまく描かれている作品であるとも思うので、後世にも受け継ぐべき作品であると感じました。

戦後、激動の5年間ということで、ちょうど私が産まれた(1949年)の時代背景と重なり、興味深く観させて頂きました。
 私の個人的には、心から笑えるような楽しい劇が嬉しいです。

今回の「グレイクリスマス」はとてもよく練られていると感じました。舞台装置の構成の巧さ、舞台はずっと同じなのに演じる人達の動きや感情を表わすのに最も伝わるように作られていると思い、感心しながら見せていただきました。
 そして、それ以上に演じる役者さん達がいろいろな感情をとても豊かに演じ、熱い思いが伝わってきました。
 ありがとうございました。

見ごたえのある劇でした。一冊の本を読み切ったぐらい充実していました。戦争が終わって、憲法が制定されて、様々な民主化がされたのに、上層部の人々の変わらない意識や差別など矛盾もあり、複雑な現実を感じました。

今回初めて徳島市内のあわぎんホールでサークル6名中5名が車に乗り合わせ観劇しました。藍住のホールと違い舞台と客席の距離がありましたが、声がよく聞こえて迫力がありました。内容では、戦後の伯爵の事であったり、又、憲法であったり、勉強不足の私では少し難しかったですが、昔の貴族の生活や調度品、振る舞い、素敵なドレス等にあこがれ、しばし余韻に浸っておりました…。
 ですが、戦後、貴族廃止になり、色々とつらい時期を過ごされたんでしょうね!

少し内容が分かりにくかったです。

とても素敵な舞台でした。人種差別のこと、デモクラシーとは何かなどいろいろ考えさせられました。ラストの、華子さんが踊りながら日本国憲法を読み上げるシーンが美しくて悲しくて印象的でした。

戦後の5年間の貴族制度廃止に伴っての、盛り沢山の内容(日本国憲法、民族差別、女性の立場、恋愛、薬物、退役軍人の心の病など)に、最後はちょっと疲れてしまいましたが、伯爵の話口調と貴族のかもしだす、まったりのんびりした雰囲気で少し憩いながら楽しく観させて頂きました。

2018年、2022年と観劇している「グレイクリスマス」初見時は、権堂は生き延びているのでは?と思い、再演時にはいやそんなことないかとも思い、今回、やっぱり雅子も希望を持っているのでは?生き延びて再会出来ることを…と思いました。
 今期の観劇で、ジョージの理想と現実の間での葛藤がとても響きました。毎回、違う感じ方、新たな気付きがある「生」の舞台の素晴らしさをあらためて感じました。そして、華子がその後自由に生きれることを願いながら、自由とは?人権とは?今の日本のあり方は?と考えさせられました。
 今後の日本が、世界が、とても不安な今、観るべき舞台でした。
 世界の平和を祈りながら。

終戦直後から朝鮮戦争勃発の年までのクリスマスの日。占領下においてGHQの施策により爵位を奪われ、屋敷の母屋を接収され、時代の変化に翻弄される五條家の人々の姿を描いた作品。元伯爵五條紀明と弟紀孝は自殺未遂、息子紘一は薬物中毒に陥るなど現実に向き合うことができない男たちと対照的に、デモクラシーの理念に触れ、自立心が芽生えていく華子や娘の雅子。華子は、ジョージ・イトウの言葉を「お伽噺のよう」と純粋に受け止め、共感し好意を募らせてゆく。すっかりデモクラシーの思想に傾倒した華子は、紘一の薬物使用について何故叱らないのかと詰め寄る雅子に「今はそんなことはどうでもいいの」と言い放ち、自由の素晴らしさを語る。その姿はまるで初恋に胸ときめかせる少女のようだった。やがて、ジョージと心通わすようになった華子。「自分が変わるためにアメリカ人になりたい」「アメリカに連れて行って欲しい」と懇願する華子にジョージは自らの体験を交えながら、アメリカという国が実は差別や偏見に満ちた国であり、そのような仕打ちを華子に味わわせたくないと告げ、華子はその言葉に「アメリカはデモクラシーの国ではなかった」と落胆する。それは、現在の米国の移民政策や人種差別と重なるものがある。また、朝鮮戦争で戦死したジョージの元から戻ったオルゴールを聴きながら、華子が日本国憲法を諳んじるラストシーンでは、華子の自分らしく生きてゆく強い決意を感じた。
 今回の舞台のもう一人の主役とも言えるのが闇屋の権堂。五條家にうまく入り込み、詐欺まがいの取引を紀明に持ちかけたり、紘一を覚醒剤漬けにしたりと五條家をかき乱してゆく悪役的な存在なのに不思議と憎めない感じがした。雅子が権堂に対して、「生きているみたい」「楽しそう」と感じたように、強い生命力を感じさせるキャラクターだった。それは、幼い頃に父親を日本人に殺された朝鮮人という過去を抱えながら、日本人を相手に闇屋を業とするしたたかさから来るのかもしれない。その権堂が警察に追われ五條家に逃げ込んだ最後のシーンで、雅子の前から立ち去った後、鳴り響く1発の銃声。ここで権堂は死んだのか否かについては、物語では描かれていない(私は、権堂は逃げ延びたのではと思うのだが・・・)。
 今回の舞台は、戦後の5年を描きながらも、現在の私たちに、日本国憲法や民主主義のあり方と共に、それらに私たちがどう向き合うべきか、また、人としてどう生きるべきか等様々な問いを投げかけている作品だと感じた。

鳴門例会カーテンコール

初めて『グレイクリスマス』を観劇し、時代の波に翻弄されながらも、懸命に生き抜こうとする人々の姿に深く心を打たれました。
 戦後の混乱と再生の狭間で、それぞれが過去や想いを抱えながら生きる登場人物たち。その一人ひとりの姿が丁寧に描かれており、観ているこちらも自然と感情を揺さぶられました。
 なかでも印象に残ったのは、権藤という人物です。
 言葉にしづらい“人間らしさ”のようなものが彼の所作や佇まいから伝わってきました。正直なところ、その存在感とビジュアルの美しさに目を奪われてしまい、物語の中での細かな行動までしっかり覚えているかと言われると少々自信がありませんが(笑)、それでも「この人が大切にしてきたものは何か」を自然と考えさせられました。
 『グレイクリスマス』は、単なる戦後の物語ではなく、「人が生きる」という普遍的なテーマを、静かに、しかし、力強く伝えてくれる作品でした。この作品と出会えたことに、心から感謝したいと思います。

舞台も、見る前は難しそうだなと不安な部分もありましたが、その時代の背景がよくわかり、途中涙するところもあったり、笑えるところもあったり、勉強になる場面もありました。
 エンタメは、やはり生で見るのが1番だと改めて感じました。

3月例会のグレイクリスマスは『財閥解体』『華族制度の廃止』『戦犯』『闇ゴメ』『日系アメリカ軍人の迷走と悩み』などが背景にあって映画のRG12に相当する内容のように感じました!
 私が物心ついた頃は町内に旧日本軍で士官だった、上等兵だったという じいちゃんが何人もいまして、そのうちの1人は傷痍軍人(戦闘で左腕を失って帰国した)のじいちゃんでした。その人たちから戦争の悲惨さ、逆に痛快さなどよく聞かされたものです。我々は庶民の立場で戦争を語ったのですが、グレイクリスマスは別の面から戦争を描いてもらいあらためて勉強させて頂きました!それにしても女性はいつの時代もタフでしっかりしてますねー。
 また宜しくお願い致します。

2022年に上演されたときに配信で観たお芝居で、とても心に残ったお話のひとつでした。
 今回、劇場で2回も観劇させていただけましたので、配信では見ることができない舞台の隅々まで目を凝らし役者さんの息遣いまで感じることができました。
 日常の忙しさに引き戻されてゆっくり観劇を振り返る時間がありませんでしたが、今日、ゆっくりパンフレットを眺めながら振り返ると、観劇した2回それぞれの映像が鮮明によみがえってきました。
 戦後の時代背景や生活がどんなだったのか、これまでも様々な情報で見聞きし、現在の当たり前とは全く違う日常だったことは容易に想像できていましたが、改めて、戦争、平和、格差、男女、占領、働くこと様々な観点で考える機会となりました。

今回のお話では貴族だったお家が戦後の華族制度廃止とともに没落し、自分たちで生きていかなくてはいけなくなった中、伯爵夫人が日本を理想的な国家とするため憲法を作成しようとするGHQの将校と親しくなった。しかし、彼は理想と現実の差に悩み、新たな戦争に散っていった。
 伯爵夫人もまた華族関係の崩壊した家から抜け出したかったが叶わなかった。
 終始複雑な話ではあったが感慨深い内容であった。

五條華子が夢見たピープルの国、デモクラシー国家の夢が破れ、デモクラシーの権化でもあった、愛しいジョージまでも失って、悲嘆にくれる華子の心情をグレイクリスマスと表現した素晴らしい感動の舞台であった。
 2010年に観た前回のグレイクリスマスの舞台に比べて淡白な印象を受けた。その分、権藤(岡本健一)の出番が多くなっていたように思う。
 千葉茂則が演じた五條伯爵のなんとも茫洋とした佇まいが秀逸で、舞台を力強いものにしていたと思う。

さすが伯爵家の豪華な応接間、これから何が起こるのかわくわくして舞台を見守っていました。
 前もって登場人物の相関図などで予習をしていたものの、やはり登場人物が多くて相関図を思い浮かべながら頭を納得させながら劇に見入ってしまいました。
 第二次世界大戦でほとんどすべての日本国民が打撃を受けその悲惨さはメディア等で見聞きし身に染みて感じていましたが、五條家のような上流階級のもと華族にまで傷跡が及んできたという認識はありませんでした。
 戦争の爪痕は五條家の人々をはじめ登場人物すべての人々に襲い掛かってきます。それでも変動の流れにうまく乗ってたくましく生きる女性たち。対照的なのは、進駐軍将校のジョージです。日系二世という人種の壁を持ちながらアメリカ人として生き、戦争の悪を憎む人間としての葛藤を抱えながら散っていったジョージが一番の戦争犠牲者に思えます。オルゴールの音色がジョージの思いとともに耳に残っています。


(グ)“Good! What a great play!”これが作品を見終わった後に、今月新規会員になった方からいただいた言葉だ。もちろん、日本語での感想だったが、今回の演劇に敬意を表して、英語で表してみた。私も素晴らしい演劇だったと心底、思った。しかし、その最初の場面では、
(レ)レアケースの演劇?英語と日本語でやっていくの?これは大変。英語脳を思い起こさなければ!と構えた所に日系二世の軍人が出てきてほぼ日本語に戻った。少々驚いたが、こういう刺激も、日々、ぼーっと過ごしている私には有難かった。舞台は伯爵家。敗戦国の日本は進駐軍の指令下にあったわけで、五條家の本宅が進駐軍の将校クラブに母屋を様変わりさせられたのは仕方がなかったことか。
(イ)言いたいことが言えない時代、五條家の当主は自殺騒ぎ、その弟は戦犯裁判にかけられるというのでうろたえ、その息子はヒロポン中毒者と、ため息がでそう。しかし、その反面、五條家の女性達は逞しい。
(ク)くよくよするのではなく、新しい状況を受け入れ、前を向いて生きていこうとするその姿。戦前まで、人形のように夫に尽くすだけだった生活から、「自由」を知り、それになじんでいこうとする逞しさのようなものを感じた。恋愛すらも自由であっていいのだと。
(リ)理想に胸をふくらませていく後妻の華子。日系二世のジョージ・イトウの説くデモクラシーにどんどんはまり、彼に恋心を抱く。しかし、ジョージは煮え切らない。そんな中、一方で娘・雅子は闇屋の権堂に惹かれていく。
(ス)進んでいく舞台の中で毎年迎えるクリスマスが少しずつ様変わりをしていく。五條家の当主は平井に騙され、家まで奪われようとする。その当主を演ずる千葉茂則さんの飄飄とした伯爵の演技がとても面白かった。直立不動の姿勢でセリフは棒読み、まるで漫画の世界みたいだったが、その口の動かし方、声の出し方、声量・・・。千葉さんが考え、組み立てた伯爵像が本当に面白く、変化する時代や舞台の場面、場面を効果的にしていたと思う。さて、一方で、
(マ)ますます自由な心で物事を考え、推し進めていこうとする女性達。ジョージに迫る華子。当時の日本は、貧しさの中であえいでいた時代だったが、朝鮮戦争が始まり、アメリカの占領政策がかわり、五條の弟は政界に復帰、息子は警察予備隊にと旧勢力が息を吹き返していった。その一方、華子から逃げるように朝鮮戦争に従軍したジョージは戦死。どうしてそんなことに?残されたオルゴールが華子以上に寂しげだった。
(ス)すごい!素晴らしい演劇!私の演劇観賞後の感想も新入会員の方と同じだった。これぞ演劇!という感じがして見終わった後、とてもすがすがしかった。時代背景もテーマも重いものだったが、生きるのに精一杯だった日々の中で、自由を知り、自分の意見を言えるようになった女性達の逞しさみたいなものを知ることができた。どの役者さん達も素晴らしかった。英語の発音もきれいだったし、いい声だったし、わかりやすかった。役者さんの演技と、与えられたセリフに注ぐ思いを、その声量の中に感じた。

哀しいお話でした。
 これが当時の日本かと思い こういう世の中が当たり前である事に大概の人が何の疑問を持つこともなく過ごしていた事に驚きをかくせません。
 憲法も解釈する人によって意図するものと全く違うものに変わることに恐さを感じました。
 人種差別反対‼ 岡本健一最高‼

過去に二度(1995年、2010年)本作を観たときの印象は、正直言って、かため、暗め、どこか教条的にも思えるアピールが目立つ作品…という感じでしたが、今回は全く違いました。過去に観たときには私はまだ現役で仕事帰りの疲れた頭で観ていたという環境や、何より、まだ、30代と50歳という若さ(?)で、その影響もあるのかもしれません。また今回は過去のものとは演出も少し違ったのでしょうか…。すごくたくさんの抽斗があり、すごくたくさんのことが胸に突き刺さり、贅沢で見応えがある舞台だったと思います。
 まず登場人物。以前の舞台では「華子」に大きくスポットライトがあたって、彼女とジョージ・イトウの物語、日本国憲法を間に置いた二人の物語ということが目立っていたという印象が強いのですが、今回は(あくまでもこれまでと比較して…ですが)そこだけが強く描かれるわけではなく、五條家のひとたちそれぞれの生き方、生きざま、そして(特に目立っていたかなあ)権堂という男のそれが、場面や台詞ごとにグングンつきつけられて、惹きこまれました。
 次に、作者の意図がどうだったかは分からないものの私が今回観て受け取ったメッセージは2つ「理想と現実のギャップは常にある(苦しいもの)」「モノを知ることは必要で自分を高めてくれるけども、それは必ずしも幸せにつながるわけではない」でした。
 「人間が持つ、持って前向きに生きていかなきゃならないのが“理想”」ですが、それはやっぱり綺麗事にすぎないところがあって、常に、現実と間にはギャップがあり、特に正直で真実から目を逸らさない誠実な人ほど、その矛盾に苦しまなくてはならないという悲しさが描かれていたと感じました。デモクラシーは素晴らしい考え方(あくまでも、戦前の、それがなかった、不公平な時代に対して…ですが)だけど、実はそれを謳ったアメリカにも暗部はあって、アメリカは決して理想郷ではなかった…ということが、デモクラシーの素晴らしさを華子に教えたジョージ・イトウの口から明かされました。どんな時代、どんな社会でも、理想と現実との間にはギャップがあり、敏感な人ほど、それを感じて苦しむことになる。でもそれでも、夢や目標は持って生きてくべきでそれが人生なのだろうなと、そんなことを沸々と思いました。
 また、華子はジョージからたくさんのことを学び、見違えるように成長し、雅子も、権堂から、華族の階級では想像もできなかった市井の人たちの悲惨な現実などをたくさん教えられ、目が覚めます。きっとこのプロセスは彼女たちにとってある意味必要であり宝になったとは思うものの、華子は結局、ジョージから真意・真相を打ち明けられて、挙句の果てに死に向かったジョージを見ることになり、雅子も、激しく惹かれながら結局は「別世界の人間」「ついてはいけない人間」と悟った権堂の最期(彼は死んだのかな??それは分からないけど)を見ることになる。何が幸せなのか…そんなことも沸々と思いました。
 一見して、敗戦後に逞しく立ち上がった日本を、今の時代も堅持すべき憲法を作った日本の復興とその憲法の大切さを題材・テーマにした作品と受け止める人も多いと思いますが、私は、挫折の物語、人間や社会の、避けようがない矛盾の物語という風に感じました。もちろん、それを投げやりに思うということではなく、そういうものだときちんと理解して、無邪気になりすぎず、光ばかりを追うのではなく、常に弱いところや闇にも目を向けて生きていかなければ…という思いを強くしたということです。
 権堂の台詞に(それは戦中戦後という非常時においてだったが)「正直で敏感なニンゲンは生きちゃいけない。生きていけるのは鈍感な奴らだけだ」といった意味のものがあり、自分への忠告(?)的に刺さりました(敏感過ぎて、いつも悩んでばかりです:笑)。

舞台装置や衣装が立派でした。難しいテーマですね。


(1)ジョージと華子も違う時代に生まれていたら、きっと幸せになれたのでしょうね。最後のオルゴールに切なさが残り、雪がチラチラする中、憲法を語る華子の姿があまりにも悲しく印象的でした。
(2)権堂は撃たれて死んでしまったのか、すごく余韻が残っています。 自分が何処に何時生まれて来るのか、自分で選ぶことはもちろん出来ません。「今ここに自分がいること」はとても幸せです。争いのない平和な世の中を願うばかりです。 華族に生まれて綺麗なピカピカのドレスを着てみたかった。これは、女子の永遠の憧れです。これを最後に付け加えます。

正直なところ、あまり好みの劇ではなかったです。
 ただ、華子さんのお声が良かったのと雰囲気が役にピッタリと思いました。
 また、権堂さんのセリフで「闇米の取り締まりに扮しておばさんたちから取り上げた闇米を、あんたらは食べてんだ!」というのがありましたが、やたらそれが印象に残って、歴史上そうだったかどうかは知りませんが、似たようなことはあったのでしょう!悲しい時代だったんだと思うと少し切なくなりました。

まず舞台に驚きました。窓の外の木々、最初は写真かと思って見ていましたが、そうではなかったですね。
 ストーリーは、私たちの知らない終戦当時のほんの一部を垣間見た気がしました。

登場する色々な人間像が絡みながら戦争の無い社会へ変わる時代をテーマにしたこの作品が、ウクライナや中東での戦争、自国第一主義や偽情報に満ちた今、少し物足りないかなと感じるのは何故かなと思いながら帰路につきました。

今回の観劇である「グレイクリスマス」ですが、公演内容に大小並びに硬軟取り混ぜての幾多のテーマが内在されており、その各々のテーマについて考えを巡らすと、私の頭の中は混乱に満ちたカオス状態となってしまいました。つまりは、今回のテーマは多岐に渡り、そのどれもが幾つもの答えが考えられる、あるいは回答が見いだせない難解なテーマだからです。それはとりもなおさず、現代社会でも解決されずに残っている、あるいは新たな社会問題化としているような、容易に答えが得られない、または永遠に答えが見つからないような数々の難題を私に向けて投げかけられているように思いました。そこで、そのような押し寄せる難題の荒波の中で、特に私の印象に残った場面を幾つかご紹介したいと思います。
 まずは、劇の終盤で、華子が語った「憲法14条」の条文を耳にして、私は即座にNHKの朝ドラで放映されていた「虎に翼」を思い浮かべました。そして、それに連動して、ドラマ冒頭での「憲法14条のナレーションから始まるシーン」が、走馬灯の如く思い起こされました。
 その憲法14条に書かれていることとは「すべて国民は、法の下に平等であって、人種、信条、性別、社会的身分または門地により、政治的、経済的、社会的関係において、差別されない」というものです。もっと平易な言い方をすれば、舞台上でも盛んにセリフとして言われていた「people」を指し示すと私は捉え、これは「男も女も(現代ではLGBTQも含むべきと思います)、人種も家柄も貧乏人も金持ちも、上も下もなく、横並びである、それが大前提である当たり前の世の中」を示すものであると私は考えました。
 ですが、現実社会に目を向けてみると、令和の現代においてもいまだに差別は無くならないばかりか、SNSの発達とともに誹謗中傷等々の差別発言の嵐が、より一層激しくなってきているのではないかと悲しい気持ちになってきます。例えば、劇中でも語られていた「在日朝鮮人への差別意識」はいまだに根強く残っています。それ以外にも、埼玉県川口市などに暮らすクルド人らへのヘイトスピーチが深刻化しているという憂うべき事態もあります。もっと身近なところでは、児童虐待、いじめ、種々のハラスメント、性的虐待、ジェンダーによる色々な差別等々、挙げればきりがありません。さらに、海外でも某国の返り咲いた某大統領の「DEI(Diversity, Equity & Inclusion:多様性・公平性・包括性)の見直し」や「USAID(United States Agency for International Development:アメリカ合衆国国際開発庁)の海外援助停止」に大統領署名するなど、まるで時代の流れに逆行するかのような振舞には目を覆いたくなるようなのが現実社会なのです。そして、これらの行いは本劇の主要テーマのひとつである「デモクラシー」と相反する、あたかも「時代が中世に逆戻り」し、「差別をしても何ら批判を受けない」かのような「差別の正当化を容認する世界の到来」に危機感を抱くのは私だけではないと思います。
 次に、ここで別の視点から今回の劇を眺めてみましょう。 それでは、今回の劇の演目である「グレイクリスマス」の「グレイ」から、皆さんはどんな事を思い浮かべるでしょうか? 例えば「グレイ」と言えば「灰色の肌に大きな黒目の宇宙人」を思い浮かべる方がいるかもしれません。はたまた、「グレイ」と言えば私の友人の推し活である「北海道出身のロックバンドのグレイ」を思い浮かべる方がいらっしゃるかもしれません。とまぁ、そんなベタな掴みは置いといて、私は「グレイ」という言葉から「絵具のホワイト(白)とブラック(黒)が混ざり合って出来る色(灰色:グレイ)」を即座に思い浮かべました。しかし、一口で「グレイ(灰色)」と言い表しても、人によって脳裏に浮かんでくるグレイの色彩の濃淡には、各々で大きく違ってくるのではないでしょうか?そして、私は「グレイ」の表す意味を現代社会での「自由」や「人権」、あるいは「差別」と「平等」等々に対する我々の立ち位置の度合いを示す「バロメーター(指標)」と捉えてみました。そのうえで、「黒」を起点として「白」に近づくほど理想に限りなく近づいていると定義します。そこで、例えば「自由」について「グレイのバロメーター」で評価すると、現代社会の日本では一体どの辺りに位置すると、皆さんはお考えになるでしょうか?戦後、自前ではなく米国から輸入された「デモクラシー」であったとはいえ、経済発展とともに「自由」は急速に「白」に近い「グレイ」になって来たのではないでしょうか?ですが、その「薄いグレイ」が、現代社会においては何故かしら「濃いグレイ」に逆戻りしているような危惧を私個人としては抱きます。その要因には幾つかあるかと思いますが、その要因のひとつとして私の考えるところでは「不寛容の増大」ではないかと思います。つまりは、戦後の人々の心に高揚感をもたらした「行き過ぎた経済成長(私の主観での見立て)」が反転して、今度は「経済成長の鈍化と衰退」へと向かうことに伴って生じた「社会の閉塞感」が徐々に人々から「心の余裕」を奪い取り、そのことが「他者への不寛容の増大」へと繋がっていって、その結果として「個々人での自由度の減退が加速」しているのではないかというのが、私の個人的な見解です。
 それでは、最後にもうひとつ、私が役者のセリフで放たれた「パンパン」という言葉に思わず反応してしまったことについてお話ししたいと思います。この「パンパン」という表現は、終戦下で家族や財産を失って困窮したために売春に従事することを余儀なくされた女性に対する侮辱的かつ差別的な用語です。多少オブラートに包んだ表現をすれば「街娼」と言っても、その本質に変わりはありません。それで、この「街娼」との言葉から、私は現代社会でのよく似た事例を連想しました。その一例が「トー横キッズ」です。この「トー横キッズ」の何が社会問題かというと、未成年者の飲酒や喫煙、風邪薬等の市販薬の過剰摂取(オーバードーズ)、さらには暴行や殺人など、多くの事件が起きていることです。また、中高生が性暴力や性的搾取などの被害に遭うケースも多発していて、最悪のケースでは自殺も発生しています。ところで、戦争で何もかも失っても、生きながらえてゆくためには「食べる」ことが必要不可欠です。つまりは、先の「パンパン」が戦後の混乱時で口を糊するためには、売春に従事せざるを得ない苦境下にあったからです。それに加えて、やはり彼女らにとっても「希望」も生きてゆくためには必要不可欠と思います。これを現代社会に置き換えると、先の「トー横キッズ」の少女たちは、生きてゆくために「心の拠り所」を欲している、つまりは「(食物以外の)生きる糧(希望)を食べる」ことが必要なのだと思うと、時代を超えて姿かたちを変えようとも、本質的な問題は解決されずに脈々と繋がっているのだと、ある意味において悲しく憂鬱な思いに駆られました。
 以上のように、今回の観劇では、その舞台上から放たれるテーマが膨大かつ難解過ぎて、私の今の力量では到底手に負えるような代物ではありませんでした。それでも、私個人としては、上述のテーマ以外のテーマについても、拙いながらもあれこれと私なりに思索を巡らした考えや意見をご紹介したかったのが本音です。しかしながら、紙面の都合と私の表現者としての力量不足で断念せざるを得なかったのが多少なりとも心残りですが、このあたりで筆を置きたいと思います。

狭い舞台の空間に、これまでになかったような大きな舞台装置。“オオッ”との驚きから始まり、最初から最後まで変化のない“伯爵家の離れの舞台”での迫力ある演技の展開が印象的でした。 “どうぞの席”での観劇だったが、耳が遠くなって、セリフが十分に聞き取れなかったが、筋立て自体はやっとこさ推察できた(と思う)というのが残念で・・、そろそろ限界なのかなぁ。 全体を通じて感じたことは、進駐軍将校(ジョージ・イトウ)の矛盾/葛藤を借りて、進駐軍の日本統治政策の青臭さ/誤りをつき、伯爵夫人(華子)の言動を通じて“デモクラシー”と“日本国憲法(自由、基本的人権/権利、公共福祉、戦争/戦力保持の放棄などを)”を説くという、よくあるような人権劇を、啓発/教育劇を押し付けられたような感覚/気分になってしまった。・・とねぇ。 伯
 爵(五條)に演じさせた、伯爵(貴族達)などいうのは世間知らずで愚鈍な人種なのだ(今の人たちが皆受け入れてしまうような・・)。と揶揄するような設定の、伯爵役(千葉茂則)の演技にはまことにお見事、見事、見事の大拍手を。
 また、権堂が戦後の混乱/動乱期に、まるで“夜叉の下に仏が宿ることはめったにない、いやそうとも言い切れない。夜叉も仏も同じ程度に、人の心に潜んでいる。どちらが勝るかは、誰にも、本人ですらわからないのだから”とばかりに、上手く立ち回ってるという微妙な役柄を見事に演じているのに、もう舞台も終わりという頃に、突然官憲に追われる朝鮮人だったとの下げとはねぇ・・。
 筋立てには全く関係しない、取って付けたような無理筋の侵入が、これまでの微妙な立ち位置を見事に(岡本健一の)演じていたのを“オジャン”と飛ばしてしまったと感じたのは私だけなのだろうか・・。
 福田村事件(関東大震災後の社会不安の中で、“朝鮮人が・・”という流言蜚語の下に、香川の薬行商集団が千葉の自警団に暴行/殺害された)を連想させるような、ステレオタイプな発想がどうもねぇ・・。
 原作ではどうなっているのかは承知していないが、斎藤憐(日本統治下の平壌出身)の作品だそうで、彼はこういう作品を描くタイプなのかなぁ・・、とインプット。
 いろいろと作為的に思想/指向を盛り込まずに、“平穏な日常が、昨日と同じ今日が、今日と変わらぬ明日が、と延々と続くと信じて疑わない(積極的にではなくて、何となくとでも)のが平凡/普通の人々で、ときにそれを退屈だと厭い、ときに幸せだとも感じるのが普通の人の感覚で、人は普通の明日を(何となく)信じて生きている。”という立ち位置の下に、素直にあるがままに表現すればいいのに・・。観客それぞれの時々の感覚に、自由で多様な印象を、解釈をどうぞ・・、と受け取り側に任せていれば良いのでは、と強く感じられた。
 とは言うものの、現の人の生きる道は優しくも温かくもないのも自然で、普通/まっとうさなどの欠片もなく、突然に牙をむくし、穴があき、闇溜まりに落ちることもある。あちこちに罠が仕掛けられていることも。それも、あちこちに巧妙に・・、と戦後の動乱/混乱期を事実として淡々と筋立てしてくれればよかったのにねぇ。
 人は、国家や社会の制約を免れて生きることができない。ところが、日中戦争から対米開戦の道を進んだ当時の為政者を、簡単に切り捨てる知識人がいる。戦争を避けようにも避けられなかったという“時代の背景/制約”に、まるで考慮が及んでいない。“戦勝国”の歴史観に沿った懺悔を、日本はたびたび強いられてきた・・、と誰かが言っていたような気がする。
 ところで、お受験で忙しく/密度高く/切羽詰り/時間の足りない青春時代(半世紀以上前の十代後半)に、ジェームズ・ブラウン/アレサ・フランクリンやダイアナ・ロス&ザ・スプリームスなどの、ファンク/ブルース/ゴスペル感の強いR&B、ソウルフィーリング/味にどっぷり浸かり乍ら、また映画「卒業」の主題歌“サウンド・オブ・サイレンス”、“ミセス・ロビンソン”、“明日に架ける橋”のサイモン&ガーファンクル等々に心地よく魅せれているのと同時に、その対極にある“コテコテの和/日本”を象徴するような、大映の任侠もの映画/「入ります・・」に痺れてしまい、江波杏子の“女賭博師シリーズ”にハマリまくっていた時に鑑賞した同じ大映作品の“戦後残酷物語” (後に“ノストラダムスの大予言”を著した五島勉の実話を下にした作品で、いわゆるポルノ映画ではないが、18禁の成人映画で~大映にはこういった“ポルノのようでポルノでない”作品があった)に大きなショックを受けたことを鮮烈に思い出した。
 この作品は、タイトルの通り、あまりにも残酷な戦後を生きた女性の短い生涯を。平穏に暮らしていた一人の女性が、進駐軍(兵隊)に乱暴されて、転落の人生を歩む姿を通して反米思想が描かれていた。と、当時は感じたことを思い出した。
 戦後、数奇な運命に振り回される女たち。先々で目を背けたくなる残酷な目に遭う姿を。あまりにも惨い米軍のふるまいを。彼らの罪悪感の無さを、屁理屈/説教臭なくありのままを(実話をもとに)描き、その事実をどのように感じ、考えるのかは観客まかせだったことを思い出した。
 過ぎ去った日々を惜しむ気持ちも、悔いる思いもないけれど、年々時の脚が早くなっていると感じる。歳を取った証だろう。
 この頃“いつの間にか・・・”ということが多くなった。いつの間にか時が経ち、いつの間にか季節が移ろい、身の回りから馴染んだ人達や物が失せていき、気のあり方も鈍くなっていくようだ。
 易々と忘れ、記憶が覚束なくなっていく。それが人の理かとも思う。なんでも克明に覚えていては、生きていくに苦しい。若い頃の華やかさや夢を惜しみ続けるのも愚かだ。だとすれば忘れるに限る。でも、忘れずに記憶に残っているものも数多くあるのが現だ。

GHQ統制下の空気感が伝わりました。アメリカ人も迷いながら、異国で理想を遂げようとしたり、本当に皆さんが悩みながらも未来を作ろうとしたんだなあーと。
 権堂役の岡本さんの動きとセリフがスムーズで魅せられました。

鳴門例会カーテンコール

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